いいだろうか

数年後if

「キスをしても、いいだろうか」
 ことん、と。
 まるで物を落とすかのような、不意にかつ唐突に言葉が吐かれた。言葉の主はグラジオで、呟くようなそれは確かに目の前にいる女性――ピエリスへと向けられている。
 グラジオの顔色は変わらなかった。ここ数年ですくすくと育った彼は、かつての面影を残しつつも精悍で研ぎ澄まされた美男子へ変貌を遂げている。歳を重ねて精神的にも大人になり、前より堂々として、財団の代表代理という立場もそこそこ板についてきた頃だ。シルヴァディとの名コンビは財団内外に轟いている。
 アローラの陽射しに負けない白い肌は、けれどもほんのりと染まることはない。まるで事もなげに発せられた冒頭のひと言は恐らくまさにその通りなのだろう、未だ平行線のままどうにもならない2人の仲を、どうにかして打開しようと投じた爆弾じみた宣戦布告であった。好きと言っても聞かなかった。慕っている、は恋愛として掴めなかった。その結果、グラジオは態度として、肉体的に突破しようと試みた。それが先立っての言葉だ。
 そして――彼の放りなげた爆弾はなんとかかんとか功を奏したようで、能面じみたピエリスの顔色を、あれよあれよと乱してゆく。ピエリスは取り乱していた。いつもはのらりくらりと顔色ひとつ変えずにレスポンスを返す彼女であるのに、今だけはまるで生娘のように顔を赤らめて後ずさる。少し前までは見上げていたはずなのに、今やピエリスのつむじすら見えそうだ。
「だ、――だめ、です」
「なぜだ」
「なぜって! そんな、そんなの、わたし、できません」
 もう一歩後ずさったピエリスの左手が、馴染み始めた執務机に当たって小さな音を立てた。日常に投下された非日常が住まうここは、代表代理としてグラジオが書類仕事を片づける、いわゆる執務室のようなもの。真っ白い空間のなかを壁に這う本棚の背表紙が彩り、明るい照明は真夜中だろうと眩しさを誇る。こんな場所で右腕に接吻を切り出すだなんて――否、ここでないとダメだったのだ。
 ピエリスはよく逃げる。会話だってかわすのがうまい。だからこそ、逃げ場のない場所が都合が良い。逃げ場がないのがいいのなら他にもいくつかあるのだけれど――残念ながらグラジオはもう子供ではないので、少しでも欲を刺激する場所は避けておきたかった。たとえば寝所とか、ホテルとか、ポケモンセンターの一室とか。そうなったらゆっくり登ってきたはずの階段を数段飛ばしで飛び越えてしまうことにもなりかねない。男としては避けたい事象だ。
 そして、あわよくば支障のない程度には日常に爪痕を残せるように。そう思って選んだ執務室というシチュエーションは、果たして吉と出るか凶と出るか? 逃げまどうピエリスの腕を掴んで、グラジオは吐息のかかりそうな距離に迫った。背後には色のうるさい本棚がある。それでもピエリスは、体をにじって逃げようとした。
「だめです、わたし――そんなこと」
「ピエリス」
「そんなことしたら! ……わたし、何にも我慢できなくなります。グラジオさまのあれもこれもが欲しくなって、全部、わたしのものにしてしまいたくなる、」
「オレだって。……オレだって、ずっとオマエのことを――」
「わたしはもっと汚いんです!」
 本当に、わたし、欲深いんです――言葉を絞り出しながら、ピエリスは泣いた。
「一度でも許されてしまったら、もう歯止めなんて利かなくなるんです。ストッパーなんか壊れてしまう。もっともっとって、グラジオさまが欲しくて欲しくて、もう、今だってこんなにうるさいのに――」
 ピエリスが豊かな胸を押さえる。ぎち、と音がしそうに掴まれて歪んだそれは、今にも瓦解しそうな彼女の心象を表しているのかもしれない。
 頬には色のない血が伝う。ピエリスは、顔を真っ赤に染めて、ぐちゃぐちゃに顔を乱しながら泣いた。ごめんなさい、浅ましくてごめんなさいと、涙のあいまに感情を吐露しながら、やがてその場に崩れ落ちる。唯一グラジオに掴まれたままの左腕だけ高く掲げて、膝を抱いて泣きじゃくった。
 初めて、だった。ピエリスがここまで感情を剥き出しにすること。彼女はいつも静かだった。静かに、控えめに、ポケモンバトルでこそ苛烈な面も見せたけれど、それだってこんな癇癪じみた暴走ではなかったはずだ。何年も見てきたはずの想い人が覗かせた新たな一面に、グラジオもまた心を麻痺させている。
 ほんの賭けのつもりだったのに。ほんの少し、せめて現状が変わるようにと、軽くはないが嘆願を込めて申し出ただけのつもりだった。いつもみたいに流すと思った。否、流されてはいけないのだけれど、心のどこかでまたいつものようになあなあで終わるのだろうなと、そんな諦めは確かにあった。それがどうだ、今ここにいる彼女はなんだ、ピエリスは今、こんなにも――
「ピエリス」
 まず、その場にしゃがみこんだ。膝を抱えた彼女の顔は見えない。けれども出来るだけ目線を近くにしたかった。近づきたかったのもあるし、何より怯えさせたくない。なんと言おうと何があろうと、彼女が愛おしいことには変わりないから。
「すまなかった」
「! ――あの、グラジオさまが謝ることなんて、何にも、」
「あるんだ」
 ピエリスが顔を上げる。涙に濡れてべしゃべしゃになったその顔は、けれどもひどい狂おしさが募った。今すぐ触れてしまいたい、心の機微を見せた彼女を、今すぐにでも貪りたいと思うほど、この気持ちはずうっとずうっと膨れ上がって張り裂けそうだ。
 この問答でそれがピエリスも同じであることがわかった。それだけでも御の字だと思えば――なんて、そんな無責任な言い分が許されるものか。傷つけた自覚は持たねばならない。忍耐と理性の盾で生きていた彼女の、いわば矜持を無理矢理に突き崩してしまったのだから。
「オレは、オマエを傷つけた。オマエを泣かせて、間違えたんだ。だからそのことは謝らなければいけない。人間として、男として」
 ピエリスの顔を見る。未だ涙はほろほろと流れ続けていた。そのひとしずくをそっと拭って、戸惑う藤色を追う。グラジオさま、と躊躇いがちに呼ぶ声色は、聞いたことがないくらい頼りなかった。
「ごめん」
 痛ましそうに顔を歪めながら、ゆっくりとピエリスは首を振る。唇を噛みしめながら紡ぐ言葉は、やはり弱々しかった。
「わたしも、急に、取り乱して。申し訳ありませんでした。……その、わたし、びっくりして」
「びっくり……?」
「あの……わたし、グラジオさまに話しかけられる直前まで、ずっとグラジオさまのことを見ていました。だからその、見ていたことはもちろん、下心とか、そういうのがバレてしまったのかと」
「…………」
「それで、パニックになって、あれやこれやと吐き出して、しまいました。すみません……」
 ぐず、と鼻をすすりながら、ピエリスは気恥ずかしそうにグラジオのことを見つめている。透き通った藤色は涙のせいで赤くなった目元に彩られ、ある種の蠱惑的な色気を湛えていた。濡れた瞳は扇情的だ。少し背中を押されでもすれば、すぐさま落ちてしまいそうなほど。
 いつもの調子が戻っているようでいて、それでもやはりピエリスはどこか様子がおかしかった。俯いたままこちらを見ず、そわそわと落ち着かなそうに視線を彷徨わせる。なんとなく理由は察せられどもここで離してしまえばすべてが水の泡となる。すまない、と心のなかで謝罪をしながら、グラジオは掴んでいたピエリスの腕をつたって指先を絡め取り、彼女の顔のすぐ横、青い本に手をついた。ひく、と肩を揺らすピエリスは、グラジオの様子をうかがっている。
「……今まで、なあなあにされてきたから」
 グラジオが言葉をつむぐ。今じゃなければいけない気がした。今きちんと伝えないと。代表代理とその右腕、または秘書、代表の息子とお目付け役、おぼっちゃんと世話係、そんな曖昧で義務的な名前は取り去ってしまいたい。今すぐにでも、今でなければ、この関係は、壊せない。
「ちゃんと伝えておこうと思う。オレの気持ちを、ずっと、何年もここに仕舞ってきたから」
 あいた手を取って、おのれの胸にあてがわせる。どくどくと鳴り響いてやまない鼓動が伝わってしまうだろう。うるさいそれを感じたピエリスはまたはらりと涙を流して、くしゃくしゃに顔を歪めながらこくこくと頷いた。弾けるように宙を舞う、涙の粒が印象的だ。
「好きだ。ピエリス。オレはオマエが愛おしい。オマエに側にいてほしい、秘書だけでも右腕だけでもなくて、恋人としてのオマエもほしい」
「――――」
「母上のことも、リーリエも、みんなのことを想ってくれる――オマエじゃなきゃ、ダメなんだ」
 長い前髪に隠れたエメラルドが、熱っぽくピエリスを見つめている。嘘はない。冗談でもない。元よりグラジオはこういった真剣なシチュエーションで茶化したりするのは好きでなかった。心から、文字通り溢れるような彼の言葉は、確かにピエリスの奥の奥の奥をふるわせたようだ。
「わたしも――」
 ピエリスは、涙に言葉をつまらせる。ごめんなさい、と断りを入れて身を丸めるピエリスの背中を、グラジオはゆっくりと撫でた。落ち着くまでは、たとえ落ち着いても置いていくことなどするものか。
 グラジオの手のひらにあやされて、ピエリスは少しずつしゃくる呼吸を鎮ませた。もう平気です、そう言って離れようとする背中をそのまま押さえ込んで抱き込む。ピエリスは抵抗しなかった。そのままグラジオの肩に頬を預け、ゆっくりと口をひらく。
「わたしも、その、好きです。あなたにお会いしたときからずっと、わたしの胸はあなたへの狂おしい想いでいっぱいでした。あなたのためなら命だって惜しくない、その想いも変わりません」
「ピエリス、それは」
「もちろん、あなたを独りになんてさせたくありませんから、這いずってでも生きるつもりですけれど。物のたとえですよ」
 ね、と微笑んだような口振りに、グラジオは深いため息をつく。どうやら今度こそいつもどおりに戻ったようだ、こののらりくらりとして掴みどころのない物言いはまさにピエリスのそれである。
 ぐっとピエリスの肩を押して、再び本棚へと縫いとめる。まだ赤いままの瞳をぱちくりさせながら見つめられ、グラジオは一瞬息を詰めた。けれど今なら大丈夫だと、そんな確信と共にあるのもまた事実。
 ピエリス、と名を呼んだ。グラジオの意図したことがわかったのだろう、ピエリスは微笑んで彼の言葉を待つ。
 きっとこの目はすぐ閉じられる。グラジオが申し出を続けたあとで、了承の代わりとして、ゆっくりと。慈しむようなその仕草を思って、グラジオの胸はまた揺れた。今までのわだかまりじみたものとは違う、愛おしさを溢れさせて。
 ふう、と深呼吸を繰り返す。みっともなく震えた声を抑えつけるように、グラジオはまた口を開いた。
「――キスをしても、いいだろうか」

 
20170926