白波のひと筆

 じっとしているのが怖かった。何もしないで、ぼんやりとあの集落に留まっているのが、なぜだかひどく愚かなことのように思えてならなかったのだ。
 みんなの視線が突き刺さる。今となってはそれが敵意から来るものでないとわかっているはずなのに、それでも彼らの視線は一定の痛みを伴って、ヨヒラの全身を強く刺す。……体が覚えているのだ。かつて彼らに向けられた侮蔑のそれが、幾度もこの身を貫いたことを。
 それはいつしか集落の外れで過ごすことすら咎めているように感じてしまうほど、大きく、強く、真っ暗な波になって、ヨヒラのことを飲み込んだ。
 そうして、まるで逃げるようにコンゴウ団の集落を後にしたのはひどく衝動的なことだった。暗くなるまでに帰ればいいと、まるで言い訳のように頭のなかで唱えながら。何も言わずについてきてくれるヒノアラシとニンフィアに感謝しながら、ひたすらに集落から遠ざかった。
 たどり着いたのはいつもどおりコトブキムラだ。コンゴウ団の集落を除けばヨヒラにはもうここしかなくて、気づけば紅蓮の湿地からコトブキムラまでの道のりだって、もはや無意識で辿ることができるようになっていた。
 相変わらず野生ポケモンには襲われそうになるし、道中ではかつて致命傷をもらったような、いわゆるオヤブンポケモンも散見するけれど、今の自分にはヒノアラシとニンフィアという頼もしい友だちがいる。二匹がいればどんな困難でも必ず乗り越えられると、そんなふうに思えるくらい、ヨヒラは二匹のことを心から信頼していた。
 いつかヒスイを出ていくときが来ても、きっとこの二匹がいてくれたらなんとかなってしまうだろうと――それこそセキやヨネと離れる日が来てしまったとしても、この二匹さえ傍にいてくれれば平穏無事に過ごせるはずだ。そんな確信めいたものが、ヨヒラの胸の奥にはあった。

(『来ない』なんて絶対はないんだから、考えるくらいは、いいよね)

 またひとつ、おくびょうな言い訳を重ねてしまった。
 此度のヨヒラに振りかかった「縁談」という二文字は、いつか来るであろう別れがすぐそこだと実感させるほどの、抜群の破壊力を持っていたのである。

 ギンガ団の長屋に向かって、ヨヒラはずんずんと歩いていた。彼女の目当ては決まって建築隊で――時おりテルに会うため調査隊の長屋に向かうこともあるが――、いつもどおりの足取りのまま、慣れた場所へと突き進んでいく。
 もしかするとこれは、ヨヒラにとって「覚悟」を決めるための行為であるのかもしれない。彼と時間を重ねることで、おのれの想いにけりをつけようとした。これから連れ添うべきである人と触れ合い、親しみ、よく知ることで、少しでも楽しい時間を過ごせるようになればいいと。
 ともするとそれは自分だけでなく、彼のためにもなるのだからと、半ば無理やり言い聞かせるようにしながら。ヨヒラは長く深呼吸をして、とびきり大きな声を張り上げる。

「オオツさんっ、こんにちはー!」

 しかし、ハツラツとしたその呼び声に反応して出てきたのはオオツでなく、彼の相棒であるエーフィだった。
 彼女はしゃなりとした流麗な所作でヨヒラのことを迎え入れる。その圧倒的な美を前についついひれ伏してしまい、まるでギンガ団の団長に接するくらいの恭しさでもって頭を下げると、エーフィは珍しく柔和なふうに目を細めて長屋の奥へ引っ込んでいった。
 彼女の足取りに導かれるまま視線を動かせば、そこにはお目当ての人物が頼りなさげに笑っている。

「いらっしゃい、ヨヒラちゃん。……よかった、今ちょうど出かけようと思っていたところなんだ」
「えっ……あ、あれ、あたし、もしかしてお邪魔でしたか?」
「ううん、全然。今日はギンガ団のお勤めもお休みでね。少し、気晴らしに出ようと思っていて」
「気晴らし――」
「よかったら一緒にどう? ポケモンはあんまりいない場所だから、それほど危険はないと思うよ」

 目的地は始まりの浜だと言う。
 その優しさにあまえるかのごとく、ヨヒラは彼の申し出にゆっくりと頷いた。まるで、夫婦としての予行演習のように。

 
  ◇◇◇
  

 久しぶりに訪れた始まりの浜。ここの空気はキラキラと輝いていて、まるでこの世の天国ではないかと思えるくらいの絶景だった。
 夕陽に照らされた波打ち際は、白波が海というキャンバスに絵筆を走らせているように見える。ひとつ、ひとつ、自然のもたらすそれは不規則に海の青を彩って、やがては夕陽の橙に溶けてゆく。その儚さがひどく胸をふるわせて、ヨヒラは思わずため息を吐いた。

「ここに来るのは初めて?」

 オオツに声をかけられて、ヨヒラはやっと意識を現世に取り戻した。

「あ、えっと……初めてではない、はずなんですけど」
「けど?」
「なんか――今までより、綺麗に見えて。その、ちょっとびっくりしちゃいました」

 いつもは逃避のつもりでここを訪れていたから。
 今までは――ニンフィアという心強い友だちができるまでは。……否、イーブイを預かる前までは、だいたいセキやヨネと共にコトブキムラにやってきていた。その間、彼らが諸用を済ませるまでに与えてくれた自由時間は、ヨヒラにとっては持て余すくらい、長くて自由なひと時だったのだ。
 コトブキムラの人間はコンゴウ団より好意的だったけれど、しかし、どうしても視線への恐怖は拭えないままだった。長時間人波に混ざっていると、まるで全身を細い針で刺されているかのような痛みに襲われるのだ。
 血潮が滲まないくらいの絶妙な塩梅で突き刺してくるそれは、致命傷こそ与えないけれど、無視のできない微細な刺激をヨヒラに与え続けるのである。
 だから、その真綿のような苦痛に耐えかねたとき、決まってこの浜を訪れていた。……ここには誰もいない。……否、もちろん人に出くわすことはたまにあったけれど、それでもコトブキムラの真ん中よりは何倍も静かで心地よかった。
 何より――ここでひとり痛む肌を撫でていると、いつもセキやヨネが迎えに来てくれた。いつしかお約束となったその行為が、彼らの優しさが、ヨヒラはひどく好きだったのだ。

(ここにもみんなとの――セキさんとの思い出があるんだ)

 どこにいても、何をしていてもすぐに彼のことを考えてしまう自分が、今だけは少し、情けなかった。

「俺はね、苦しくなるとここに来るんだ」

 ヨヒラの心中を察したのか、オオツはひどくおだやかな口ぶりでここに来た経緯などを語り出す。その語り口はいつもより何倍もゆっくりとしていて、無意識に強ばっていた体の力が抜ける。

「ヨヒラちゃんも察してると思うけど、俺って友だちもほとんどいないし、そもそも人付き合いが苦手でさ。口下手なおかげで言いたいことが全然言えなくて、そのせいでいつまでも誤解されたままになってしまったり……ああ、君のニンフィアが産まれたときもそうだったな」
「……でも、あれはべつにオオツさんが悪いわけじゃ」
「ううん。大切なエーフィの子供だったのに、俺は守ってやれなかった。命を預かる者としての覚悟が足りなかったんだ」

 オオツは目を伏せて話す。やわらかな手つきでエーフィを撫でる彼は、まるで遠い世界から吹き込む風を全身で感じているようだった。
 エーフィのつやつやの毛並みは相変わらず美しくて、辺りをすっかり染め上げる夕陽を浴び、殊更に幻想的な麗しさを湛えていた。

「えっと……ごめん、話が逸れちゃったね。とにかく、そうして限界が近づくたび、エーフィがここに連れてきてくれたんだよ。息抜きしろって言ってくれるみたいに」
「オオツさんのこと、たくさん心配してくれてたんですね」
「そうだね。俺と違ってすごくしっかりしてるから、ほんとう、頼もしい相棒だよ」

 エーフィはふん、と鼻を鳴らしてオオツの手のひらにすり寄っている。……もしかすると、彼女にとってのオオツは「相棒」というよりも「大きな弟」なのかもしれない。

「そして、気づけばそれが習慣になって……今日も、なんとなく息苦しかったから、少し休憩しようと思ってここに来るつもりだったんだ」

 オオツの言葉に呼応するがごとく、エーフィは小さく頷いて、優しく彼を見守っている。
 そんな些細な所作にすら、二人のあいだに構築されている強固な信頼関係を見ることができた。……いつか、自分たちもこうなりたい。ヒノアラシやニンフィアと、こんなふうに通じあえるようになったらいいのに。そんなことばかりを考えていた。
 ぐるぐると思案の波に潜りかけていたヨヒラを引き上げたのは、波音に混ざってやけに響くオオツの言葉だ。

「えっと……多分、ヨヒラちゃんもそうなんだろうな、と思って誘ったんだけど」
「えっ――」
「聞いたんだろう? 縁談の話」

 途端、心地よく届いていたさざなみの音が消えた。
 

2024/01/30 加筆修正
2022/12/12