ああ、きっとあのときに

 コトブキムラから、住み慣れたコンゴウ団の集落まで。いつも当たり前のように辿ってきた道のりは、まるでヨヒラの足首を強く掴んでいるかのように、ひどく重たい足取りにさせた。もうすっかり暗くなったいつもの道を、ヒノアラシの背中から吹き出す炎を明かりにして慎重に進んでゆく。
 こちらを気遣うような目を向けるニンフィアの頭を優しく撫で、心配をかけぬように精いっぱい微笑む。こんなことくらいでごまかせるとは思っていないが、ずっと暗い顔をしているよりはマシなはずだ。
 オオツの言葉がずっと脳内で木霊しているのは――きっと、二匹ともとっくに察しているのだろうから。

 ――きっと大丈夫さ。君は、君自身の気持ちと、君のいちばん大好きな人を、精いっぱい信じるべきだ――

 オオツの言ったその言葉が、いつまで経っても消えてくれない。まるで傷のようにヨヒラの心をじくじくと刺激して、不安なような、恐ろしいような、ひどく曖昧な気持ちにさせた。
 自分の、気持ち――何度も反芻しているひと言。……あたしの気持ちはいったいどこで、どんなふうな形をして、どうなりたいと思っているのだろう。
 自分がセキを好きだと自覚したのは、果たしていつのことだったか。この淡くも苦しい恋心は、いつの頃からこのちいさな胸に巣食うようになったのだろう。
 もしかすると最初から――まるで一目惚れのように、彼と出会ったあの日からすべてが始まったのかもしれない。あの大きな手に救われた、一気にすくい上げられたあの瞬間に、運命は動き出していたのだと……そんなことばかり考えながら、暗がりに満ちた黒曜の原野を、三人でずんずんと進んでいた。

「でも、本当に遅くなっちゃった。すっかり真っ暗だし……このまま行って大丈夫かな」

 ぞくり。ヨヒラの背中を、まるでケムッソが這いずりまわったような感覚が襲う。端的に言うと悪寒であった。
 原野は湿地に比べておだやかなポケモンも多いが、しかし、夜間となると話は変わってくる。周囲には敏感かつ気性の荒いポケモンばかりで、噂では幽霊のように突然姿をあらわすようなポケモンも生息しているらしい。
 ここ最近になって、ようやく人間とはそれなりに話ができるというか、人並みに親しくできるようになってきたけれど――ポケモンとなればそうもいかない。人間に飼い慣らされているならまだしも、相手は野生のポケモンだ。
 いくら見てくれが可愛くとも。心を通わせれば無二の友になれる、頼もしい存在だとしても。ヨヒラにとって、彼らが畏怖の対象であるという事実が完全になくなることはなかった。
 途端、数年前のおぞましい記憶が蘇る。ヒスイに来たばかりの頃。サイホーンの群れに襲われ、全身を粉々に砕かれたときの痛み。気を失う直前に見た、血と、オヤブンサイホーンの放つ眼光の「紅」にまみれた景色。未だに色褪せない――否、まるで忘れるべからずとでも言いたげに、何度も見るあくむのそれ。夢よりも鮮明かつ鮮烈な記憶に支配され、とうとう足がすくんでしまう。
 ざわり。心臓が激しく戦慄いて、急激に呼吸が荒くなる。血の気が引いて、冷静さを欠き、今にも叫び出しそうになってしまう。なんとか落ちつこうと深呼吸を繰り返してみてもいっさい効果はないようで、ついにその場にへたり込んでしまった。
 膝を折ったヨヒラのそばにヒノアラシとニンフィアが駆け寄ってきてくれるが、彼らを宥められるほどの余裕など、今のヨヒラには残っていない。

「は……はやく、かえらないと、」

 絞り出すようなおのれの声は思ったよりも震えていて、その情けなさに視界が滲んだ。
 こんなことなら、あのまま長屋に泊めてもらえばよかった。テルに話せば調査隊のシマボシに口利きをしてくれただろうし、そうでなくとも、部屋の隅に寝かせてもらうことくらいはできたかもしれない。テルの部屋が倫理的にまずいのであれば、ショウに頼み込むことだって。
 むやみに飛び出すべきではなかった。コトブキムラから逃げるような真似をして、自分はどれだけ愚かなのだろう。
 ――怖かったのだ。あれほどまでにオオツを傷つけて、無理なことを吐かせてしまった自分が、あのままコトブキムラに留まることなど、許されないと思ったから。
 だからこんなにも性急に、否、おのれの性質のことを忘れたようなほど無謀に、コトブキムラを飛び出してきてしまったのである。
 おのれの浅慮をひどく悔やみながら、ヨヒラは依然として騒いでいる心臓を宥めるのに神経を注いでいる。目を凝らした先にはズバットの群れがうじゃうじゃと飛びまわっていて、その様相がヨヒラの緊張をひときわ増長させた。

(こ……このままじゃ、ヒノアラシたちまで――)

 ……かさり。
 ヨヒラの不安が最高潮になった頃に聞こえてきたのは、すぐ近くの物陰で草木が震えた音だった。
 途端、ヨヒラの心臓は再び早鐘のようにさわぐ。一気に脂汗が吹き出て、手も震えだし、もはや意識を繋ぎ止めておくのがギリギリというくらいだった。
 寄り添ってくれているヒノアラシとニンフィアにも、いよいよヨヒラの不安が伝播してしまったらしい。二人とも身を縮めながらヨヒラに貼りつき、まるで三位一体とでもいうように、三人は大きな塊になった。
 このまま、なんとかやり過ごせればいいのに――! 草木のささやきがいよいよすぐ近くまで迫ってきたとき、ヨヒラは来たるべき衝撃と恐怖にそなえ、両の目をキツく閉じる。
 祈るようでもあるそれは、まるでこれからの運命すらも飲み込まんとするような、ある種の決意にも似たものだった。

 しかし、いくら構えてもその「怖いもの」はいっさい襲ってこなかった。むしろ両脇の二匹の緊張が一気に和らぐのを感じて、予想外の反応に、ヨヒラはおそるおそる目を開ける。
 暗がりのなか、目の前に立ちふさがる大きな影は威圧感をあたえるようでもあったが……しかし、その輪郭がヒノアラシの炎によって鮮明になった途端、全身の力が抜けてしまった。見知ったすがたをしたその塊は、ヨヒラの大好きな笑みを浮かべながら、視線をあわせるように片膝をつく。

「やっと見つけたぜ。よもやこんなところまで来てたとはな」

 ――セキだ。彼はいつもどおりの優しい笑みをかたどり、ヨヒラよりも先に飛びついた二匹を、わしわしと乱雑に撫でくりまわしている。
 繊細さとは対極の、良くも悪くも男らしい手の動き。端から見れば無遠慮なふうであるそれが強い安心感をもたらすものであることを、ヨヒラはこの数年間で、いやというほど理解している。

「……キ、さん」

 かすれた喉は、うまく言葉を吐き出してはくれなかった。それでもセキは頼もしい笑みのまま、今度は殊更気遣わしげに、ヨヒラの頭を撫でてくれる。あたたかくてぶあついそれに、とうとうヨヒラの涙腺が決壊する。
 いつだってそうだ。セキはいつでも、一人で怯える自分のことを一番に見つけ出してくれる。だから自分は彼のことが誰よりも好きで、狂おしくて、たまらないほど恋しいのだ。
 静かに泣きじゃくるヨヒラのことを、セキはまるであのときのように――一人で淋しく泣いていた、孤独に押しつぶされそうになった日のように、力強く抱きしめてくれた。

「怖かったろ? 夜に出てくるポケモンはどうにも荒っぽいのが多いからよ……むしろ、こんなところまで来れたのが奇跡ってなもんだぜ」

 言いながら、セキはさらりとヨヒラの膝をすくって簡単に抱き上げてしまう。突然横抱きにされて一瞬体が強張るが、目の前にあるセキの横顔と抑えきれない安心感に負けてしまって、結局何も言えなかった。
 ほろほろと涙を流しながら、セキの服を握ってちいさくすがりつく。首元にもたれるヨヒラに寄り添うがごとく、セキはゆっくりと首を傾けて、ヨヒラのことを受けとめてくれた。
 やがてヒノアラシはセキの体をよじのぼってヨヒラの膝のあたりに丸まり、ニンフィアはセキのリーフィアに並んで歩いている。それぞれがそれぞれに、安堵のひと時を得ているようだった。

「今日はもう遅ぇし、このまま集落に帰るのも危ねえからよ。この先にあるベースキャンプで休ませてもらおうぜ」

 セキが指差した先の高台ベースは、よおく目を凝らして初めてぼんやり明かりが見えるくらいの、ひどく離れたところにあった。

 
2024/01/30 加筆修正
2023/01/04