ふりだしの抱擁

 ――誰かの呼ぶ声がする。聞き馴染みのある声にそっと目を開けると、そこにはひどく気遣わしげにこちらを覗き込む桃琳が現れた。
 突然のことに何も咀嚼できぬまま瞬きを繰り返し、少しけだるい体を起こす。ぼくが気づいたことに安心したのか桃琳はわっと声をあげながら思いきり抱きついてきて、いつものとおりいきなり抱きつくのはやめろと諭して身を離させた。桃琳はどこか名残惜しそうにしつつもきちんと距離をとってくれたが、やはりその目には心配の色が窺える。

「重雲、どこも痛いところはない? 体が熱いとか、苦しいとかも」
「いや……不調はとくに。強いて言うなら、なぜ自分が気を失っていたのか気になるくらいだが――」

 言いかけて、気づく。ぼくの目の前に広がるのがいっさい見覚えのない――否、ここしばらくほとんど立ち寄ることのなかった空間であることに。
 少しばかり古ぼけてひび割れの覗く壁紙と、殺風景で最低限のものしか運ばれていない家具たち。ぱっと確認できるのはぼくが寝かされている寝台、机に椅子、燭台――あとはよく手入れされた片手剣が数本と、本棚にいくつかの書籍があるくらいだろうか。
 生活感が極限まで削ぎ落とされたこの部屋には、たったひとつだけ覚えがある。

「どうしてぼくは、お前の部屋に寝かされているんだ……?」

 口にした瞬間、現状への自覚がこのうえなくあらわれる。
 よりによって、他でもない桃琳の寝台に寝かされているなんて……! 一瞬で噴き出しそうになった体をなんとか落ちつけようと、顔を覆って深呼吸を繰り返す。
 ただの異性ならいざ知らず――それもそれで問題だが――よもやそれが桃琳だとは。普段のぼくなら慌ててこの場を飛び上がるのだろうが、しかし、もはや驚愕に驚愕が重なって体を自由に動かすことができず、ちいさく唸りながらその場に留まっているのがやっとだった。
 穴があったら入りたいとはこういうことだろうか。……否、おそらく違うのだろう。そんな情けない自問自答を繰り広げてしまうほど、ぼくは動揺しているらしい。
 慌てふためくぼくとは違い、桃琳は落ち着きはらったままぼくの問いかけに答える。この温度差がまた羞恥心を刺激して、じわじわと頭が痛くなってきた。
 
「やっぱり、覚えてないんだね。重雲、さっきまですごい勢いで暴れてたんだよ」
「暴れ――ッ!?」

 今ですら耐えがたいというのに、このうえまだ驚愕の上塗りを続けるというのか――!? 再び遠ざかりそうになった意識をなんとかつなぎとめ、できる限り冷静に、状況を整理しようとする。
 ――記憶にない暴走。その瞬間、ぼくの脳裏をよぎったのは純陽の体のことだ。そうだ、記憶をなくして暴れまわるなんてそうとしか考えられない。……問題は、ぼくが未熟なあまり毎度のごとくあられもない姿をさらしてしまうことなのだが。
 また何かやらかしてしまったのかと頭を抱えそうになったが、なんとか口をつぐんで耐える。すべては桃琳からの――おそらく当事者であろう彼女の見解を聞くために。
 何があったんだ、と努めて冷静なふうを装って訊ねると、桃琳はうーん、と言葉を選ぶような間をとった。ぼくは眼下の手のひらを握りしめながら、彼女のためらいをひたすらに待ち続ける。

「いちおう訊いておくんだけど、重雲はわたしが『お仕事』の話をしたあたりまでの記憶ならある……よね?」
「ああ……」
「じゃあ、そのあとのこと話すね。わたしが『お仕事』の話をしてる途中、重雲ったら急に様子がおかしくなって、わたしの静止も聞かないままここまで来ちゃったんだ。お父さんと話すためとかなんとか言って、それはもうすごい勢いでね――」

 言いながら、桃琳は古ぼけた窓枠の向こうにある母屋へと目を向けた。彼女の屋敷は決して大きく立派ではないものの、母屋と離れに分かれており、鍛錬を重ねるためのちいさな中庭も用意されている。桃琳が暮らすのは――そして今ぼくたちが休んでいるのは――屋敷の中庭の隅に鎮座する離れだ。
 どうしてこんなふうに寝所が分かれているのだろうと昔は不思議に思っていたが、彼女の体質の話と、養父の体裁を考えれば納得がいく。独り身の男が幼い少女を養子に迎えるといったら――もちろん本人の外聞に左右はされるだろうが――まず一番に向けられるのは、子一人を救った賛辞よりも目的を危ぶむ嫌疑の視線だろうから。

(……? あれは――)
 
 桃琳の話を聞く傍ら、決して見慣れているわけでもないこの光景に違和感をおぼえたのは、視線の端を見知らぬ人影が横切ったからだ。不審に思って目を凝らしてみると、その背中にまとう装束が千岩軍のものであることが読み取れた。
 彼は取り調べでもするように不穏な動きで母屋の周りを徘徊している。さすがに千岩軍の格好をして悪事を働くわけはないし、何より桃琳がそのまま放っているのだから、きっと彼は千岩軍としての職務を全うしているのだろうと考えられる。
 ……なんとなく胸騒ぎがするのは、決して気のせいではないのだろう。

「――ぼくは、」
「うん?」
「ぼくは何か……大変なことをしでかしてしまったのだろうか」

 おのれのなかに生まれた疑惑を握りしめるようにそう問いかける。ぼくの問いかけに桃琳は肯定とも否定ともつかない曖昧な返事をして、数回瞬きを繰り返した。柔らかなその仕草はまるで、季節外れの春の香りを感じさせる。

「悪いことはしてないよ。……ううん、むしろ、世間一般で言えばとても良いことをしたんだと思う」
「だが、あの千岩軍は――」
「あの人たちはね、お父さんを連れて行っちゃったの。……多分、もう戻ってこれない」

 ――お父さんを連れて行っちゃった。その言葉が孕んでいたのは諦念なのか寂寞なのか、それともかすかな怒りだろうか。あまりの衝撃に絶句していると、桃琳はうっすらとした笑みを浮かべながら続ける。
 いわく、怒り高ぶったぼくは無我夢中でこの屋敷を訪れ、桃琳の養父に対して苛烈に詰め寄ったというのだ。もちろん「苛烈」と言うのは普段のぼくと比較しての評価であって、決して絶対的なそれではない……と、思う。
 彼に詰め寄るなか、ぼくはどうして桃琳をあんなふうに扱うのだと聞いたらしい。もちろんそれのみではなく、彼女のことを思うならもっとその身を案じてやれと、岩王帝君からの授かり物だと言うならもう少し丁重に扱ってやるべきではないかと――それ以外にも数多のことをいくつもまくし立てた結果、養父の怒りを買ってしまい、どちらもヒートアップしたすえに軽い取っ組み合いになってしまったのだという。
 やがてはぼくたちの稚拙な喧嘩を聞きつけた通行人が千岩軍を呼んできて、一時は事態も落ちついた……かのように見えた。しかしあろうことかぼくは聞いたばかりの話を千岩軍相手にべらべらと暴露しはじめ、一気に養父の風あたりは強くなり――結果、一旦身柄を彼らに預かられることになったらしい。
 ――頭が痛い。純陽の体による身体的な影響というよりは、主に精神の負担からくる頭痛がぼくのことを襲っている。何と申し開けばいいかわからず力なく謝罪を口にすると、桃琳はまるい双眸をぱちくりとしばたたかせ、優しく首を振った。

「重雲が謝ることなんて何にもないよ。わたしだって、きっといつかはこうなるだろうなと思ってたし」
「だが、まさかぼくがそのきっかけになるとは想像もしていなかっただろ? いくら血の繋がりのない、非道な行いをしていた者であるとはいえ、ぼくがお前から家族を奪ってしまったことには変わりない」

 言うと、桃琳はさっきよりも大きく目を見開いた。何かおかしなことを言ってしまっただろうかと口を閉ざしたが、桃琳はすぐにくすくすと笑って、「ごめんね」と軽く言ってのける。
 笑わせるようなことを言ったつもりはないのに……と首を傾げていると、ひとしきり笑ったあとの桃琳が、ぼくの疑惑を晴らすように喋りはじめた。

「急に笑いだして、びっくりしたよね。……わたしね、お父さんのことを『お父さん』と呼びこそすれ、ほんとはあの人のことを『家族』と思ったことなんてなかったんだ」
「桃琳――」
「でも、わたしがあの人のことをどう思っていようと、他人の目には家族として見えるんだなって――それがなんたかおかしくて、つい笑っちゃったの。ごめんね」

 肩をすくめながら桃琳はそう言い、再び窓の外へ目を向ける。先立っての千岩軍は少し遠くのほうへと行っていて、勇ましい背中を見ると彼らが責任を背負いながら職務に当たっていることがたやすく見て取れた。
 外では強く、冷たい風が吹きすさんでいるようだ。建てつけの悪い窓はガタガタと不穏な音を鳴らし、まるで暴れているようである。
 璃月は比較的暖かい気候をしているが、秋風はその強さも相まって思いの外冷たい。凍てつく冬を思わせる寒さはぼくにとってはありがたいが、弱っている桃琳の体にはひどく障るものだろう。
 こんなボロ屋で冬を越せるのだろうか――なんて失礼な考えがよぎったことは、さすがに秘密にしておく。

「せっかく家を再興させようとしてたのに、全部失敗しちゃったね、お父さん」

 ぽつり。落とすような桃琳の声は秋風よりもひときわ冷え切っていて、このぼくですらぞくりと背筋が冷たくなった。その様相はさながら昔の彼女を思い起こさせるもので、衝動的に彼女の名前を呼んでしまう。そうすれば、いつもどおりの彼女に戻ってくれるような気がしたからだ。
 案の定と言うべきか否か、ぼくが名を呼ぶと桃琳はいつもとおり眩しく笑って、明るい声で話し出す。

「ひとりっきりで過ごすのって久しぶり。……ううん、もしかしたら初めてかも。わたし、このままで生きていけるかな?」
「べつに独りなんてことはないだろ。行秋や香菱に相談すれば親身になってくれるだろうし――それに、ぼくだって出来うる限り力を貸すつもりだ」
「ほんと?」
「ああ。……重ねがさね言うが、今回のことはぼくが引き起こしたことだから、きちんと責任は取る」
「そんなに気にしなくていいのに……えへへ、でも、ありがとうね。重雲たちが助けてくれるなら、もう少しだけ頑張れそうかな――」

 先立っての冷たさはどこへやら、打って変わって明るく笑いながら桃琳はぼくに飛びついてくる。いつものごとく「だいすき」だと言う彼女はまるきり別人のようで、目が覚めてから二度目の抱擁に思わず喉が引き攣ったが、今回はそれを引き剥がすような気にはなれず、気が済むまで好きにさせておいた。もしかすると、彼女に対する慰めの気持ちもあったのかもしれないが。
 熱っぽく抱きしめられる傍ら、再び騒ぎだしそうになる純陽の体が恐ろしくて声をかけることができなかったが――耳元にある桃琳の唇が不穏な笑みをかたどった気配がしたのは、きっとぼくの気のせいだろう。

 
2024/03/01