沼に喰われる

 ――ヨヒラに縁談?

 その言葉を聞いた途端、セキの体を稲妻が撃つ。
 かみなりのような衝撃を与え、だくりゅうのように心をずんとかき乱していくヨネの言葉。あまりにも突拍子がなさすぎて、ただの冗談、もしくは白昼夢のたぐいなのではないかと疑りたい気持ちになったが、その希望も彼女の表情がすべてさらっていってしまう。

 ――年寄り連中が盛り上がっちまってるんだよね。十中八九、体のいい厄介払いだと思うけどさ。

 静かな怒りを湛えるヨネが、眉間にシワを寄せながら部屋の隅を睨めつけている。
 どこまであの娘を軽んじれば気が済むのか――ヨネのいかりは言葉にせずともすっかりセキに伝わってきて、余計な口を挟む隙など与えてくれないようだった。
 やっと、平和になったと思ったんだがなあ――大大大発生によってコンゴウ団に訪れたさざ波のような混乱が、ようやく落ち着き始めた頃だったのに。

 大大大発生が起こるとき、周囲には必ず大雨が降る。その因果関係についてはいっさい解き明かされていないが、かつてヨヒラが雨と共に現れたことを執念深く覚えていた老輩によって、再びヨヒラに疑惑の目を向ける人間がちらほらと散見していたのである。
 コンゴウ団のリーダーとして、彼女の数少ない味方として、セキはそれらと何度も対話を試みた。酒を酌み交わしたり腹を割って話したりと努力を重ねた結果、最近になってようやくすべてが実を結び、反抗的な意見も再び沈静化しはじめていた。
 それらはあの頃――ヨヒラがやってきた頃には若すぎてできなかったことで、今度こそ完遂できたことを人知れず喜び、ある種の達成感を覚えてしまっていた。
 ゆえに安心していたのだ。此度の相談は、セキがほんの少し気を抜いていた矢先の話だった。
 今頃、ヨヒラは仲良しの二人と紅蓮の湿地を駆け抜けている頃だろう。彼女は今日も雨上がりの空のような眩しくも儚い笑みを浮かべ、懸命に心臓を動かしている。
 いつだって必死に生きているのに。毎日毎日、逆境に負けず努めておだやかに、笑顔をたたえてふんばっているのに。悲しいかな、その懸命な努力もむなしく、裏ではかように汚い話が繰り広げられていたのである。
 これには、さしものセキも思わず苦虫を噛み潰してしまう。

 ――今、このタイミングでオレに言ったってことは……つまり、その相手が。

 おそるおそるヨネに訊ねる。彼女は小さく息を吐いて、ひどく耳馴染みのある名前を口にした。

 ――オオツだよ。あの子、このままだとあの男のところへお嫁に行かされちまうかもしれない。

 めのまえがまっしろになるとは、まさにこの瞬間をあらわした言葉なのだろうな。

 
  ◇◇◇
 

 寝転がったまま、じっと天井を眺めていた。骨組みのいくつもをとりとめもなく目で追いつつ、ヨネの言葉を反芻している。
 ――まさか、ヨヒラに縁談が。セキの頭を占めているのは、ただそのひとつのみだった。

「……べつに、珍しい話じゃない。あいつはもう立派な一人前なんだからな――」

 まるでおのれに言い聞かせるかのごとく、セキは静かに独りごちる。誰にあてたわけでもない、傍らのリーフィアすら聞きのがすほどの声量で。
 しかし、何度考えてもやはり信じられないのだ。あのヨヒラに縁談が舞い込んでくるなんて。
 もちろん彼女に魅力がないとか、女らしくないだとかを言うつもりはない。ただ、そういった男女の象徴を、あの娘とうまく結びつけられなかっただけ。
 いくら華奢で幼く見えるとはいえ、ヨヒラだってもう一人前と言われて問題ないくらいの年だ。正確な年齢はわからないし、振る舞いで誤魔化されてはいるが、時折ひどく女を匂わせるような、ほんの少し色づいた顔を見せることだってある。体つきだって決して幼子のようではないし、きっともうすぐに、すっかり女のそれへと変わってしまうのだろう。
 だから、べつにおかしくはない。コンゴウ団のみならず、シンジュ団だってギンガ団だって、ヨヒラくらいの年になれば嫁に行ったりするものだ。
 ――すべては当たり前のこと。この地に生きるものとして、そういった風習というのは少なからず根幹にあるし、ヨヒラだってもうすっかりヒスイの人間なのだから。
 いくらヒスイではない何処よりやってきたとはいえ、郷に入っては郷に従えという言葉のとおり、ヨヒラが皆に倣って生きていくのは至極当然のことなのである。
 ――そうしておのれに言い聞かせても、この頭はちっとも理解するような素振りを見せない。どこまでも拒絶して、どこまでも首を振って、どこまでも逃避しようとする。
 ……まだ、呑むことができないのだ。どこのポニータの骨とも知れない男にヨヒラはやれない。面識のない相手でこそないが、しかし、年寄りが勝手に決めた男のもとにヨヒラを送ることなんてできない。

(……これじゃあ、まるで年頃の娘を持つ父親じゃねえか)

 ああそうだ、きっとそうだろう。ずっと見守ってきた存在であるからこそ、もしかすると父性のようなものが働いているのかもしれない。姉が面倒を見ている少女だから、きっと叔父と姪のような関係だと錯覚して中途半端な父性を発揮しているのかも。
 セキはまばたきをひとつして、おのれのなかに燻るそれが父性と名のつく感情なのか、じっくりと見つめあおうとする。

(――これを父性と言っていいのか? 本当に……?)

 しかし、否、案の定と言うべきか。セキの心に湧き上がるのはただひたすらの違和感だ。この感情が父性と呼ぶに相応しいものであるとは欠片も思えなかった。
 ……認めよう。胸の奥に根づくそれが、ただの友愛や家族愛ではないことを。
 自分がヨヒラをひどく大切に思っている自覚はずっと前からあって、それこそ彼女が独りで泣いている背中を見たあの瞬間に、すべてが始まっていたのかもしれない。
 一度認めてしまえば、あとは驚くほどにすんなりと、すべてを受け入れられる気がした。
 彼女が現れてから早数年、草木が芽吹くように膨れ上がっていった気持ち。どんどんと、まるで無視ができないくらいに大きくなったこの想いに気づかないふりをすることで、なんとか現状を保とうとした。
 伝えるべきでないと思っていたのだ。自分勝手な想いのみで、彼女をこの過酷な大地に縛るべきではないと考えていた。

 ――なんで助けたの? あのまま死ねば、もしかしたら元の場所に帰れたかもしれないのに――

 かつて彼女に言われた言葉が頭の奥に反響する。抑揚のない、冷めきった声。あの朗らかなふうからはいっさい想像できないくらいの、突き放すような絶望の言葉。
 ヨヒラは故郷に帰りたがっているのだ。死んでも厭わないと思うほどに。あの脆くも繊細な心を、すっかり折ってしまうほどに。

 とはいえ、それが無理もないことはセキも理解している。彼女はこの地に似つかわしくないのだ。
 ポケモンと相性の悪いヨヒラは、人間とポケモンの関係が密接であるこの地において、きっと他人の何倍もの苦労を背負うことになる。加えてコンゴウ団の人間が彼女に行なった所業の数々を思えば、なおも一緒にいられる今が奇跡と思えるくらいであろう。
 ……あの子はずっと怯えている。この地のポケモンを――否、この土地に生きるすべての生命を、きっと誰よりも恐れているのだ。
 であれば、やはり開放してやるべきではないのか。記憶こそ失っているけれど、あの子にだって故郷がある。なくしてしまった記憶の穴に、唯一無二のふるさとがあるはずだ。
 帰してやらねばならない。それが、ヨネとともに彼女の保護している人間の、コンゴウ団のリーダーとしての務めではないか。
 おのれの感情ひとつで彼女をこの地に縛りつけるのは、あの花車な肩を思えば、誰よりも何よりも酷な選択だ。
 仮に今すぐ帰すことができなくとも、凝り固まったコンゴウ団に置いておくよりは、少しでも自由な風潮のコトブキムラに連れて行ってやったほうがいいのではないか。閉鎖的なこの集落より、もっと解放的で、自由な世界に住まわせてやったほうがあの子のためになるのではないかと。セキにはもう、そう思わずにはいられない。

「……結局は、オレのエゴでしかねえのかもな」

 しかし、その考えすらも押しつけがましいのではないか。此度の思考の泥沼は、湿地に点在するどの沼よりも深いようだ。
 今度の独り言は、先立ってよりも言葉としての形を作っていたらしい。セキを案じて近寄ってきたリーフィアがその証左である。
 森の匂いがする体を抱き寄せ、細く長いため息を吐いた。馴染む香りを嗅いだことで、少しばかり気が抜ける。
 ……わかっていたことだ。ヨヒラをいつまでも近くに置いておけるわけはないし、いつかは故郷に帰してやらねばならないと、ずっと思っていたのだから。このままなあなあで一緒にいるなんてことは到底無理な話で、そう遠くない未来に彼女は巣立っていくだろう。
 避けられない別れがあるのならば、もういっそ今のうちに。ヨヒラを好意的に思う誰かが存在しているうちに、彼女の門出を祝福して、背中を押してやるべきだ。
 それが大人としての選択で、紛うことなき「正解」なのだと思うけれど――

(思えば思うほど、っつーのはこういうことなのかもしれねえな。色男が聞いて呆れるぜ)

 送り出してやるべきだと思うたび、この胸はざわざわとやかましく騒ぐ。
 色男も形無しのみっともない二律背反がずっと決意の邪魔をして、今すぐ家を飛び出し、里山周辺を思いっきり駆け出してしまいたくなる。
 ……一緒にいたい。傍に置いておきたい。離れたいと思ったことなんて、ただの一度もないのだ。
 ヨヒラのことを想う自分と、情けない衝動に足をとられる自分。みみっちい男の葛藤は、結局ちっとも晴れないままセキの心に暗雲を立ち込めさせた。

 
「――ダメだ、じっと悩んでるばかりじゃ落ち着かねえ」

 すっくと立ち上がったセキに、リーフィアがはっと顔を上げる。突然動き出した主人に一瞬毛を逆立てていたが、セキの表情を確認すると、それもすぐに和らいだ。
 さっきまでの思い悩む様子はどこへやら。すっかり顔つきの変わったセキは、何か心を決めたふうに、窓の外を見つめている。

「リーフィア、ちょっと付き合ってくれ。今からコトブキムラに行く」

 
2024/01/30 加筆修正
2022/10/23