零雨

 どうして、あの子ばかりがこんな扱いを受けなければいけないんだ。夕食の準備を進める傍ら、ヨネは眉間に深いシワを寄せて老輩たちへの呪詛を吐いていた。
 吐く、と言っても口に出すわけではなく、仮に声に出ていたとしても問題ない範囲の言葉に収まるよう努めている。一応、なけなしの配慮はしているつもりだ。
 ……あの子がいったい何をしたというのか。ぐるぐると思案を巡らせてはいるが、ヨネの考えることといえば、やはりほとんどがそこに行き着く。

(まったく、年を取ると頭が固くなるってのは本当なんだね)

 苛立ちが手つきに表れないよう、極力丁寧に食器を洗う。幼い頃、力加減を誤って何枚かダメにしてしまった覚えがあるからだ。
 かちゃり。食器の擦れる音。今度は、水が跳ねる音。おだやかな生活音に集中して溜飲を下げようとするも、なかなかうまくいかなかった。
 ふと、視界の端に不安げな顔をするマニューラが映りこむ。こちらを案じるような彼女にたいし、反射的に微笑んではみるものの――おそらく形の良い笑みを浮かべることはできなかったのだろう。マニューラは、いささか渋い顔をしながら台所を去っていった。

「……ダメだね、これじゃあ。キャプテン失格ってやつだ」

 ヨネは小さくため息を吐く。苛立ちのあまり家族を不安にさせてしまうなんて、なんとみっともないことであろうか。
 怒って暴れられないだけマシとでも言うべきなのだろうが――しかし、安易に責めてもらえないというのもなかなか心に来るものがある。今度は深いため息を思いきり吐き出して、ヨネは軽く拭った手でぺちぺちと頬を叩いた。少し気合いを入れたかったのだ。

(……あの子もこんな気持ちなのかね。こんなふうに、ちょっとした気の乱れで、ポケモンを過敏に反応させてしまっているのかも。……そういえば、最近はポケモンが暴れることもずいぶん少なくなったし――)

 ふと、なんとなくひらめいた。あの子が――ヨヒラがポケモンに嫌われていた理由。もしかするとそれは、彼女がずっと内包していた警戒心のせいであるのかもしれない。
 そう考えれば合点がいくことも多々あるのだ。ヨヒラに対していっさい怯える素振りを見せなかったヒノアラシや、急になついたニンフィアなど。ゴンベたちが少しずつ気を許すようになったのも、ヨヒラの内にある警戒心や他者への猜疑心が、わずかながら和らいでいるからなのかもしれない。
 ポケモンは敏い生き物だ。だからこそ、ヨヒラが発しているそれら――いわば“無意識の敵意”を、敏感に察知しているのかもしれない。
 ――で、あるならば。なおさらヨネは、依然としてヨヒラを害として扱う老輩たちの態度を許せそうになかった。
 ヨヒラと過ごすようになって早数年が経つけれど、あの子が悪事を働いたことなんて一度たりともなかったじゃないか。タカノリのサイホーンを暴れさせたことはあれども、それ以降、あの子がこの集落において何かをやらかしたことはない。
 自分の体質を理解していたからこそ、ヨヒラは周りにひどく気を遣っていたし、できるかぎり生き物から離れて過ごしていた。人一倍さみしがりのくせに周りといっそう距離をとって、数少ない身内とだけで日々を送っていた。
 ニンフィアをそばに置くようになってからは周りの目もいくらか柔らかくなったように思えるが、それでも考えの凝り固まった年寄り連中はヨヒラのことをひどく警戒しているし、今でもあの子を疫病神だなんだと言って、鼻つまみ者のように扱う。
 彼らの態度について、ほんの一秒だって許してやろうと思ったことはないけれど、それでも、ヨヒラが何も言わないなら見過ごしてやるつもりだった。
 なのに、やつらはあろうことか――

「ヨネさんっ、ただいま!」

 刹那、玄関先からよく通る声が聞こえてくる。
 忙しない足音と高らかな声はすっかり家中に響き、ヨネはくさくさした気持ちが払われると同時に、件の人物が帰宅したことを知る。
 玄関からまっすぐ台所へとやってきたらしいヨヒラは、一旦ヨネに顔を見せるとすぐに洗面所のほうへ向かう。外から帰ってきたら必ず手を洗うように、とキツく言いつけてあるからだ。
 もちろん、家に上がる前にヒノアラシとニンフィアの足を拭いてやることも忘れない。よっぽどのことがないかぎり、ヨヒラはヨネの言いつけをしっかり守っている。
 ――こんなにも、懸命に生きているのにな。程なくして帰ってきたヨヒラを、ヨネは気持ちを切り替えられないまま、神妙な面持ちで迎える。
 一方、ヨネの様子に何かを察したらしいヨヒラは、ちいさく首を傾げながら、どこか不安そうに近くまでやってきた。

「あ、あのう……ヨネさん、どうかしたの?」

 おずおずと顔を覗き込んでくるすがたはいやにいじらしく見えて、どうしてこんなふうになったのだと、やるせなさすら込み上げてきた。
 息を吐くついでにやわく笑みを浮かべて、ヨネは静かに口を開く。今度はちゃんと笑えたはずだ。

「あんた……今日もコトブキムラに行ってきたんだったよね」
「あ、そうなの! オオツさんのところに行って、エーフィとニンフィアを遊ばせてきたんだよ。あと、ニンフィアの最近についても色々と相談して――」

 ヨネの問いに、ヨヒラはぱっと顔を明るくする。
 その笑顔が本心から来るものなのか、それともヨネに気を遣ってのことなのかは――正直なところ、ひどく曖昧であった。

「あとは……えっと、えーっと。……そうだ! あのね、オオツさんのエーフィが、やっとあたしにも笑ってくれるようになったんだよ。あたし、それがもう本当に嬉しくて、それで――」

 無理にでも話を続けようとするさまが、ひどく痛ましくて、いたたまれない。
 ヨヒラはきっと気づいている。ヨネが暗い顔をしている理由が、おそらく自分に起因するものであること。もうすぐに、今ある笑顔をすべて払ってしまうほどの、とてつもない爆弾が落とされること。
 だからこそ口を止めないのだ。
 ぎゅう、と胸を掴まれるような感覚。痛みともかゆみともつかない、ひどく曖昧で奇妙な感覚がヨネの心臓を優しく撫でる。不快というほどではないが、しかし、そのまま放っておくこともできない。
 感触を振り払うように思わず胸元を握りしめた頃、ヨネはまるで操られているかと見紛うほどの無意識において、つい、口を開いていた。

「あんた……オオツのこと、好きかい?」

 ぴたり。ヨヒラの動きが止まる。明るく笑っていた顔は一瞬で暗く濁ってしまって、その変化を追うだけですべてを察したのだろうことが見てとれた。
 急におとなしくなった彼女を気遣うように、ヒノアラシとニンフィアが静かにヨヒラに寄り添う。その睦まじい様子もまた、激しく胸をかき乱す。

「好き……だとは、思うよ。でも、男の人として、ってわけじゃ」
「じゃあ、友だちとして?」
「うーん……多分、そうかな。でも、友だちというよりは、先輩とか先生とか、そういう気持ちに近いかも」

 ――とにかく。異性としての恋愛感情じゃないことだけは、確か……です。
 言い淀みながらも、ヨヒラはハッキリそう言った。
 その確信めいた物言いを聞けば、彼女に想い人がいることなんて容易に察せられるだろう。
 もちろんヨネには相手の検討もついていて、十中八九あのセキのことなのだろうと推察する。同時に、彼女の抱える恋心がひどく切なくて、憐れで、悲痛なものであることも。
 このヒスイにおいては、むしろ好いた人間と一緒になれることのほうが珍しい。ヨネにもかつて慕っている男がいたが、結局その人は他に嫁をもらい、ヨネの前からいなくなった。ヒスイを出ていったのだ。
 おのれの人生を悲観しているわけではないが、似たような覚えがあるからこそ、この娘に同じ思いをさせたくはなかった。悪習は変えていかねばならない。せっかく激動の時代を生きているのだから、少しずつ世間を、根強く染みついた風習すらも改めていかなければ。
 それが、キャプテンとして、人の上に立つものとしての責務であるとすら思うから。ヨネは意を決して、努めて静かに言葉をつむぐ。

「変に隠しても意味がないだろうから、この際はっきり言っておくね。……あんたに縁談が舞い込んできたんだ。相手は、オオツ」

 目の前の少女が、ひゅ、と息を呑む気配がする。わななく唇が視界に入った途端、衝動的にヨヒラの肩を抱いた。
 この縁談は彼女に痛烈な一撃を与えたのだろう、ヨヒラはすぐにほろほろと涙を流しはじめた。声もあげずに泣く様子は、かつてヒスイに来たばかりの頃の憐れなすがたをだぶつかせた。

「あたしは、嫌なら嫌で撥ねつけてやればいいと思う。あんたの人生なんだし、あんたの好きにやるのが一番だよね」
「でも……っ! それじゃあ、ヨネさんやセキさんに迷惑がかかっちゃうし」
「そんなん些細なもんだ。そもそも、この縁談を持ってきたのも馬鹿げたじいさんばあさんたちだからね。あんなやつらの言うことなんて気にしなくていいんだよ」
「け、けど、あたし――」
「ああもうっ、じれったいねえ! あんたは、いったいどうしたいのさ」

 煮えきらないヨヒラの本音を引き出すため、ヨネはいささか強い口調で問い詰める。泣いている子供をいじめるようで少しばかり胸が痛むが、そんなことも言っていられない。
 しかしヨネの発破も効果はなかったようで、ヨヒラがそれに答えることはなく、ただひたすらにうなだれて、静かに涙を流すばかりだ。
 肩もほとんど揺らすことなく、鼻をすするくらいの静けさが急に恐ろしくもなって、ヨネはまるで彼女の深淵を――否、その一端、もしくは切れ端を覗いたような気持ちになった。……いつもこうして、ひとりきりですべてに耐えてきたのだろうな。

 
「あ……たし、は」

 どれだけそうしていただろうか。まな板の上に転がったまま、ほんの少し水分が飛んだふうなスナハマダイコンを眺めていると、おもむろにヨヒラが口を開く。
 絞り出すようなそれを聞き逃さないよう、ヨネは神経のいっさいをヨヒラに集中した。

「本当は、セキさんと一緒にいたい。ずっと隣で、あの人のことを想って生きていけたら幸せだな、って思う」
「なら――」
「でも、あたしじゃダメだとも思うんだ。……あたしは、セキさんのためにならないから」

 苦痛にあえぐようであるのに、どこか他人事で、淡々としている。ヨヒラの独特の物言いを聞くうち、知らぬ間にヨネのほうが飲まれてしまっていた。

「セキさんは、このコンゴウ団のリーダーを務めるくらいの人だから。もっと賢くて、大人で、みんなに慕われるような人と一緒になるべきだよ。あたしみたいな女と一緒になったら、今度こそコンゴウ団のみんなが何を言うかわかったもんじゃないし、そもそもセキさん本人が、そんなこと望んでないはずだしね」

 言うやいなや、ヨヒラは目元をぬぐっていつもどおりの笑みを浮かべる。仮面のようでも鎧のようでもあるそれはあまりにも堅牢で、もはや手を伸ばすことすら躊躇わせるくらいのものだった。

「だから、あたしは大丈夫です。オオツさんのことをそういう目で見れるかどうかわかんないけど……でも、一緒にいてつらい、なんてことはないから」

 いつもどおりヒノアラシを抱いて、いつもどおりに笑いかけて。さっきの涙はどこへやら、ヨヒラは普段と何ら変わりない様子を振りまいて、深く頭を下げてからさっさと自室へ戻ってゆく。
 一瞬見せた彼女の“歪み”と、普段どおりの明るいすがた。その明確だけれど曖昧な段差に気圧されて、ヨネは知らぬ間に手が震えていたことに気づく。
 まるで自分に言い聞かせるようであったヨヒラの言葉。その一言一句は、しばらく耳から離れてくれなそうだ。
 ――どうにかしてやれたらいいのに。悲痛すぎる嘆願は、結局いつまでもヨネの腹の底にとどまるばかりなのであった。

 
2024/01/30 加筆修正
2022/10/17