01

 わたしには、たったひとりの弟がいる。
 彼はとてもひたむきで、努力家で、時には眩しいくらいの光を放つ。まるで陽光に照らされた雪景色のような子だ。わたしにとっては文字通り世界の中心にも等しく、誰よりも何よりも大切で愛おしい存在である。
 あの子が初めて笑ってくれたとき、わたしはあの子のために生まれてきたのだと直感した。あの子のためにすべてを賭けて、あの子の夢を叶えてあげようと誓った。それがわたしの使命なのだと、幼いながらに確信したのだと思う。
 いつかあの子に大切な人ができるまで。家族よりも、夢よりも大事な誰かが現れるまで、わたしはずっとあの子の隣で――いちばん近くでその雄姿を見守っていられるのだろうと、わたしは一度だって、疑ったりしなかった。
 それが、ひどく愚かな思い上がりであるとも知らずに。
 

  ◇◇◇
 

「よう、姉ちゃん。お一人かい?」

 軽薄な声がわたしを標的にしていると気づいたのは、彼が執拗にわたしのことを追いかけてきた頃だった。ハッコウシティのど真ん中、彼は雑踏を縫うようにわたしの後ろをしつこくついてきたのである。
 振り返って初めて視界に入れたその姿は声による印象と相違なく、チャラついた容姿と軽々しい振る舞いはどちらかというと嫌悪の対象だった。
 ひと目見て、「苦手だな」と感じた。だから彼の問いかけに言葉を返すこともせず、さっさと隣を通り抜けてやろうと思ったのに。その男は想像よりもしつこい質であるようで、歩き出そうとするわたしの腕を引っ掴み、乱暴に引き止めてきたのである。

「一人かって聞いただけじゃねーか。そんなに冷たくしなくてもいいだろうがよ」
「……話す必要を感じなかったものだから」
「はあ? ……テメー、ナメた口利きやがって!」

 途端、男の声に怒気が混じる。右手が振りかぶられたのを捉えたわたしの目は、反射的に瞼を動かし、光のすべてを遮断した。……来たるべき衝撃は、いつまで経っても襲ってこなかったが。

「バウ!」
「ッ……んだ、こいつ! いい度胸してんじゃねーか!」

 ――バウッツェルだ。わたしの頼もしいポケモンが、自らモンスターボールを飛び出し、身をていして守ってくれたらしい。
 バウッツェルは香しい体を思い切りいきり立たせ、唸りながら男を睨めつけていた。こんなふうに怒るバウッツェルを見るのは久しぶりで、安心感を覚えると同時に、心配をかけてしまった自分がひどく情けなくなる。

「ありがとう、バウッツェル。いつも苦労をかけてごめんなさいね」
「ばう……!」

 大きな騒ぎになる前にバウッツェルを引かせようと思ったが、どうやら彼の怒りは少し吠えたくらいで収まるものでもないらしく、このままボールに戻しても納得はしてくれなそうに思えた。
 トレーナーとしては、無駄なバトルなんてさせずにこの子を宥めるのが適切なのだろう。けれど、最近弟に付き添って忙しくしていたこともあり、この子たちを運動不足に陥らせていた可能性を否定できないのもまた事実。
 軽い運動くらいなら――そう考えてしまったのは、わたし自身もこのナンパ男にたいして苛立っていたせいなのかもしれない。

「……わかったわ、バウッツェル。あなたがそうしたいなら、わたしも応えるしかないわね」
「あ?」
「いいわ。バトルしましょう、ナンパ男さん。あなたが勝ったら、どこへでもついて行ってあげる」
「なっ……」

 わたしとバウッツェルは、ゆっくりとナンパ男のほうへ向き直る。わたしたちに気圧されたのか男は一瞬ひるんだような素振りを見せたものの、今更引くこともできないのだろう、観念したように懐に手を伸ばし、少しだけ距離を取って、モンスターボールを放り投げる。
 ナンパ男の瞳には、複雑な感情をまとうほのおが宿っていた。

「馬鹿にしやがって……! テメーのそのカッチコチの顔面、今すぐ泣きっ面にしてやらぁ! ――行けっ、アチゲータ! 『ほのおのキバ』!」

 放たれたのはアチゲータである。ポケモンはトレーナーに似るというやつだろうか、アカデミーで見ていた他のアチゲータに比べると、なきごえや所作などをとってもなんとなく柄が悪いように思う。
 こちらが戦闘態勢に入る前に仕掛けてくるあたり、どうやらまっとうなポケモンバトルを楽しむつもりもないようだ。アチゲータの『ほのおのキバ』はまっすぐバウッツェルへと命中して、燃えさかるキバがバウッツェルのやわらかな皮膚に食い込んでいるのが窺える。

「アチゲータを持っているということは……もしかして、あなたもアカデミーの卒業生なのかしら?」
「ああ!? アカデミーなんて今は関係ねえだろうが! それよりいいのかよ、テメーのバウッツェル、俺のアチゲータに手も足も出てないようだが――」
「問題ないわ。だって――」

 わたしが合図を送ると、バウッツェルは大人しくしていた体を思い切り振り乱し、アチゲータを吹き飛ばす。彼の体には歯型などひとつも残っておらず、むしろ『ほのおのキバ』によってその防御力に磨きをかけているくらいだ。

「わたしのバウッツェルにほのおわざは効かないの。……あなた、どうやら勉強が足りないようね」

 わたしのバウッツェルは『こんがりボディ』という特性を持っている。『こんがりボディ』はほのおタイプのわざをおしなべて無効化し、むしろ防御がぐーんと上がるという、とても優秀な特性なのだ。
 わたしの連れているポケモンにはこおりタイプが多いから、弱点のひとつであるほのおタイプのわざを無効化できるこの子は出番も多く、この特性に何度も窮地を救われた。
 アカデミー在学時代にバトル学で学んだ知識が、よもやこんなところでも役に立つとは。
 ピンピンしているバウッツェルを前に、ナンパ男は一気によろめき、動揺を隠せないようだった。

「なっ……う、嘘だろ――」
「勉強不足のあなたに、キバの使い方ってものを教えてあげるわ。……バウッツェル、『かみくだく』」

 わたしの声にあわせ、バウッツェルは後ろ足で地面を蹴り上げ、アチゲータへと襲いかかる。剥き出しのキバが真っ赤な肌に思い切り突き立てられ、一気に体力を削り、結果、アチゲータはそれっきり目をまわして動かなくなってしまった。
 まさか一撃で勝負がつくとは思っていなかったが――この大敗が、彼にとって何かしらの薬になればいいのだけれど。
 うつむいたままの彼に声をかけようと近づく。しかし、彼は此度の勝敗にあまり納得がいっていないらしく、往生際の悪いことばかりを吐いた。

「く、そ……! こんなん、納得できるか! テメー、何かイカサマしてやがっただろ……!」
「イカサマ……? ポケモンのわざならまだしも、バトルに下手な小細工を挟む隙がほとんどないことくらい、あなただってわかっているでしょう? 第一――」
「うるせえ! ……イカサマだっ! この女、俺とのバトルでイカサマしやかった――!!」

 パルデア随一の大都市であるハッコウシティ。その往来で、ここまで声を張り上げられては――先立ってのバトルの騒ぎも相まって、人が増えるのにそう時間はかからなかった。
 なかには男の言う「イカサマ」という単語を拾ってやってきた者もいるようで、彼らの好奇の目はいつしかわたしのほうに集まり始める。……誰もが、わたしを疑っているようだった。
 わたし一人に奇異の目が向けられるのならまだなんとかなるけれど、このままではともすると弟の悪評にまで繋がってしまう。スポーツ誌で六連覇を特集してもらったばかりの今、ちょっとしたことでも盛大なゴシップとして取り沙汰される可能性は決してゼロじゃない。
 しかし、この状況では何を言ってもすべてが逆効果になってしまいそうで、わたしの喉はすっかり詰まり、動くこともできなかった。
 どうすればうまく切り抜けられる――!? 増え続けるギャラリーに肝を冷やしている最中、“それ”は突然にやってきた。
 わたしの目の前をまっすぐ横切る流星。その人影は、張りつめたような空気と共に男の前に立ち、そして、印象よりも人好きするようなふうに喋りだす。

「まーまーま。お兄さん、声デカいんもええけどな、あんまりあることないこと言うてたらあかんよ」
「あぁ!? なんだよ、次から次へと……!」
「いくらポケモンバトルでボコボコにされたからってー、難癖つけて喚くのは人としてどうなんって言うてんねやー!」

 男にも負けないくらいの大声を張り上げ、すべてを語ってくれるその人。
 深緑の髪を風になびかせながらやってきた、流星さながらの立ち姿。いやに整った容姿とその独特の口調も相まってか、気づけばギャラリーは皆静かにその人の声を聞いていたし、男にたいする疑惑の声も数多、あがりはじめている。
 男がすてゼリフと共にこの場を走り去るまで、そう時間はかからなかった。

 
「お姉ちゃん、危なかったなあ」

 先ほどとは打って変わって――否、さほど変わらない様子で、その人はわたしに話しかけてくる。一見すると人を寄せつけないような気配を漂わせているが、笑った顔はやはり人好きのするそれだった。

「え、ええ……助かったわ。急に絡まれるわ、負けても引き下がってくれないわで……正直、とても困っていたの」
「え、ほんまー? 自分、全然顔変えへんから余裕綽々かと思っとったで」
「まさか……あなたが助けてくれなかったら、今頃どうなっていたかわからないわ。とにかく、本当にありがとう」

 言うと、その人は垂れ下がった目をまんまるに見開いて、ひどく驚いているようだった。
 しかしその驚愕もわたしが首を傾げている間にすっかり仕舞いこまれてしまって、すぐ先立っての気さくな笑みにもどる。

「……ま、役に立ったんならよかったけどな。自分、名前は?」
「え? ……ああ、わたしは――」
「ヴィーシニャ!」

 刹那、後方からひどく聞き馴染みのある呼び声がする。
 声変わりしたばかりのそれを受けて弾かれたように振り向くと、そこには想像どおり、わたしの大好きな弟がいた。小柄な体は人混みに飲まれかけていたが、必死にこちらへ走ってくる様子はとても愛らしい。

「グルーシャ……! ごめんなさい、探させてしまったわね」

 途端、わたしの心は春の訪れでも迎えたかのようにあたたかくなる。ふわふわと足元が浮くような心地となり、ナンパ男のことなどすっかり忘れてしまうほど、わたしの心は浮かれていた。
 弟は――グルーシャは不機嫌そうな顔のままこちらに駆け寄ってきて、わたしたちを交互に見やる。

「なんか騒がしいと思って見に来たら……嫌な予感って当たるもんだね。ヴィーシニャ、また変なやつに絡まれてたわけ?」
「あ……ご、ごめんなさいね。でも、今日はバウッツェルと……あと、この人が助けてくれたのよ。ええと――」

 ここまで言って、まだ名前も聞いていなかったことを思い出した。否、それどころか自己紹介の途中であった、ということも。
 わたしの視線ですべてを察してくれたのか、その人は小さく笑いながら、ひどく整った薄い唇を開く。

「まいど、チリちゃんです。最近こっち来たばっかやから、ちょっとしゃべり方に癖はあると思うけど……ま、よろしゅう」
「……男? 女?」
「アッハッハ! よう聞かれるわ! ……ま、とりあえずは女ってことでええで。きみらは?」

 ――女。正直なところ、どちらともつかない人だと思っていたので、グルーシャがそう尋ねてくれて助かった、ところはある。

「ごめんなさい、自己紹介の途中だったのに……改めまして、わたしはヴィーシニャです。こちらは弟のグルーシャ」
「グルーシャ……は、なんか聞いたことあるわ。大会とか出とるんやっけ?」
「ええ、そうなの。よくご存知ね。プロのスノーボーダーとして活動していて、この間はパルデア大会を六連覇したのよ。それで、次はナッペ山大会が控えているのだけれど――」
「アッハッハ、自分、急にめっちゃしゃべるやん! なるほどなー、弟くんのことめっちゃ好きやねんな。――ええと、」

 途端、さっきまで流暢にしゃべっていた彼女が突然歯切れ悪くなる。うーん、と唸る様子は少しだけ幼く見えて、その所作から、わたしは近所の子供に言われた言葉をふと思い出した。

「もしかして、わたしの名前が言いづらいのかしら。パルデアに来たばかりと言っていたものね」
「あー……ごめんな。やっとこっちの言葉に慣れてきたとこやさかいに」
「いいえ、よく言われることだから大丈夫。……そうだわ、わたし、これといったお礼もできていないし、よければ連絡先を交換しない? これも何かの縁だし、わたしでよければパルデアのこと色々教えるわ」
「ほんま? そら助かるわー、おおきにな」

 ふにゃりと笑うその顔は、わたしがさっき見たそれとまったく同じかたちをしている。……まるで、貼りつけたものであるみたいに。
 ――不思議な人だ。わたしが彼女に抱いた印象は、それで固定されたような気がした。
 そうしてチリと連絡先を交換し終えた頃、グルーシャが眉間のシワをひときわ濃くしているのが目に入る。むす、とした顔は相変わらず可愛らしいが、そんなことを言うとことさら機嫌を損ねてしまうので黙っておいた。
 スマホロトムを仕舞ったあとで、ようやっとグルーシャは口を開く。

「あんたら、仮にも初対面だろ? 見るからに胡散臭いし、もしかしたら詐欺かもしんないじゃん」
「も、もう……! 本人を目の前にして言うことじゃないわ。それに、この人はわたしを助けてくれた恩人だもの。だから大丈夫よ」
「最初だけ良い顔するのは詐欺の常套手段だろ! ったく……バウッツェル、ヴィーシニャに何かあったら頼むぜ」
「ばうっ」

 さっきまで大活躍だったバウッツェルを抱き上げながら、グルーシャはため息まじりに呟いている。バウッツェルはグルーシャと気が合うらしく、彼にとてもなついているのだ。
 グルーシャたちの仲睦まじい様子を見ながら、チリはすうと目を細めている。その瞳に何の感情が込められているのかは、出会ったばかりのわたしにはいっさいわからなかったが。

「ほな、チリちゃんそろそろお暇するわ。はよ行かんと約束に遅れてまう」
「あら……! ごめんなさいね、お急ぎのところを引き留めてしまって。今日は本当にありがとう」
「ぜーんぜん。ほなまたな。次までには名前呼べるよう練習しとくから」

 言いながら、チリはひらひらと手のひらを振りながら去ってゆく。逆光で際立った黒手袋がいやに印象的で、わたしのまぶたに強く焼きついた。

「ヴィーシニャ、ぼくたちも行こうぜ。おなかすいたよ」
「そうね、行きましょうか。今日はわたしの奢りだから好きなだけ食べていいわ。フリッジ大会で優勝したお祝いだもの」
「え、ほんと? やった、行くぞバウッツェル!」
「ばう!」

 レストランに向かって思い切り駆け出す二人の背中を、わたしも負けじと追いかける。
 この、当たり前の毎日がいつまでも続くことを願いながら。……突如として生まれた小さな胸騒ぎには、ちっとも気づかないふりをして。

 
2022/12/15