あまったるくて柔らかな

 チリは迷っていた。来たる二月十四日のあまったるいイベント――街がにわかに色めき立つ、バレンタインデーについて。
 他地方出身のチリにはあまり馴染みのない文化だが、どうやらパルデア地方のバレンタインは男性のほうから贈り物をする日であるらしい。もちろん女性からプレゼントを贈ってはいけないなんて決まりはないし、中には愛する人へのお返しとして用意をしておく、律儀な人もいるのだとか。
 チリにとって、バレンタインは女性からチョコレートを贈るのが一般的、という認識である。チリの故郷ではそうだったのだ。恋する女性が意中の人にチョコレートを渡し、結ばれたり結ばれなかったりする悲喜こもごもの一日だと、そんなふうに思っていた。
 しかしこの地においてはまったく趣の違う一日であるようで、どちらかというと恋人や夫婦といった、すでに結ばれた関係にある二人が愛を確かめ合う日であるらしいのだ。
 パルデアに流れ着いて数年。他人と一定の距離を保ってきたチリにとって、バレンタインなどはまるで対岸の火事のような出来事であったが――しかし、今年ばかりは違う。今のチリには特別な人が、ヴィーシニャという無二の存在がいるのである。
 とはいえ、自分たちは同性だ。法的に同性婚が認められているパルデアではべつに珍しいことでもないようだが、チリとヴィーシニャは同性の、女同士で愛し合っている。そして自分たちの関係においては比較的明確に、チリが男役でヴィーシニャが女役、といったふうな役割分担ができていた。
 性別だけなら女であるが、各イベントや振る舞いを考えるうえで、夫、攻め、タチ……そういった役目を背負っているのはチリのほうなのである。
 ゆえに、この場合は自分がプレゼントを贈るべきなのではないだろうかと思い至り、頭を悩ませる。ヴィーシニャとの初めてのバレンタインなのだし、せっかくのイベントをスルーするのももったいない、と思ってしまうせいだ。そうして、ぐるぐる、ぐるぐると、まるでちょうおんぱでも食らったような感覚を覚え、悩み抜きながらこの数日を過ごしていた。
 何より、他でもないヴィーシニャがそれを期待しているかもしれない。パルデア地方で長く暮らしている彼女にとって、バレンタインといえば「恋人からプレゼントをもらう日」であるだろうし、初めての恋人と過ごすバレンタインに心を躍らせているであろう彼女を、むやみに裏切るようなこともしたくなかった。
 ……愛しているから、喜ばせたい。それは恋人を想う人間ならば、ごく自然な考えだろう。
 
 そして、その疑念がいよいよ現実味を帯びたのはバレンタイン当日の今日、通勤途中に「今日は別々に帰りましょう」と言われたときだった。
 共に暮らすようになってからは出社も退社も極力一緒であったから、そのひと言に一抹の淋しさを感じる傍らで、いよいよチリのなかにある「疑惑」が「確信」へと進化する。よりによって今日という日にこんなことを言うなんて、つまるところ、“そう”なのだ。
 ――ヴィーシニャは、きっと期待している。チリからバレンタインのプレゼントが贈られることを。帰路を別にする理由など明白で、おそらく「もしもまだプレゼントを用意できていないのなら、今日の帰りに買ってきてね」という、彼女なりの気遣いだ。
 いくら異常なほどに献身的な気質とはいえ、あのヴィーシニャもかくや、こういったイベント事には心を躍らせてしまうのだろう。
 女とは――チリの出会ってきた“そういう”女たちは、だいたいこうであったから。

 
「さて……ほんまにどないしよかな」

 独りごちながら首をひねる。テーブルシティの華やいだ光景を横目に、寒空の下でショーウィンドウを眺めていたが、しかし、良くも悪くもヴィーシニャのことばかりを考えてしまって、なんにも頭に入ってこない。
 ……結局、彼女もそうなのか。チリの足元から這い上がるモヤはやがて腹のなかへと入り込み、どんどん気分と足取りを重くさせる。
 彼女は……彼女だけは、そうではないと思っていた。思わせぶりで、構ってちゃんで、面倒くさい誘い方などしない、すなおな人だと思っていたのだ。あまりに身勝手な思い込みなのは否定しないが、過去の嫌な記憶は想像よりも深くチリを蝕んでいるようで、気づけば背中に嫌な汗まで伝いはじめていた。
 集中できない頭でなんとか買い物を済ませて帰路につく頃には、もはや深いため息を隠すこともできなくなっていた。
 右手に携えているのは六花をあしらったネックレス。ヴィーシニャを彷彿とさせるような、柔らかくてほのかに輝く雪の結晶が印象的である。

(あれ……まだ帰っとらんのか)

 しかし、我が家にたどり着いたチリを出迎えたのはぼんやりとした薄明かりではなく、静まり返った真っ暗闇だった。ポケモンたちの気配もなく、鍵を開けて中に入ってもヴィーシニャの声は聞こえてこないし、お出迎えのたぐいはいっさい感じられない。有り体に言えば留守だった。
 ……どうして。じんわりと、そしてにわかに疑問が湧き上がる。きっと最速で家に帰って、チリの帰りを今か今かと待ちわびているものだと思っていたが――待っていたのはむしろ正反対の、ひどく静かで冷たい光景だった。
 いつも一緒に帰っていたし、ヴィーシニャとの同棲を始めるときに引っ越したものだから、こんなふうに誰もいないこの家を見るのはほとんど初めてであった。ひとり暮らしの期間は決して短くなかったはずなのに、こうしてがらんどうな家を見るだけで胸の奥が締めつけられてしまうとは。
 自分勝手な思い込みで気分を落ち込ませていたくせに、いないならいないで凹む羽目になるなんて。どこまで自己中心的な考え方をしているのだろうと、おのれのどうしようもなさに今日一番の深いため息が漏れた。

 そうして俯いたままでいると、まるでチリの意識を引き戻すかのような解錠音が聞こえてくる。玄関方面から聞こえてきたそれはやがて忙しない足音に変わって、チリの佇むリビングへとまっすぐに向かってきた。
 引っ張られるようにそちらを振り向くと、そこでは息を切らしながら戻ってきたヴィーシニャが、ぱちぱちと瞬きを繰り返していたのである。彼女はリビングの開き戸に手をつき、乱れた息を必死で整えていた。

「お、おかえり、なさい……っ! ごめんなさいね、帰るのが、遅くッ、なってしまって……」
「それはええねんけど――シーナもお帰り。どしたん、そんな息切らして」
「え? ええと……ふふ、そうなの。仕事帰りにセルクルタウンに行っていたのだけれど、思ったよりお店が混んでいてね……正直、世間をナメてたわ」

 言いながら、ヴィーシニャは片手に携えた紙袋から丁寧に包装されたチョコレートを取り出した。洗練されたラッピングデザインはバレンタインらしくあまったるい意匠が施されていて、ボルドーを基調にオーガンジーのリボンで作られた薔薇がふんわりと添えられている。
 ――確かめずともわかってしまった。この色は、ヴィーシニャがよく好きだと言ってくれる、チリの瞳と同じ色だ。
 包装には外箱にあわせるかのごとく一か所だけ窓がついており、その向こう側ではドオーを模したチョコレートが可愛らしく顔を覗かせている。
 ドオーといえばチリの相棒のポケモンであり、パルデアで初めて捕まえたポケモンでもある。出会ったときはまだウパーであったものの、進化を経ても未だチリはその可愛さにメロメロになったままだ。

「ふふ、可愛いでしょう? ムクロジからドオーモチーフのチョコが出るって噂を耳にしたものだから、絶対あなたに贈りたくて。ほら、今日はせっかくのバレンタインだものね」
「え……な、なんで? パルデアでは、男の人から女の人に贈るのが一般的なんやろ?」
「それはそうだけれど……でも、あなたの産まれた地方では女性から男性に贈るのが普通なのでしょう? なら、せっかくだしあなたの地方の風習に則ってみたくて」
「じゃあ……今日別々に帰ろうって言うてたのも、このために?」
「もちろんよ。ふふ、予約が間に合って本当によかったわ」

 曇りもなく微笑むすがたが、にわかに胸をしめつける。原因は急激に募った愛おしさが半分、もう半分は醜い誤解と思い込みによりひどいことばかりを考えていた罪悪感だ。
 どこまでも献身的で雪のようにまっしろだからこそ、自分は彼女のことを愛してしまったのに。初めての気持ちを忘却していた自分がひどく人でなしのように思えて、尽きたはずのため息を吐き出す。邪念も疑惑もすべて吐ききって、再びヴィーシニャに向き直った。

「……ごめんな、勝手なことばっか考えてもうて。チリちゃん、バレンタインでちょっとナーバスになっとったみたいや」
「え――って、きゃ、」

 言い終わるや否や、ヴィーシニャの言葉を聞くよりも先にその体を抱きしめる。柔らかな感触はチリにこのうえない安心感をもたらしてくれて、パルデアで初めて過ごす恋人とのバレンタインに、極上の充足感を与えてくれた。

「チリちゃん、シーナと一緒におれてほんま幸せもんやわ」

 噛みしめるように呟きながら、ひたすらにヴィーシニャを抱きしめている。おだやかに振る舞う彼女が無理に引き剥がすようなことをしないとわかったうえで、まるであまえるようにいつまでも体をひっつけていた。
 その静かで優しい時間は、空腹に耐えかねたポケモンたちがモンスターボールから飛び出してくるその瞬間まで、ずっと続いていたのだった。

 
バレンタインでした。
2023/02/14