たとえこの手が折れようと

 恭しく頭を下げる姿はどこか機械的でもあった。どことなく虚ろで人形のような、人らしい感情や営みの感じられない「器」のようなその姿。
 よろしくお願いいたします、極力失礼はないよう努めますので。抑揚を限界まで削ぎ落としたような語り口であるが、少女と向き合った幼い少年は怯えたり訝しんだりする様子は露ほども見せない。
 ただ、上等なエメラルドの瞳をうんと輝かせて虚ろの少女に抱きついた。
「きょうからよろしくね、おねえさん!」
 そのあたたかくも愛おしい響きに、少女はまるで初めて呼吸を始めたような感覚を覚えていた。

 

「――大丈夫か、ピエリス」
 ぼんやりした意識の向こうからかけられた呼び声。ひどく優しいその響きに胸がじわりとあたたかくなる、そんな感覚に浸りながらわたしはふと目を開けた。刹那、眼前には見慣れた爪先があり、顔をあげると気遣わしげなグラジオさま。あれ、と口に出しながら、わたしは自分の状況を鑑みる。背中には真っ白い柵があった。なるほど、これにもたれていたからなんとなく背骨が痛むのか。
「こんなところにへたり込んでいたものだから、体調でも悪くしたのかと思ったんだが……平気そうでなによりだ」
 ツツ、と小さくツツケラが鳴く。肩に乗せたツツケラのくちばしをつつき戯れるグラジオさまは、伏し目がちながらひどく穏やかなお顔で笑っていらした。よく見るとこの子は先ほどまでわたしと遊んでいた子であり、もしかするとこの子がグラジオさまを呼んできてくれたのだろうか? それは大変に申し訳ないことをしてしまった、どうやって埋め合わせをしよう。
 とりあえず服についた汚れを払い、わたしはその場を立ち上がる。ふう、と大きく息を吐けば、ぼんやりした頭が少しだけ覚醒した気がした。
「何をしていたんだ?」
「? ……ああ、ええと――どうやら眠っていたようです」
「眠って……ここでか?」
「はい。なんだか良い心地になって」
 ここはエーテルパラダイス2階に建設されたポケモン保護区。数多のポケモンが心身の回復につとめられるよう環境の整備は完璧に近い。特に空調面は徹底されており、区画によって温暖であったり寒冷であったり擬似的な海にも等しい環境を作り出していたり、とにかく財団の技術と財力が惜しみなく発揮されている場所だ。わたしはあまり寒い場所が好きではなく、どちらかというとあたたかいところが好きであり、ゆえにこのアローラはわたしにとってもたいへん過ごしやすく、同じようにアローラの一般的な気温を保ったこの区画はわたしに心地よいまどろみを与えてくれた。ツツケラやオニスズメのさえずり、ピカチュウたちがないしょばなしをする声、ニャースの作戦会議。あちらこちらで聞こえるポケモンの生活音によってわたしはあれよあれよとうたた寝に勤しんでしまったようである。
「疲れているのか? 最近慌ただしかったからな……」
「いいえ、その点は心配ございません。体力には自信がありますし、それに――」
「それに?」
「はい。とても、いい夢を見ることが出来ましたから」
 怪訝そうに首をかしげるグラジオさまと、それに同調するツツケラが可愛らしい。グラジオさまは本当に、ポケモンと愛し愛されの関係を築かれる素晴らしいお方だ。
 ――わたしの見た夢。それは、わたしがわたしとして覚えた初めての記憶にもひとしい。ただひとり、小さな主人に仕えるものとして、「わたし」という人間の世界が大きく広がった日だ。
 あの日に「記憶喪失の×××」は死んだ。そうして、「エーテル財団のピエリス」が生まれたのである。ただの記号でしかなかった呼び名はあの日にわたしの名前となり、灰色の世界に鮮やかな色彩が灯った。赤、緑、青、黄色、知識として知っていたはずの色をようやっとわたしはわたしの目でとらえられた。あたたかなぬくもりを、この手をとる小さな手のひらによって教えられた。
 わたしは――わたしの敬愛するご主人様により、今ここに立つだけの力を頂いているのだ。
「グラジオさま」
「うん?」
「愛しております。ずっと」
 何を意識したわけでもなく、自然と口から言葉が出る。お世辞でも間に合わせでもない本心からのわたしの言葉だ。
 突然のことに慌てふためくようなグラジオさまの肩からツツケラが飛び立ったけれど、それでもわたしの口は止まらない。滑らかに心よりの言葉を吐き出す。
「……ずっと、ええ、いつまでも。あなたがあなたである限り、わたしはずっとあなたのおそばにいますから」
 たとえそれが従者としてでなくとも、人として扱われなくなったとしても。あなたがわたしを求めてくださる限り、この忠義の火は誰にも消し去ることなど叶わない。否、何があってもさせるものか。
「どうか、わたしのことをお忘れにならないでくださいね。何があっても決して、そうです、決してわたしはあなたの手を離したりなどしません」
 あなたに仕えること、あなたをそばで支えること。それが、今のわたしの存在意義であるのだから。

 
4月10日は主従の日!

20170410