理想のあなた

「ああヨヒラ、おはよう。今から雲海峠まで出るんだけど、よかったらあんたもどうだい?」

 それは、イーブイと生活し始めてふた月ほどが経った頃の爽やかな朝のことだった。のろのろと起き上がってきたヨヒラは、ゴンベとともに野良仕事の準備をしていたらしいヨネに、そう声をかけられる。
 ヨネはせっせと背負子を運び出していて、おそらく薪を拾いにいくのだろうことがわかった。今日は少しばかり遠出するようだ。
 寝起きでまだぽやんぽやんのヨヒラとは裏腹に、ヨネはすでにぱっちりと目を醒まして、すべての支度を終わらせている。いつもどおり黒髪を結い上げ、髪飾りも欠かさず、キャプテンの装束もばっちり。艶っぽいつり目は優しく細められていて、じっとヨヒラのことを見ていた。
 もっとも、彼女の相棒であるゴンベはまだふあふあとあくびを繰り返していたが――以前コトブキムラで作り方を教えてもらったコトブキマフィンをエサに、なんとか同行させているらしい。どうにか目を覚まそうと体操をしているすがたが、ひどく愛らしく見えた。

「あんたもだけど、もしかしたらイーブイにとっても良い気晴らしになるんじゃないか? 紅蓮の湿地にイーブイはいないから、きっと周りと比べて嫌な気持ちになることもないだろうし……何より、たまには広いところで走りまわらせてやらないとだよね」

 やはりというかなんというか、ヨネにはすべてがおみとおしらしい。イーブイと出会ってからのヨヒラが彼女と仲良くなるために日夜努力に励んでいることも、彼女さえ引き合いに出せば、頼みを断れないであろうことも、すべて。手にとるようとはまさにこのことなのだろうと、未だ眠気の覚めない頭でぼんやりと考えた。

「あんただって、イーブイやヒノアラシと一緒に遊んだりしたいだろう? 遊びながら用事も済ませられるんだ、一石二鳥ってやつだよね」
「それは、そうだけど……」

 今まで守られる側に甘んじていたヨヒラが、誰かのために行動している。誰かを守るために、誰かの助けとなれるように、少しずつおのれの在り方を変えようとしているのが、今だ。
 それはきっと、ヒスイに来てからのヨヒラをずっと見ているヨネにとっては文字どおり目を見張るような変化だったはずだ。ずっと俯くばかりだったヨヒラの目まぐるしい成長を、彼女は心より喜んてくれているのだろうと思う。
 珍しく前向きな考えであるが、そんなふうにヨヒラは解釈していた。
 だからこそ、此度の申し出を断る理由といったら、今のヨヒラを襲っている抗いがたい眠気と、それを振り払うための準備の手間以外、特に見つけられなかったのだが――時間を大切にするコンゴウ団である以上、特に後者の負担は大きいのではないかと推察する。ゆえに、素直に頷くことができなかった。

「あたし、本当に今起きたばっかりだから。これから顔洗ったりしなくちゃいけないし、二人のことたくさん待たせちゃうよ。ヒノアラシとイーブイも起こしてこないといけなくて……」
「構わないさ。あんたたちを待ってるあいだに、裏の畑の世話でもしとくから」

 ヨネの家の裏には、小さいながらもひどく立派な畑がある。ギンガ団の技術や知識がこちらにも流れてくるおかげで生活も豊かになりつつあるが、それでもこの集落では自給自足が基本であるがゆえ、こんなふうに畑をいじって過ごすものは少なくない。
 ヨヒラはヨネのつくる野菜がとても好きだ。瑞々しくて、味が濃くて、お野菜なのに甘みがあって――まるでデザートにでもなりそうなくらい、風味があっておいしかった。ただ洗って切ったのをかじるだけでも、ひときわの満足感を与えてくれるのだ。
 思えば、イーブイが初めてヨヒラの手から食べたものも、ヨネの畑でとれたころころマメを使った豆ごはん、のおにぎりだった。

「……じゃあ、急いで準備してくるね。ちょっとだけ待ってて、ください」
「はいよ。そんなに急がなくてもいいからね、そろそろ畑に手を入れたいと思っていたところだからさ」

 人を待つほんの些細な時間ですら、ヨネは有効に使って過ごしている。働き者で、気風が良くて、懐の深い彼女のことを、ヨヒラはひどく尊敬していた。そんなところまでヨヒラの思う「母親」そのものであるのだから、この人には本当に敵わないし、全幅の信頼を寄せることができる。きっと本来いたであろう肉親以上に、ヨヒラは心から彼女のことを慕っていた。
 理想と憧れが合わさった存在が、ずっと近くにいてくれる。それはとても幸せなことだし、ヒノアラシとイーブイにとっての自分も、そんなふうでありたいと思う。

「急ぎすぎて転んだりするんじゃないよ」

 断りを入れて去る途中。ヨネのあたたかくて優しい視線が、ずっと背中を見守ってくれていた気がした。

 
2024/01/28 加筆修正
2022/10/09 加筆修正
2022/04/23