一日千秋の迷い

 ヨヒラに縁談の話がもちかけられて、もうどれだけの月日が経つだろうか。
 まるで昨日のことのようでも、はたまた数ヶ月も前のようでもある。時を司るシンオウさま――もとい、ディアルガさまを信仰するコンゴウ団らしからぬ時間感覚の混濁に、セキは苦い気持ちでいっぱいだった。
 そうしてくよくよしていると、幼い頃にじいさまに読んでもらった本が頭をよぎる。一日千秋よろしく、恋い焦がれた男の話。子供に読み聞かせるにしてはやけに情熱的かつ空想的な恋物語だったが、今のおのれがその主人公と同じ気持ちを抱いていることを悟り、今度は情けなくも顔を覆った。
 コンゴウ団の色男が聞いて呆れる――そんな文言、果たしてこの数日でいったい何度よぎっただろう。
 

「――あんたさ、オオツに会いに行ってきたんだろ?」

 そうしてらしくなくも思案に耽っているおり、背後から声がかけられる。出し抜けなそれに大げさなほど肩をゆらして振り向くと、そこには想像通り――否、それよりもいささか不穏な気配を放つヨネがいた。彼女は険しい顔をしたまま、静かにセキを見下ろしている。
 自室で考え込んでいたはずなのに、ヨネは……否、ヨネとその相棒であるゴンベは、いったいいつの間にここまでやってきていたのだろう。
 とりあえず、まずはいつも通りを心がけよう。普段の調子で、じゃれあいのような言葉を返してみる。

「おいおい、いきなりご挨拶じゃねえかよ。こんにちはのひとつくらい言っても罰は当たらねえだろ」
「言ったさ。この家に入るときね。ただ、何度声をかけてもあんたが出てこないからこうして中まで入ってきたんだよ」
「はは、そいつはわるかったな。思ったより真面目に考え込んじまってたらしくてよ」

 言うと、ヨネは相変わらず怪訝そうな目を向けながら、ジロジロとセキの様子をうかがっている。案じているようでも苛立っているようでもあるその視線は独特で、なぜだか幼少期の恥ずかしい思い出が呼び起こされた。
 よくよく見ると、ヨネの不穏な気配を感じ取ったせいなのか、知らぬ間にリーフィアは彼女の後ろに隠れており、セキをかばうつもりはないらしいことが窺えた。……見捨てやがったな、あいつ。お門違いな恨み言を心の中で唱えることで、少しだけ平静を取り戻そうとした。

「ここ数年のあんた、せっかちにしては随分思慮深くなったもんね。――で、そろそろあたしの質問に答えてくれるかい?」
「ぐ……!」

 どうやら、手厳しい姉の追求はどうやっても逃れられないらしい。
 どうしてそんなことを訊くんだと言うと、全部あんたの顔に書いてあるよ、と事もなげに返されてしまった。彼女にはすべてがおみとおしらしく、もはやセキには肯定の道しか残されていないようである。

「……行ったさ。コトブキムラまでな。ところが向こうさん、オレの訪問に完全に不意をつかれたような顔をしててよ――」

 観念して口を開くと、ヨネの持つ張りつめた空気が、ほんの少し和らいだ気がした。

「そりゃそうだろ。あんた、イーブイを引き取ったっきりほとんど立ち寄ってなかったようだし……で、オオツは?」
「ああ……一瞬驚いたようではあったが、すぐに落ち着きはらってやがったぜ。エーフィも相変わらずのべっぴんさんだったな」

 その他、細々したことをヨネの前で報告する。気づけばセキはすっかり正座をさせられていて、まるで懺悔でもしているかのように、すべてが口から滑り出ていた。
 ぽつぽつ話すなか、ヨネのまとう空気が変わったのは、セキがいつまで経っても核心に迫る話をしないでいたせいだろう。

「あんたのことだ。うだうだ考えるのはまどろっこしいってんで、縁談の話、オオツに直接持ちかけたろ」
「……オレぁ、そんなにわかりやすいつもりはねえんだがな……」

 ううん、と頭を抱えるセキに、ヨネはケラケラと笑ってみせる。その瞬間は普段どおりの和やかなすがたに戻ったふうだったが、しかし、それだけで話を終わらせてくれるほど彼女はあまくない。
 少し経てばヨネの瞳は相変わらずの鋭さでセキの肩を刺したし、もちろんセキにだって、ここで話を切るつもりなどなかった。二人の戦いは、むしろここからが本番だ。

「まあ……結論から言うとだな。オオツ自身は、ヨヒラとの縁談についてべつに迷惑だとかは思ってねえらしい。むしろありがたいとよ。自分みたいな人間、望んだ相手と一緒になれる機会なんてのは早々訪れるもんじゃねえとかなんとか」
「随分と自己評価の低い男だね。ヨヒラの話を聞く限りでは、とくに問題のある男のようには思えなかったけど」
「謙遜してるか、もしくはヨヒラの前で見栄を張っていい大人を演じているかのどっちかだろうな。……もしも後者なら、それだけヨヒラのことを意識してるってことだ」

 目を閉じて、先日のオオツの様子を思い返した。
 オオツは、ヨヒラのことを話すときにひどく優しい顔をする。それは彼がエーフィに向けるものとよく似ていて、慈愛、友愛――もしくはそれ以上の何かを孕んでいるのかもしれないと思うに、充分すぎるものだった。
「恋」でこそないかもしれないけれど、あの男からヨヒラに対する想いは限りなく「愛」に近かった。久しぶりに話した相手ではあるが、そうして簡単に察せられるくらいには、オオツはヨヒラに対して無二の想いを抱いていると思う。
 少なくともセキには――オオツと同じ、ヨヒラに対して並々ならぬ想いを抱いている男には、そう感じられてならなかった。

「……オオツと出会ってから、ヨヒラは随分とイキイキしはじめたよな」

 そうして、今度はヨヒラのことがふわりと頭に浮かんでくる。
 セキには、ヨヒラの「ほんとう」がどちらなのかわからない。……否、わからなくなってしまったのだ。
 なぜなら、近頃のヨヒラは雲間を晴らすかのように眩しく笑っているからである。以前のように無理をしているふうではなく、心から健やかに、目いっぱいの笑みを浮かべているように思われたのだ。
 コンゴウ団にやってきた頃とは打って変わって、ヨヒラの笑顔は実際の厚みを持ち、まばゆく輝くようになった。
 ただ、そうして明るくなったように見えるヨヒラの笑顔も、ここ最近では再び陰りを見せている。理由は他でもない、此度の縁談のせいだ。
 だからこそ、セキの迷いはまたぞろ頭をもたげはじめた。天真爛漫なふうに笑っているのが新しいヨヒラのすがたなのか、それとも、気配なくやってくるにわか雨のような、背中を丸めて泣きじゃくる痛ましいすがたこそが、彼女の本来のものなのか。
 ――わからない。まるで、ヨヒラがおのれのもとからすっかり遠ざかってしまったような、一抹の淋しさがセキを食らわんとしているのである。

「もちろんオオツだけじゃねえ。あいつはコトブキムラで、少しずつ輪を広げていってる。……凝り固まったコンゴウ団ではきっと難しいことだったろうよ」

 そして、それらはきっと、ひとえに彼女の世界がぐんと広がったからだろう。
 数ヶ月前、色違いのイーブイを引き取って世話を始めたあの日がきっかけとなって、ヨヒラの世界は一気にひらけた。本来の意味で少しずつ活動的となり、今ではセキやヨネの同伴もなく、ヒノアラシとニンフィアを引き連れてコトブキムラまで遊びに行っている。
 テルやショウ、イモヅル亭のムベなど、あの子は少しずつコトブキムラで新しい「お友だち」を作っているのだ。
 そうして、きっとヨヒラにとってひときわの存在となっているのが――他でもないあのオオツなのだと、セキは推察している。

「わからなくなっちまったんだ。ここに――コンゴウ団にいることで、ヨヒラのためになることがあるんだろうか、ってよ。そりゃあ、出会ったばかりの頃に比べたら随分好意的になったもんだが……それでも、ふとしたときに思い出すものもあるだろ。コンゴウ団の面々はそれくらいの傷をあいつに残したはずだ」
「……それで?」
「オレは、無理にあいつを繋ぎとめておくことなんてできねえと思ってる。というか……そもそもヨヒラは故郷に帰りたがってたはずだ。それなら技術の進歩したギンガ団にいたほうがいいだろうし、ギンガ団にはテルっつー、似たような境遇のやつもいるわけだからよ――」

 言いかけて、セキは唐突に言葉を切る。喉に何かがつっかえたわけでも、続きが浮かばなかったわけでもない。たんじゅんに、身の危険を感じただけ。
 なぜならば目の前の――柱に背を預けていたはずのヨネが、尋常じゃない圧を発しはじめたのである。まるで地鳴りのような幻聴が聞こえてきそうなほどの怒気に、セキの背筋を冷たい汗が伝う。
 掠れた声で姉の名前を呼ぶと、ヨネはするどくつり上がらせた双眸で、射抜くようにセキを見た。

「言いたいことはそれだけかい?」

 刹那、セキの背筋は冷や汗もそのままにぞくりと粟立つ。
 この様子には覚えがあった。たとえば長子のリングマが怒ったときと同じくらい、否、時にはそれよりも威圧感のあるそれで、ヨネには何度も絞られた。セキがくだらないイタズラをしたときや、身の危険も顧みないで無茶な真似をしたときなど、ヨネは信じられないくらいの恐ろしさで、セキのことを叱ってくれた。
 その経験があるからこそ察する。もう何年も見ていないはずのふんかで、怒髪天。それほどまでに、自分はヨネを怒らせているのだと。
 ちらりと彼女の足元に目をやると、連れ立ってきていたはずのゴンベはすっかり姿を消してしまっていた。

「まったく……あんた、そろそろいい加減にしなよね! ウジウジウジウジ一人で悩んじゃってさ、女々しいったらありゃしない。あんたらしくないよ。コンゴウ団のリーダーともあろう男が情けないね」
「う……!」

 ぐうの音も出ないとはまさにこのこと。ヨネから飛んでくる正論の数々はまるでいわなだれのようにセキを飲み込み、正座したままの彼をすっかり縮こまらせてしまった。
 反論する気も起きない。すべて図星で、自覚もあったからだ。

「……しっかりしなよね。あんた、今回ばかりはまったく自分が見えていないようじゃないか」

 しかし、厳しい言葉ばかりが飛んでくるのかとおもいきや、今度はひどく意外な言葉がヨネの口から放たれる。
 少しだけおだやかさを取り戻した彼女の声に導かれるごとく、セキはゆっくりと彼女を見る。依然として眉間にシワを寄せているようだったが、しかし、セキの視線をむやみに撥ねつけるような真似はしなかった。
 やがて呆れ返ったようにため息を吐き、静かに再び話し出す。

「あんた、ヨヒラがコトブキムラに行くのを見送るたび、びっくりするくらい辛気臭い顔してるんだから」

 ――いっさい自覚していなかった。情けないほどのまぬけ面を晒して、セキは言葉を失った。
 とはいえ、これもおそらく近しい者でなければ気づかないようなことであろうが――セキは、ちらりとリーフィアに目をやる。彼もまたヨネの言葉に呼応するように頷いていて、二人からの同意をいただいたとなれば、どうやら認めざるを得ないことのようだ。
 自覚が芽生えてしまった途端、セキは片手で顔を覆う。うなだれた弟の様子に何か思うところがあるのか、ヨネは張りつめたものを今度こそ和らげて言葉を投げかけた。

「もうすぐヨヒラが帰ってくるよ。そうしたら、ちゃんと二人で話し合うんだね」

 厳しくも優しい姉からの助言に、セキは項垂れながらもうなずいたのだった。

 
2024/01/30 加筆修正
2022/12/28