わたしだけ

 背中で語る男というのはえてして魅力的に見えるものだけれど、グラジオさまはあの幼くも小さな肩にどれだけの重圧を背負ってらっしゃるのだろう。
 療養中のルザミーネさまに代わり、「代理」という形ではあれど決して少人数ではないエーテル財団の代表というポジションを押しつけられたのはほぼほぼ唐突なことだった。ビッケさまが補佐についてくださっているし僭越ながらこのわたしもお手伝いはさせていただいているものの、いくら伸び代の大きな年頃とはいえ財団員の未来をあの人1人に背負わせるなんてあまりにも無責任で酷なことではなかろうか? 確かにあまり好ましい人柄ではないかもしれないけれど、しばらくはザオボーさまにお任せになったほうがよかったのではないでしょうか。ヌルをシルヴァディへと進化させたその腕前を買われたのだろうか、ただ単に「息子」という立場から選ばれたものなのか、わたしの目にはある種の人身御供にも似た狂気が映る。
 いつかグラジオさまがおっしゃっていた、随分と大人しくなったヌルを撫でながらこぼす“もしも”の話。もしも、もしもで思うことがある。それは個人の意志など簡単に捻り潰してしまえるような大人数の「期待」というどうしようもないものをあのときから感じてらしたゆえの言葉だったのかもしれない。もしくは真面目で人情に厚いグラジオさまであるから、自分よりも幼くまだ経験不足なお嬢様にそんな大役は任せられないと、そしてまだ自分のほうが周囲の望む役目をこなせるのではないかと自己犠牲的な考えに走ってしまった可能性もありうる。どちらにしろあの方はご自分の願望や想いに蓋をして、息子として母の代わりを務めることをお決めになったのだ。誰かに押しつけられたものだとしてもあの人は懸命にその役割をこなし、そしてどんどんと大人になってゆく。世間知らずで箱入り息子だったぼっちゃまはもうどこにもおらず、今わたしの目の前に居るのは誰かのために自分を殺すことを知ってしまった強くも憐れで慈悲深い少年だ。この人になら財団を預けられる、そんな確信を持つ一方でこの人のためなら全てをなげうってもまだ足りないと思わせるほど狂おしい。細くも男の子らしくなった肩を眺めるわたしは、小さくグラジオさま、とその愛おしい名前を呼ぶ。
「なんだ、いたのかピエリス」
 目を見開いて振り向く姿は年相応に可愛らしく、出会ったばかりの表情豊かな彼を思い起こさせるに充分だった。……「可愛い」なんて言えばまた顔をぐっとしかめてしまうのだけれど。
「どうした、いつもより思いつめたような顔をしてるな」
 ――そうやってまた、あなたは誰かを気遣う言葉を吐かれるのですね。
 何でもございません、大丈夫ですよ、そう答えればグラジオさまは言葉少なに頷いてまた前を向く。ここはポケモン保護区であり、彼の視線の先にあるのは先日保護されたばかりのキャタピーだった。人懐っこいがゆえに虐げられたキャタピーはそれでも人を嫌うことなく、財団員のみならずグラジオさまのこともひどく慕っているようで、誰かが近づくと痛む体を押してまでやってきてはピィピィと鳴いている。わたしにはポケモンの言葉なんてわからないけれどそれが罵倒でないことくらい長年の経験でわかること。グラジオさまも同じなのだろう、少しだけ惑う様子を見せたあと傷口に触れないようにキャタピーを抱き上げてみせた。
「あたたかいな。生きている」
「ぴ?」
「抱けば、触れれば、“命”がここにあるのがわかる。……母上が守ろうとしていたのはこういうものだ」
 だからオレは、と言う静かな叫びは不自然に途切れた。何をやってやがる、と自嘲気味に吐き出す言葉が痛々しい。グラジオさまの、言うなれば迷いを察したらしいキャタピーが労るようにグラジオさまに身を寄せては慰めるようにピィピィと鳴いていた。2人とも傷だらけだ。目には見えない傷を抱えるグラジオさま、そしてキャタピーもそれは同じく、目には見えようと見えなかろうと傷痕に優劣などつけられない。そんなものを勲章のように見せびらかすのはもはや子供のすることだ。
 この人は大人になってしまった、大人にならざるを得なくなった。子供が子供らしく振る舞うことを大人が許さないのなら、そんな場所に身を置かざるを得ない今、わたしのすべきことはきっと。
「なッ――ま、ピエリス……!」
 この人を、抱きしめてあげることなのだ。

 

 ぽよん、と頬に感じたのは在りし日に求めていた安らぎにも似た感触。
 男のオレには到底持ちえないそれがピエリスに抱かれたがゆえの感触だと理解するのにもそう時間はかからなかった。いきなり抱き寄せられたことでバランスを崩した体は不格好に寄りかかる形となり、さすがに手負いのキャタピーも居心地が悪そうにもがいている。やめろ、そんなに暴れると傷が開く。落ちつかせるように撫でればキャタピーは次第に大人しくなり、しかし同じようにこのオレがピエリスになでまわされるハメとなった。
 何をする、と身を離す気になれなかったのはなぜだろう。いつか母上に抱かれた日のことを思い出したからだろうか、それともピエリスと出会った日を過ぎらせたからか、もしくは今ここにいるピエリスの微笑みに見とれているからなのか。ひとつ言うならオレは今すこし心が安らいでいる。ここのところずっと息が詰まっていたのかもしれない、久方ぶりに深く深くゆっくりと深呼吸をすれば胸のつまりがとれた気がして、しかし、これは、
「我慢、しないでくださいね」
 ほろり、ほろりと頬を伝う雫は何なのか。オレはそれに気がつかない振りをしたい、けれどそうもいかないのはこれが止まってくれないから。ほろほろと伝い落ちる雫がキャタピーの触角を濡らし、不快そうに頭をぷるぷると振る姿をオレはただ眺めていることしか出来ない。
 いつからだ。いつからオレは“これ”を溜めていたのだろう。ずっと腹の奥にしまい込んでは見ないふりをした、果たして何年分のものなのか。どうして今になって決壊するのだ、壊させたのは他でもないピエリスで、しかしそれに不快感など微塵もなく、オレはただ溢れて止まらない感情の濁流に身を任せては縋っている。声を上げているのかもしれない、わからない、もはや無音のなかでオレは、ただひたすらになりふり構わず幼子のような姿をさらすのだ。
「誰も知りません、わたしとこの子だけですから、大丈夫」
 大丈夫、大丈夫、そう何度も繰り返しながらオレを撫でるピエリスの手は、まるで遠い日の母上のようにあたたかくて優しかった。

 
20161225