やがてたどり着いた高台ベースには、ギンガ団の警備隊員と彼に連れ添うパラセクト以外、誰の姿もないようだった。警備隊員はヨヒラを抱いて現れたセキを前に目を見開いて、甲斐甲斐しく声をかけてくる。
ひどく気遣わしげな警備隊員の視線のおかげで、なんとなく居心地が悪い。
「そちらの方は……おそらくコンゴウ団の方かと思われますが、まさかお怪我を?」
「いや――ちょっと迷子になっちまったようで、さっき拾ってきたとこなんだ。思ったより参ってるみてえだからよ、すまねえがあそこを借りてもいいか?」
言いながら、セキは少し離れた場所に鎮座するちいさなキャンプを指差した。おそらく重篤な者を隔離しておくための場所なのだろうが、幸いにも今ここに他の人間はいないので、とくに問題はないと判断する。
「ええ、もちろん。おだいじに。何かありましたらいつでもお呼び立てください」
警備隊員はヨヒラを一瞥しながらも、柔らかな笑みを浮かべて見送ってくれる。
一番の年長者であるリーフィアを筆頭に、ポケモンたちも礼儀正しくパラセクトに挨拶していた。日常的なくせに、どこか非日常感あふれるその光景を、ヨヒラはどこかふわふわした心地で眺めているのみだった。
程なくして、ヨヒラはことさら優しい手つきでキャンプマットへと降ろされる。
驚くほど呆気なく離れてしまったセキの体温。その名残惜しさに伸びそうになった手のひらを、すんでのところでなんとか抑えた。膝の上のヒノアラシを抱き、身をすり寄せてくるニンフィアを撫でることで、物足りない手を慰める。
松明に照らされたセキはヨヒラと同じようにリーフィアを撫でていて、その手つきに目を奪われてしまう。
昨日までは、こんなふうでなかったのに――オオツと話し、背中を押してもらった途端にこんなにも動揺してしまうなんて。現金で軽率な自分がひどく恥ずかしくて、ヒノアラシを抱いたままうつむき、目を閉じる。
「……疲れたか?」
そうして自己嫌悪に陥っていると、まるですくい上げるようなセキの声が耳に滑り込んでくる。顔を上げればそこには気遣わしげなセキの顔があって、急に飛び込んできた端正なそれに、鼓動が一瞬、はやくなる。
意識、しているのかもしれない。……オオツに吐き出してしまったことで。あるいは、セキへの想いについて、深く考えたことによって。
一度押し込めたはずの想いは、おおきな反動を加えて一気にヨヒラの胸を占める。もうきっと、このままではいずれセキのこと以外考えられなくなるのではないかと、そんな不安すらよぎってしまうほど、今のヨヒラはいっぱいいっぱいだった。
おのれに訪れた変化を前に、ヨヒラはまるで昔のように喉の奥をつまらせる。
「だ……大丈夫、だと、思うんだけど」
「けど?」
「ええと……うーん、まだ変な感じ、してるの、かも。夜に彷徨いたのなんて、本当に久しぶりだったから」
取り繕うように笑みを浮かべてみるものの、頬の動きは想像よりもぎこちない。うまく笑えていないことは、セキの眉間にシワが寄ったことも手伝って、すぐに疑惑から確信へと変わった。
ごめんなさい、とヨヒラが言うと、打って変わってセキはちいさく笑いながら、ゆっくりとヨヒラの隣に腰を下ろす。
二人のあいだには、ほんの少しだけ隙間があった。
「無理をする必要はねえさ。誰だって夜道は怖いもんだからよ」
「でも――」
「何も言うなって。……な?」
やわらかく、まるで言い聞かせるように目を細められてしまっては、もはや何を言うこともできまい。セキの色男たる所以を目の当たりにしたようで、とうとうヨヒラは言葉をなくした。
ヨヒラが口を閉ざした途端、あたりを真っ暗な静寂が包み込む。松明が揺れ、火花が散り、風が抜ける冷たい音ばかりがその場を支配し、闇夜の向こうで揺れるゴースの灯火が、視界の隅でちらついている。
一人ならばひどく不気味で恐ろしい光景だが、不思議と今は怖くない。隣にセキがいてくれるからだ。虚勢を張る必要がないと理解したヨヒラは、これ以上つくろうような言葉を吐くことはなかった。
やがて、ゆったりとした沈黙の帳はひどく出し抜けに破られる。夜の静けさを覆すセキの声はどこか迷うようでもあり、彼はポリポリと頭を掻きながら、ためらいまじりに口を開く。
「その……ヨヒラ。あー、少し訊きたいことがあるんだがよ、いいか?」
なんとなく、煮え切らない口ぶりである。視線で続きを促してみると、セキは小さくため息をついて、まっすぐヨヒラのほうを見てきた。湿地の豊かな自然を宿したような焦香の瞳には、松明の火花がほんの少し映り込んでいる。
「おめえはよ……その。――故郷に、帰りたいか?」
――予想外の問いかけだった。よもや彼の口から故郷の話が出るなんて、思ってもみなかったことである。
あまりの驚きにまんまるの目を見開いたまま固まるヨヒラの答えを、セキは少しだけ気恥ずかしそうに、再び頭を掻きながら待ちわびているようだった。……ヨヒラの口から出てきた言葉は、もしかするとセキにとっては愚問であったかもしれないが。
「あたし……帰りたいなんて、言った?」
「ん……まあな。おめえは覚えちゃいないかもしれねえが――いや、逆に嫌なことを思い出させちまうかもしれねえな。出会ってすぐの頃、おめえがサイホーンに襲われて大怪我を負ったことがあったろ? あのときに、まるでうわ言のようにそう言ってたんだよ」
「……? ……、――あ!」
言われてやっと、なんとなくだが思い出した。記憶の片隅にかすかに残るセキの顔。驚愕したような、憐れんだような彼の瞳に、胸を深く抉られる、そんな夢を見た覚えがある。
そして、同時に彼がとんでもない勘違いをしていることまで思い至る。弁明するため、ヨヒラは慌てて口を開いた。
「ちっ、違うよ……! あたし、確かに元の場所に戻れたらって言ったかもしれないけど……でも、べつに帰りたかったわけじゃないもん」
「は?」
「あの頃は、ほんとにみんなあたしに対して冷たくて、あたしのせいでセキさんとヨネさんまで悪く言われてたの知ってたから……あたしがここにいなければ二人ともひどいこと言われずに済むんじゃないかって、そう思って、いなくなりたかったの」
だから、べつに故郷が懐かしいとか、ヒスイがいやだとか、そういうんじゃないんだよ――
そう続けると、セキはまるで拍子抜けでもしたように目を見開き、程なくしてがっくりと肩を落とした。何やらブツブツと独りごちているようだったが、ヨヒラにそのすべてを聞き取るのは困難である。
あのう……と顔を覗き込むと、そこには顔を覆いながらも、どことなく安心した様子のセキがいた。
「はは……こんなことならよ、もっとはやくに訊いておけばよかったんだよな。ずいぶんと遠回りして、時間を無駄にしちまったみてえだ」
「え?」
「――ヨヒラ。今度こそ、単刀直入に言うぜ」
次にあらわれたのは、今まで見てきたどんな姿よりも真剣で、真摯な眼差しをしたセキ。色男を自称するに恥じない面持ちは、幼さの抜け切らないヨヒラにはあまりにも刺激が強くて、眩暈すら起こしそうになる。
ふらつく体をなんとか律して、そのままセキの言葉を待った。彼が再び口を開くまではほんの数秒だったはずなのに、今だけはまるで永遠のように感じられる。
「オレと……一緒になっちゃあくれねえか。これから先の未来を、オレはおめえと共に過ごしたいんだ」
ふわり。セキの分厚い手のひらが、優しくヨヒラの頬に触れる。さっきまでリーフィアを撫でていたそれは、ヨヒラにとっては誰よりも頼もしく、何よりもあたたかいもの。唯一無二の指先が、ひときわ優しく撫でてくれる。
ぎこちなくも愛おしい動きに、ヨヒラの瞳から涙が溢れてくるまで、そう時間はかからなかった。
「でも……あたし、だめだよ。セキさんはきっと、あたしなんかよりもっと美人で、頭が良くて、みんなに好かれてるヒスイの人のほうが――」
しみったれた自己卑下の精神が、やはり口からこぼれ落ちる。こんなことを言いたいわけではないのに、ヨヒラの意識しないところで、涙と一緒にあふれてくるのだ。
もっと素直に受け入れられたら――そう思ってやまないが、しかし、そんなヨヒラの悪癖を、セキはたった一本の指ですっかり黙らせてしまう。頬に添えられた手のひらから滑らされた親指が、ヨヒラの野暮な唇を塞いだ。
「そうじゃねえ。オレが聞きてえのはよ、おめえの本音、それだけだぜ」
オレの好いた女のことを、そういじめてくれるなよ――静かで優しい愛の言葉に、とうとうヨヒラの心が決壊する。恐れだとか、不安だとか、そんなものすべて放り投げて、胸の奥から気持ちがあふれる。ともすれば欲望だと言われそうな恋慕の念が、こぞって腹から飛び出してきた。
……もう、きっと、とめられない。そう直感しながら、ヨヒラは心の赴くまま、思うままの言葉を吐き出す。
「あたし……どこも、行きたくない。……セキさんがいい、セキさんと一緒にいたい。セキさん以外のお嫁さんなんて、絶対、ぜったいなりたくないよ……!」
堰を切って溢れ出た、ほんとうの気持ち。不格好なまでの本音はひどく幼くて拙い、聞くに耐えないものであっただろうが、目の前の男には深く突き刺さったはずだ。
セキの表情にはひときわの愛おしさが滲み、ことさら優しく細められた双眸が、松明から散る火花でまばゆく彩られる。
まるで、彼の心の奥に宿った何かをあらわすように。芽生えを迎えたセキの面持ちは、先立ってとはすっかり違うかたちをしていた。
「オレもだ。オレも、本当はおめえを他の男に渡したくなんかねえ。――ああ、あれこれ無駄に考えちまったが、本当はもっと単純なことだったんだよな」
頬に添えていた手のひらをゆっくりうしろへ滑らせて、セキは優しく、ヨヒラの体を抱き寄せる。ヒノアラシごと持っていかれて一瞬ひどく戸惑ってしまったが、たくましい腕に包まれてしまっては、もはや抵抗する気など起こらない。
ゆったりと、肩の力を抜いてしなだれかかる。抱きしめられるのは初めてじゃないはずなのに、どうしてだか今までとまったく趣が違った。触れているだけで体が熱くなって、満たされて、けれど、どこか泣きたくなる。嬉しいのに苦しくて、目を閉じたいと思うのに、眠れないほど心が叫んでいる。
セキさん。名前を呼ぶ。どうした? 答えてくれる。ただそれだけのやり取りなのに、胸の奥にあいた空っぽの穴がすっかり塞がってしまうような、触れたこともないような「しあわせ」が、ヨヒラのすべてを包んでゆく。
今の自分は、世界でいちばんの幸せ者かもしれない――そう錯覚してしまうほど、今のヨヒラはついぞ味わったことのない多幸感に満ちていた。
途端、急激な眠気がヨヒラを襲う。安心感によって疲労がのしかかってきたのか、それは抗いがたい猛攻を伴って、ヨヒラのまぶたを貼りつける。
ヨヒラの様子を察したのか否か、セキは彼女の背中を優しく撫で、寝かしつけるような素振りを見せる。
「……永遠に朝を迎えよう、ヨヒラ。オレたちはもう、これから先何年経っても、決して朝を違えることはない――」
セキのその言葉を寝物語とするかのごとく、ヨヒラはまるで気を失うように、すっかり眠りに包まれたのだった。
◇◇◇
次にヨヒラが目を覚ましたとき、辺りを占めていた暗闇はすっかり姿を消していた。びっくりするほど眩しい陽射しに目をやられながらも、なんとか瞬きを繰り返して、周りの様子を確認する。
この場には誰もいない。隣にいたはずのはセキはおろか、ヒノアラシやニンフィアの気配もなく、たった一人で迎えた目覚めは、なんとなく物悲しかった。
永遠に朝を迎えようって、いったい何だったの――寝落ちる直前に聞いた優しい声が頭をよぎり、気恥ずかしさをごまかすために少し悪態をついてやる。もぞもぞと体を動かし、頭を起こすためになんとか上半身を持ち上げた。
ヨヒラが体を起こしたことに気づいたのか、少し離れたところにいたらしい警備隊員が声をあげる。彼に呼ばれたのだろうか、程なくして岩陰からヒノアラシとニンフィアが飛び出してきて、ヨヒラはすぐに二匹からもみくちゃにされてしまった。懐っこい二匹をしっかり受け止めて、丸い頭をひとつずつ撫でる。
そうして二匹と戯れていると、視界が急に暗くなる。見慣れたかたちの影を受けて反射的に顔を上げると、立っていたのはリーフィアと連れ立つセキだった。彼はいつもと変わらぬふうに微笑んでいたが、たとえ向こうに変化はなくとも、見ている側の心理によって見え方はすっかり変わってしまうもので――湧き上がるような安心感に、ヨヒラはふにゃりと、無防備な笑みを浮かべた。
彼女の変わりようのせいか、セキは一瞬目を見開いて、なんとなくたじろいだような素振りを見せる。
「あーっと……調子はどうよ? 体が痛むとか、だるいとか、不調はないか」
「ううん、大丈夫。いつもどおり元気だよ」
ヨヒラの返答、もしくは態度に思うところがあるのか、セキはちいさく頬をかきながら、彼女の隣に腰かける。
やがて伸びてきた手のひらはふくふくの頬に触れ、慈しむように、それを愛でた。
「セキさん、あたしのほっぺた触るの好きだね」
「おう。……ま、どちらかといえば頬というより、おめえのことが好きなんだがよ」
「えっ――」
予想もしない攻撃を受け、つい言葉を失ってしまった。昨夜は空気に飲まれていたのもあったが、こうして改めて好きと言われると、それはそれは心臓に悪いのである。
やがてじんわり染まってきたヨヒラの頬を見て、セキが何を思ったかはわからないが――やけにご機嫌な指の動きによって、だいたい察せられてしまった。
気を逸らすために空を見ると、太陽が真上近くまで昇っているのが目に入る。てっきり朝だと思っていたが、この様子だときっとお昼も近い時間帯なのだろう。
よもやこんなに寝入ってしまうだなんて……セキに無駄な時間を過ごさせてしまったことが、急に申し訳なくなってしまった。
ごめんなさい、と謝れば、セキはその言葉の意図を瞬時に理解したらしく、首を傾げながらも笑ってみせる。
「謝る必要なんかねえよ。おめえと共に過ごす時間なんだ、一秒だって無駄にはならねえさ」
セキのまっすぐで情熱的な言葉が、ヨヒラの体を突き破って心臓をひとつきにしてくる。彼の言葉はあまりにもこうかばつぐんすぎて、思い切り射抜かれたヨヒラには、もはや言葉を挟む余裕すらない。
……どうして、そんなこと言うの? 幼子じみた言葉が喉から漏れそうになってしまうが、そんなことを言えば今度こそとんでもない爆弾を食らうような気がしたので、すんでのところで飲み込んだ。
ヨヒラがちいさく縮こまっていると、セキはゆったりと立ち上がり、紅蓮の湿地のほうに目を向ける。この時間に出立できれば、きっと明るいうちに帰り着くことができるだろう。
「さてと……そろそろ帰るか。色々と準備もしなきゃなんねえしよ、早く帰るにこしたことはねえ」
「うん……? 準備って、何かあるの?」
「そりゃあもう、祝言に決まってるだろ? ちんたらしてる間にまたべつの縁談を持ってこられたら困るし、おめえの気が変わらねえうちにさっさと嫁にしとかねえと、オレとしても安心できねえからよ」
「えっ……しゅ、祝言って結婚のことだよね? そっ、そ、そんな、いきなり――」
「おいおい、『一緒になる』たあそういうことだろうが。オレはもとからそのつもりだぜ。一生離してやんねえから覚悟しろ」
「ひえっ……」
文字どおり、空いた口が塞がらなかった。ヒスイではない土地で育ったヨヒラからすれば、好きあった次の日に祝言の話が出るだなんて、あまりにも突飛なことであるからだ。
もちろんこのヒスイにおいてそういう文化があることは知っていたし、そもそも直近まで縁談の件で気を揉んでいた身なのだけれど、いざそれが目の前にやってくるとなれば話は別だ。急激にやってきた「一緒になる」ことへの実感に、今度こそいっぱいいっぱいとなってしまう。
目を白黒させているヨヒラを察してくれたのか、セキはまるい頭に手のひらを乗せ、諭すように優しく語りかける。
「とはいえ、おめえを急かすようなつもりはねえからよ。少しずつオレたちのペースで歩いていこうや」
――ま、いずれ覚悟は決めてもらうがな。そう付け加えはすれど、セキがヨヒラを気遣ってくれているのは一目瞭然である。
……もう少しだけ、あまえても許されるだろうか。彼の与えてくれるそのぬくもりに、もたれかかってしまっても。まだまだ幼く未熟で、ヒスイの風土に染まりきっていないこの心がすべて金剛に染まるまでの、残り少ない、僅かな時間をたゆたっても――
セキの言う「覚悟」が決まるまでは、あとほんの少しだけ、時間がかかりそうだから。
「――行こうぜ、ヨヒラ。オレたちの『里』へ帰ろう」
うつむいている間に、目の前にはセキの手のひらが差し伸べられていた。おおきくて、たくましくて、いつもヨヒラをすくい上げてくれていたそれは、いつまで経っても頼もしい。
大好きな手のひらにそっとおのれのそれを重ね、へたり込んだ体をふるいたたせる。
――頑張らなくちゃ。もう、二度と逃げないように。ぬかるむ湿地の泥にも負けず、この地に根を下ろせるように、しっかり覚悟を決めなくては。
決意を秘めたヨヒラの瞳を、セキはまっすぐに見つめ返してくれる。その視線はあたたかくて、くすぐったくて……そして、ひどく愛おしかった。
「――うん、うんっ! あたし、セキさんと一緒に帰りたい……っ」
セキの手のひらに引き上げられて、ヨヒラは再びヒスイの地に立つ。ヒノアラシを抱いて。ニンフィアと連れ立って。そして、セキに寄り添って。
湿地の片隅に根を張ったあじさいの花は、もうすっかり立派な枝葉をつけていた。
2024/01/31 加筆修正
2023/01/10