晴天に恋う

 ヨヒラとニンフィアが「お友だち」になってから、早三ヶ月が経とうとしていた。
 あれ以来、彼女たちは見違えるほどに仲睦まじくなっている。暴れん坊のイーブイに手を焼いていたヨヒラのすがたを思えば、その変化はひときわなものであると言えるだろう。
 もちろん、仲が良いのはヒノアラシだって同じだ。彼らはいつも三人一緒に行動し、文字どおり片時も離れずに過ごしている。
 三人のあいだには、誰にだって邪魔できない確固たる絆が確立されているように思えた。
 その様子は周囲に微笑ましさすら振りまく。懐かないと進化しないニンフィアを連れていることもあってか、近頃、衆らのヨヒラを見る目はぐっと軟化した。彼女に後ろ指をさすような人はもうほとんどいないし、ヨヒラがいくら話しかけたって嫌悪の目は返ってこない。
 もはや、彼女を厭い忌み嫌っているのは一部の老輩たちくらいのものではないだろうか。
 ――だからこそ、気を抜いていたのだと思う。ヨヒラがもうすっかり集落に馴染んだものだと油断しきって、見張るべき老いぼれたちから目を離していた。少しばかり、好きにさせすぎていた。
 彼らが水面下で行っていたしょうもない企みに、よもやそれが浮き上がってくるそのときまで気づけなかっただなんて――
 今回ヨヒラに振りかかった災難が何に起因するのかと言われたら、それはこうした怠慢が招いたものだと言わざるを得ないだろう。コンゴウ団のリーダーを務めるセキは、一連の出来事にたいして、そう解釈していた。
 

「それじゃああたし、行ってきます! 暗くなる前には帰ってくるね!」

 ヒノアラシとニンフィアを引き連れたヨヒラは、晴れやかな笑みを残して集落をさっと横切ってゆく。彼女の身体能力はポケモンたちと共に走っても遜色ないほどに高く、その背中はみるみるうちに遠ざかった。
 セキが口を開いたのは、彼女の背中がころころマメくらいにすっかり小さくなった頃だ。

「あいつ、最近になってひときわ活発になったな」

 まばゆい笑顔を思い浮かべながらつぶやく。おだやかなふりをしたセキの目に宿るのはいささか複雑な感情のようで、普段優しく細められるそれが、曖昧なふうを象っていた。

「今日もオオツに会いに行くらしいぜ。確か、エーフィにニンフィアの顔を見せてやりたいんだとか――」
「そのことなんだけどさ」

 一閃。すぱん、と空気を裂くようなヨネの言葉に、セキは静かに息を呑み、訝しげな目を向けた。
 暗がりに潜むヨネの表情はセキからはうまく読み取れなかったが、しかし、それが決しておだやかなものでないことくらいはすぐにわかる。
 その感情の出処は、キャプテンとしての責務ゆえか、それともヨヒラの保護者としてのものなのか。数秒という限られた時間でそれらすべてを察し切ることは叶わなかったが、ただならぬ彼女の様子にそっと姿勢を正す。

「近頃、コンゴウ団の年寄りで怪しい動きをしてるやつらがいるんだよね。もちろん、何か大きなわるだくみをしてるってわけじゃあないと思うんだけど――」

 ヨネの言葉を、セキは待つ。まるで死刑宣告にも似た気持ちで、背中にぬるい汗を伝わせながら。

 
  ◇◇◇
 

 保護者二人が話し込んでいる頃、ヨヒラはその俊足を活かして颯爽とコトブキムラまでやってきていた。コンゴウ団の集落ではなかなか拝むことのできない人混みを前に立ち止まり、一度ゆっくりと息を吐いてから、ひどく丁寧に足を動かす。――この景色を見ていると、なんとなく不思議な気持ちになるのだ。
 ヒスイに来てからの自分は、これまで一度もこの地を出たことがない。最近になってコトブキムラにやってくることこそ増えたけれど、しかし、海を渡って広い世界に飛び出したことはいっさいなかった。
 それなのに、こうして多種多様の人間が歩いている様子を目にすると、つい「懐かしい」と思ってしまう。まるでこんな光景をずっと見てきたような、むしろ、これよりもっとたくさんの人々を、毎日のように目に入れていたような――

(記憶をなくす前のあたし、ものすごく人の多いところにいたのかな……)

 脳みその奥を優しく撫でられているような感覚。それを気持ち悪く思う反面、しかし、なにゆえかなんとなく心地良くもある。時にはそれがじれったくて、いっそ手を突っ込んで掻き回してしまいたい衝動に駆られたりもするのだけれど――ある種の痒みにも似た感覚が、ぬるりとヨヒラを襲っている。
 こんな感覚、できれば早めにオサラバしたい――が、べつに昔のことを思い出したいわけでもない。
 過去に囚われるつもりはない。ヨヒラにとって過去は結局過去でしかないし、故郷にも記憶にも頓着はないし、よっぽどのことがないかぎりはこの地を出ていこうとも思っていない。
 いくつも苦難はあったけれど、しかし今のヨヒラにとっては、大切な人がいて、大事なお友だちと出会えたこのヒスイこそが、自分の家で、故郷だから。

(でも――)

 ふと、立ち止まって天を仰ぐ。抜けるような空は雲ひとつない快晴で、深い深い青の向こう側に、ある人のことを思い出した。
 ヨヒラにとって、大切な人。このヒスイにやってきてから、ずっと優しさとあたたかさをくれている、唯一無二の恩人。

(……もし、セキさんに好きな人ができたら。誰かと結婚するってなって、あたしが邪魔になったら――)

 自分がいなくなるのはきっとそのときなのだ、と。覚悟は、ずっと決めている。
 

「ごめんね、ヨヒラちゃん。待たせちゃって」

 イモヅル亭でイモモチに舌鼓をうっている最中、頭上から声が降ってくる。聞き慣れた声に顔を上げると、その声の主は小さく目を見開いて、うっすらと笑ってみせた。
 ヨヒラは口の中のイモモチをもちもちと咀嚼し、しっかり飲み下してから言葉を返す。

「オオツさん……! えへへ、ぜんっぜん、大丈夫です。あたしたち、今来たところですから」
「本当に? それにしては、随分くつろいでるようだけど――」

 オオツの視線は、ヨヒラの目の前に積み上げられた皿のほうに向けられた。ヒノアラシとニンフィアも一緒に頬張ってはいたが、三人分にしてはいささか多い枚数である。
 ――バレた。イモモチの向こう側にほんのりとした苦味を覚えつつ、ヨヒラはもごもごと唇を動かす。

「う……す、すみません。集落から走ってきたので、つい、お腹が空いちゃって」
「謝る必要はないよ。ここのイモモチ、美味しいもんね」

 オオツは彼女の向かいに座りながら、再びゆるく目を細めた。窓側にエーフィを座らせ、ゆっくりと背中をなでてからムベを呼び止めて、追加のイモモチを頼んでいる。
 オオツに連れがいることが珍しいのだろうか、ムベは一瞬だけ怪訝そうな顔を見せながらも、用聞きを済ませてさっさと厨房に戻っていった。

「見た感じ、ニンフィアも調子が良いみたいだね」

 イモモチをほおばるニンフィアに微笑み、噛みしめるようにオオツは言う。一心不乱に口に運んでいるのか、ニンフィアの白いほっぺたは少しばかり汚れていた。

「そうなんです! 最近、すっごく仲良くなれたみたいで……もちろん、セキさんとリーフィアの協力もあってのことだと思うんですけど」
「セキさんたちの?」
「はい! セキさんはイーブイ使いの先輩だし、リーフィアはこの子のお父さんですから。近頃のニンフィア、セキさんにもすっごく懐いてて……そう、この間なんかは――」

 目を爛々と輝かせてしゃべるヨヒラを静かに見守りながら、オオツは微笑ましそうに相槌を打つ。
 ポケモンという鎹を持つ二人の話は、結局イモモチを完食しても一向に止まる気配を見せなかった。

 
2024/02/08 加筆修正
2022/10/12