02

 ――今週の土曜な。問題ないで、空けとくわ。

 スマホロトムを介して送ったメッセージの返事が来たのは、送信してから数時間後の、静かな夕暮れの頃だった。思えばあの日も人を待たせていると言っていたし、なかなかどうして多忙な身のうえであるのだろう。
 彼女は――チリはわたしよりも素っ気ない文面で、快諾の意をあらわしてくれた。ほんの少し時間を置いて、詳しいことを相談するためメッセージを返す。
 わたしもよく「淡白な文だ」とのお言葉を頂戴していたが、チリのものはそれ以上にすっきりしていて、無駄を削ぎ落としたような造りをしている。それこそ彼女の見てくれをあらわしているかの如く洗練されていて、ほんの少し、ひんやりとするような。男性ならまだしも女性からもたらされるこの印象は、なんとなく新鮮で、不思議でもある。

 スマホロトムをスリープさせ、ゆっくりとベッドに横たわる。今日はグルーシャのコンディションが芳しくなかったので、トレーニングを午前中で切り上げてちょっとしたお休みを設けていたのである。ナッペ山大会もすぐ目の前に控えているし、体はもちろんメンタル的にも万全の状態で臨まなければならないのだから、こうしてゆっくり休む日を作るのはべつに悪いことではない。
 グルーシャ本人はもちろんのことだが、万全を期するべきはこのわたしだって同じだ。マネージャーとしてあの子のために全力を尽くすのは当然の役目であるし、わたしが不調だったせいであの子に悪影響を与えるわけにはいかない。選手以上に落ち着きはらい、つとめて冷静に振る舞うことはマネージャーとしての義務なのだ。
 しかし、なんとなく胸騒ぎがしているのも事実だった。ナッペ山大会で何かが起こる――それこそ、グルーシャの身にとてつもない災難、もしくは災厄のような事件が襲い来るのではないかと、そんな不安がこの胸の奥にこびりついて離れない。ナッペ山大会が近づくにつれてその疑念は大きくなり、今日なんかはわたしのほうもトレーニングに集中できないほどだった。
 グルーシャにたいしてはとにかく休めと半ば無理やりウェアを脱がせて家に押し込んだくせに、かたや自分はこんなにも浮足立っているなんて――その事実がひどく情けないふうに思えてしまい、半ば自嘲まじりに連絡した相手こそがチリだった。先日のお礼がしたいのは本心だったし、珍しい人と話せばなんとなく気分も晴れて、次の大会に集中できると考えたのだ。
「六連勝」というある種の節目。ポケモントレーナーにとって――そして、スノーボーダーという雪に関わる人間にとって「六」という数字は人より大きな意味を持つ。持ち運べるボールの数。ポケモンの備える能力値の種類。雪の結晶のかたち。昔読んだ何かの本でも六角形について言及されていたような。
 少し逸れるが現状確認されているポケモンのタイプは六の倍数である十八だし、いくつもの「六」が折り重なってわたしたちの生活は成り立っている。
 ゆえあってか、此度の大会に際しては、わたし自身ひどく緊張しているのだっあ。

「……情けないわ。こんなことばかり考えてしまうなんて、マネージャー失格かしらね」

 わたしの独り言に気を引かれたのか、グレイシアがベッドの下からゆっくり近づいてくる。冷たい体を抱き上げて寝転がった腹のうえに乗せてやると、不意な刺激のおかげで肩の強ばりが少し和らいだ。
 体は少々冷えたようだが……まあ、あとでホットココアでも飲めばすぐに温まるだろう。

「土曜日、チリに会いに行くわ。この間わたしを助けてくれた人よ」
「シーァ?」
「そうね……一緒に行く? あなたにもチリのことを紹介したいし」
「シア! シィア!」

 上半身をゆっくりと起こし、グレイシアを撫でながら話す。普段はれいせいで静かにしているグレイシアだが、お出かけと言われるといささか気分が上がってしまうらしい。

「ふふ……楽しみね」

 テーブルのうえのカレンダーに目を向ける。チリと出かけるのは今週の土曜日――四日後だ。

 
  ◇◇◇

 
「おーい、ヴィーシニャ~」

 テーブルシティの人混みの中。背後から名前を呼ばれたわたしは、反射的にそちらを振り向く。人波の向こうにはすらりと伸びた長身の、ひどく人目を引く容姿をした待ち人のすがたがあった。
 チリは以前と変わらない、人好きのする笑みを浮かべながらわたしの元へと近寄ってくる。

「あら……ごめんなさいね、待たせてしまったかしら」
「いんや、今来たとこ――って、なんでやねん! チリちゃん、せっかくちゃんと『ヴィーシニャ』って言えるようになったのに、あからさまなスルーはあかんやつやで」
「え……あ、あら。ほんとうだわ」

 ひどく流暢、かつスムーズすぎてわからなかった。言われて初めて、彼女に名を呼ばれていたことに気がついたのである。
 チリの紡いだ「ヴィーシニャ」という響きは生まれてこの方ずっと聞いているそれとまったく相違なくて、ほんの数日ですっかりマスターした彼女に目をみはる。……あんなにも覚束なかったのに、よくもまあこれだけ完璧に発音できるものだ。

「ごめんなさい、あなたの発音があまりにも自然だったから、全然違和感がなくて……すごいわ、チリはとっても努力家なのね」

 思うがまま、心からの賛辞を送る。するとチリは拍子抜けしたようでもむず痒そうでもある曖昧な表情を浮かべ、やがて肩をすくめて息を吐いた。

「なんか……自分と話してると調子狂うわ。……なあ、あんたもそう思うやろ?」

 ちらりと目配せするチリは、わたしの傍らに控えていたグレイシアに話しかける。グレイシアはチリの言葉に深く頷いていて、その様子を見れば一人と一匹が意気投合したであろうことはすぐに読み取れるだろう。初対面ですっかり通じ合ってしまったらしい素振りは、なんとなく笑いを誘うものだ。

「へーぇ……ずいぶんお利口さんのグレイシアやねえ。付き合い長いん?」
「ええ、この子はわたしの初めてのパートナーだから。物心ついた頃から一緒なの」

 わたしの言葉に軽く相槌を打ちながら、チリはその場に座り込んでグレイシアの頭や顎を撫でる。普段ならやや警戒姿勢を取るグレイシアがチリにたいしてはすっかり気を許していて、改めて彼女という人間のコミュニケーション能力を突きつけられたような気がした。……わたしには一切ないものだ。

「なんや、チリちゃんのポケモン気になるんか? しゃーないなあ、今日だけやで」

 グレイシアにモンスターボールを突かれていたチリが、それとなくもったいぶりながら、おさめられたポケモンを解き放つ。
 愛嬌たっぷりに出てきたのはパルデア地方にのみ生息する特殊なウパーで、見慣れないわたしたちに萎縮したのか否か、すぐさまチリの後ろへと隠れてしまった。長い足の隙間からこっそり顔を覗かせる様子は、ひどく愛らしくて庇護欲をそそる。

「種類についてはヴィーシニャのほうが詳しいやろから、そっちの説明は省くで。この子、チリちゃんがパルデアで初めて捕まえたポケモンやねん」
「まあ……! とっても可愛いわね。皮膚が乾いた様子もないし、しっかりお世話されているのがわかるわ」
「お! さっすがあ、よう見てくれとるやん。もうなー、可愛いて可愛いてしゃあないねんな」

 足元のウパーを優しく抱き上げたチリは、深い愛情を覗かせながら微笑んでいる。伏し目がちの微笑は彼女の造形美を際立たせ、通行人が何人か振り返っているのが目に入った。
 彼女の手袋はきっと、こうしてウパーに触れるために身につけているものなのだろう。それだけでも彼女によるウパーへの愛が読み取れるし、同時に彼女が信頼できる人間であることもわかる。
 わたしの視線を感じ取ったのだろうか、チリはウパーを抱き上げたまま、こちらに向かって話しかけてくる。

「ほんならそろそろ行こか? チリちゃん、今日のお出かけけっこー楽しみにしとったんやけど」
「あ……そうね、時間は有限ですもの。じゃあ、まずはこのテーブルシティから見てまわりましょうか」

 ……いけない、今日の目的をうっかり忘れるところだった。わたしは彼女の言葉にハッと意識を引き戻して、導くように歩き出す。
 こうしてチリを呼びつけたのは他でもない先日の埋め合わせをするためなのだし、今日はチリ専用のパルデア特別ツアーを執り行うのだから、こんなところで思案にふけっている暇はないのである。
 
 あれから少しずつ予定のすり合わせをするなかで、わたしたちの目的は「パルデアの要所や百景を見てまわる」という方向に落ちついた。そうして手始めに選ばれたのがパルデア地方随一の学び舎、わたしの母校でもあるグレープアカデミーだったのだ。
 ここには個人的な思い入れももちろんだが、他地方からわざわざ転入してくる人間もいるほど名の知れた場所であるので、皮切りには最適だと考えた。ここの蔵書や資料から他の場所に興味を持ってもらえたら御の字だし、であればその流れでチリの行きたいところへ連れて行ってあげたいと思ったのである。そのためにツアープランは何パターンか考えてきた。
 何より、他地方からの転校生も多い場所であるならば、もしかするとチリと同郷の人間にも会えるかもしれない。そんな期待も、片隅にはあった。

(さすがに、そこまでうまくいくとは思えないけれど――それでも、話のネタにはなるわよね)

 グレープアカデミーの校舎を見上げるチリは、案の定興味や好奇心を刺激されたような顔をしているように見受けられる。彼女の横顔を眺めながら、わたしはこの選択は間違っていなかったのだと胸を撫で下ろしたのだった。

 
  ◇◇◇
 

「……っぷはぁ、めっちゃ歩いたぁ~~~~! もう一歩も歩かれへんわ~」

 サイコソーダを一気に煽りながら、チリは高らかに声をあげた。
 わたしたちはカラフシティの噴水近く、カフェテラスのガーデンチェアに思いきり体を預け、歩きっぱなしの両足を労っていた。気づけば辺りはもうすっかり暗くなっている。
 ぐいぐいとサイコソーダを飲み下すチリの傍ら、わたしの手に握られているのはコジオソルトアイスである。バウッツェルとグレイシア以外にもわたしには何匹か手持ちがいて、そのなかの一匹が色違いのキョジオーンだ。出会いはもう何年も前のことなのだけれど……まあ、その話は割愛するとして、キョジオーンが身近な存在である関係上、わたしはどこかに出かけるたびこれを頼んでしまうのだ。
 柔らかな塩味と冷たい食感は火照った体を冷やしてくれるし、何よりこれを食べれば優しいキョジオーンの顔が脳裏に浮かび、疲れた体もすっかり元気になるのである。

「いや~しかし、そらとぶタクシーってやつ? あれほんま便利やねんな。移動もあっちゅー間やし、まさか今日一日で何個も街まわれるとは思てへんかったわ」
「あなたの生まれた地方には、そらとぶタクシーなんてものはなかったと言っていたものね」
「せやでー。ま、パルデアほど起伏の激しい土地やないせいかもしれんけど……とりポケモン持ってない人は悲惨やったなー」

 故郷を懐かしんでいるのだろうか。薄ぼんやりとした月明かりに照らされるチリの顔は複雑な表情をまとい、彼女の真意を見えなくさせる。

 観光案内はテーブルシティから始まり、そらとぶタクシーを利用してハッコウシティとカラフシティの主要都市を渡り歩いた。今は月光のもとでカラフシティの水の壁を見ながら、今日一日の思い出を語りあっているところだ。
 チリの反応を見る限り、おおむね楽しんでもらえたように見受けられる。

「満足してもらえたようで何よりだわ。しっかりツアープランを練ったかいがあったわね」
「ナッハッハ! ほんま、ヴィーシニャ様々やで。ハハーッ」

 大袈裟に拝むような素振りを見せるチリに、わたしも思わず吹き出してしまう。思えば彼女に向けて笑うのは初めてかもしれないなと、そうよぎった途端のことだ。案の定チリは先日見せたものと同じように目をまんまるにして、わたしの顔をじっと見ていた。
 見られること自体はべつに少なくないけれど、さすがにここまで凝視されると居心地の悪さを感じてしまう。

「あの……ええと、どうかした? そんなふうに見られてしまうと、さすがのわたしも照れてしまうわ」
「え……あー、ごめんな。なんや自分、そうやって普通に笑たりできるんやと思てもてな。そういや、このあいだ弟くんと一緒におるときもそうやったなーって」

 肩を竦めながら身を離すチリは、パッと見こそからりと笑っているふうだったが……しかし、その瞳の奥には興味を隠しきれないようである。
 ……気になってしまう、ものだろうか。わたしが彼女について興味関心を向けるのと同じように、彼女もまた、わたしにたいして何かしらの好奇心を働かせていると。少し垂れ下がった彼女の目つきは、そんな機微を物語っているように見える。
 わたしの口はにわかに開き、ゆっくりと言葉を紡ぎだす。

「確かに、それらしいことは今までさんざ言われてきたわね。グルーシャの前では素直に笑うんだな、とか」
「ってことは、昔からそうなん? 自分、弟くんのこと話すときめちゃめちゃテンション上がっとったもんな」
「それはそうよ。だってわたし、ずーっと弟妹がほしかったんだもの。やっとの思いで出会えた大切な弟なのだから、少しくらい元気になってしまってもいいでしょう?」

 言いながら、わたしはかつての遠い記憶に思いを馳せる。……記憶といってもひどく朧気で、それこそ物心がつくかつかないか、といった頃の話なのだが。

 当時わたしは弟妹がほしくてたまらず、両親に向かって何度もそれを頼み込んでいた。お勉強も頑張るし、クリスマスや誕生日のプレゼントもいらない、ずっとずっといい子にするから弟妹をちょうだい、なんて無理ばかりを言っていた気がする。
 もう少し大きくなってから聞かされた話では、どうやらもっととんでもないことを宣って両親を驚かせていたらしいが……それはきっと、いわゆる親の思い込みというか、誇張表現というか、そういった類のものであるだろう。……とにかく、わたしはそう思っているのでこの件についてこれ以上は控えておく。
 とはいえ、「いい子にするから弟妹をちょうだい」だなんていうのは無理難題も良いところなわけで……両親もよくこんな無謀なお願いを叶えてくれたものだと、今になって思う。自分もそれなりの年齢になった今だからこそわかるのだ、当時の「お願い」がどれだけ厄介な頼みであったのか、が。
 しかし、それだけ必死に頼み込んだのもあってかわたしはグルーシャを文字通り溺愛してしまっているようで、アカデミー時代のクラスメイトでは飽き足らず、時には両親までもがわたしに難色を示していた。世間ではわたしのような人間を「ブラコン」と言うらしいが、わたしに自覚はまったくない。姉として生まれた以上、弟を愛するのは人間として当然のことだと思っているからだ。
 わたしの話をひと通り聞いたチリは、眉間にささやかなシワを寄せ、唇を突き出しながら何やら考え込んでいる。

「へーぇ……よっぽどやなとは思っとったけど、まさかこれほどとはなー。……んま、仲良きことは美しきかなってやつ? 素晴らしい姉弟愛やん」
「そういうあなたは、ひとりっ子なのかしら?」
「さあ……うーん、どうやったかなあ。おったとしても、もう何年も会ってへんからわからんわ」
「そういうものなの?」
「そういうもんや。自分らみたいにめっちゃ仲良し! いつもべったり! っていうほうが少ないもんやで、この世はな」

 先立っての眉間のシワはどこへやら、チリは再び、からりと笑ってこの話に蓋をする。
 それは数分先の彼女とは打って変わって、貼りつけたような、もしくはどこか作り物めいたふうに見える笑みであったが、今のわたしにそこまで踏み込む度胸はなかった。
 親しき仲にも礼儀あり――そんな言葉が脳裏をよぎったせいだ。否、むしろわたしたちはまだまだ親しくなったばかりであるし、そんな自分が簡単に触れていいような場所ではないと直感的に察したのである。無闇やたらと踏み込んで、距離感を誤るような馬鹿な真似などしたくない。

(……いつか、わかるようになったりするのかしら? 彼女の本心だとか、その表情の意味、だとか)

 このまま仲良くしていければ、いつかはきっと――
 淡くも愚かな期待ばかりを抱きながら、わたしはカラフシティの景観を彩る、鈍い月に目をやった。ここ数日の憂鬱などすっかり払ってしまうくらいの月光は、わたしのざわつく胸のうちを、ことさら優しく落ち着かせてくれたのだった。

 
2023/01/26