芽生えかけの親心

 セキから色違いのイーブイを引き取って、早三日が経とうとしていた。この三日間はヨヒラにとってひどく目まぐるしいものだったが、しかしなんとなく心地がよく、疲れているくせに心はすこぶる充実している。
 一日目にはセキにイーブイとの付き合い方を教わり、リーフィアの協力のもと、どんなふうに触れれば嫌がられないかを叩き込んだ。噛まれてしまった手はいささか痛んだが、しかし、それくらいで諦めるわけにもいかないので、体にムチを打つ気持ちで勉強に励んだ。
 二日目には、件のギンガ団のもとへ足を運んだ。ヒノアラシと一緒に彼を訪ね、噂どおりの美しいエーフィに挨拶をし――産後で気が立っていたのか、やはりエーフィはヨヒラを見て低く唸っていたようだったが――ポケモンに不慣れな人がどうやって仲良くなれたのか、エーフィとどう接してきたのかと様々な教えを乞うた。
 イーブイは進化方法が多岐にわたるポケモンで、特にこのエーフィは人間と仲良くなることで進化の条件を満たすことができるらしい。ゆえに、彼がエーフィと非常に仲が良いのであろうことは、このエーフィという存在自体が証明していることだった。
 突然の来訪者に彼は驚愕していたふうだったが、ヨヒラの話を聞くとおだやかに微笑み、たくさんのことを教えてくれた。今度はイーブイと一緒に会いに来ますね、と言うと、快く頷いてくれた優しい人だ。
 そして、今日が三日目である。ヨヒラの部屋は決して広くはないものの、ヨネに頼んで赤ちゃんポケモン用のおもちゃや寝床のお下がりをもらい、環境だけはきちんと整えているつもりなのだけれど――

「うーん……そろそろきちんと眠らなきゃ、あなた、いよいよ病気になっちゃうよ」

 部屋の隅でこちらを睨めつけているイーブイは、いっさいの芳しい反応を返してこなかった。依然としてあの幼子の警戒心が和らぐことはなく、ヨヒラが身じろぎした程度でもびくりと体を揺らす、その様子を見ているとひどく心が痛んだ。
 ――あたし、やっぱり、どうやっても嫌われちゃうのかな。そんなことばかり考えて、情けないことに、今度はヨヒラまで食欲がなくなってしまっている。
 あの子が四方に貼っている壁を一番強く感じるのは、自分以外の生き物の気配があるとまったく眠ろうとせず、こちらに一瞬たりとも無防備なすがたを晒そうとしないところだろうか。引き取った日からずっと、まるで気を失うように眠っては僅かな気配に目を覚ます、ということをあのイーブイは繰り返している。食事すらまともにとってくれないし、生後すぐにこの調子では、さすがに命が危ぶまれる。

「ねえ、イーブイ――」

 話しかけてみても、無視されるか、吠えられるか。その二択がほとんどだった。
 相変わらず、警戒心が丸出しのイーブイ。弱々しいくせに虚勢まみれのすがたは数年前の自分を見ているようで、その類似点もまたヨヒラの気を滅入らせる。さすがに自分はここまであからさまにしているつもりはなかったけれど、もしかするとセキやヨネにはこんなふうに見えていたのかもしれないと思うと、なんだかひどく恥ずかしくて、いっさい関係のないところでぶわっと頬が熱くなる。
 ヒノアラシが対話を試みようとしたって、同じポケモンである彼ですら思いっきり吠えられてしまうのだ。さっきなんかは驚きすぎて背中の炎を燃え上がらせてしまい、あわや大惨事になるところであった。
 ……本当に、大丈夫なのだろうか。燃え盛るような気持ちでセキの頼みを引き受けたものの、勢いが鎮火し始めている今、おのれの決断に今にも押し潰されてしまいそうだ。後悔しているつもりはないが、しかし、それとなく気が重い。

「……慣れてるつもり、だったのになあ」

 嫌われることには慣れていた。好かれないのは当たり前で、避けられることがむしろ自然で。記憶をなくす前のことは定かではないが、ヒスイ地方においてはそれが日常であったはず。
「嫌われること」で傷つかないために、ヨヒラはここで過ごす数年のなかで、おのれの内にある常識をゆっくりと組み替えてきた。好かれたいと思う自分にじんわりと刃を立てて、少しずつ眠らせて、大切な人からの愛だけを見て生きていこうと誓った。そうやって新しい自分をつくって、ヒスイ地方という土地に、コンゴウ団という集団に、適応しようと努力した。なのに、今更。どうして――

「おともだちになりたいだけなのに、難しいね」

 傍らに佇むヒノアラシを撫でながら、ヨヒラはちいさくため息を吐く。
 きっと自分は、仲良くしたいと本気で思っているのだろう。助けたいと思ったヒノアラシに続いて二匹目の、自分から仲良くしたいと、どうにかしたいと強く願ったポケモン。仲間意識を抱いている。少しでも近づくことができれば、きっと自分たちは唯一無二の絆を育むことができると、本能的に察知しているのかもしれない。
 そしてヨヒラは気づくのだ。自分が相手にとりわけ好意的であるからこそ、向こうの拒絶がグサグサと、この胸に刺さっていることに。

「かわいいお布団もつくったのに、全然使ってくれないし……」

 お下がりの寝床では味気ないので、イーブイ用に新しく布団を縫ってやろうと思い立ったのは、確か一日目のことだった。
 セキいわく、このイーブイはメスなのだという。ヒノアラシはオスであったから、今度は女の子のお友だちができる! とひときわ嬉しかった。嬉しくって、たまらなくて、勇み足でヒナツのところに行き、かわいい端切れを分けてもらったのも初日のことだ。
 お花柄や水玉模様の端切れをたくさん継ぎ合わせてパッチワークの掛け布団をつくったのに、ヨヒラの頑張りも虚しく、イーブイはいっさい近寄る気配を見せなかった。彼女が縮こまっている角からちょうど対角線上の片隅で、イーブイ用の寝床として仕立てたカゴが冷たくなっている。昨日にはセキのリーフィアにたっぷり匂いをつけてもらったのに、それもいっさい効果がない。
 ヨヒラの好きなあじさいの花になぞらえて、イーブイの寝床は水色と桜色を基調に揃えられている。しかし、そこに白銀の彩りが与えられることは結局今日までないままだ。

「……あたし、何か間違えてるのかな。ねえ、ヒノアラシはどう思う?」

 訊ねてみても、ヒノアラシもまた「わからない」と言いたげに首を傾げるのみ。ヨヒラは「そうだよねえ」とだけ言って、ヒノアラシを膝に乗せる。あたたかな体を抱いてやると、少し心が落ち着いた。
 イーブイの生態に関しては、件のギンガ団を訪ねてコトブキムラに行ったついでに、テルやラベン博士といった知識人から様々なことを教わった。イーブイは種族自体が非常に珍しいポケモンゆえ、そもそもヒスイ地方では見かけること自体が稀なのだという。そのなかでも特に数の少ないメスであるうえ、突然変異の色違い――彼女がどれだけ稀有な運命を背負っているのかということを、ラベン博士はヨヒラにもわかりやすいよう噛み砕いて説明してくれた。
 可愛くて、きれいで、そのうえ、とても珍しい。あのイーブイはともすると、一歩外に出るだけでありったけの奇異の目を向けられるのだろう――
 そこまで考えて、ヨヒラはあっと声をあげる。ふと脳裏をよぎった気づきもまた、彼女にとっては非常に身に覚えのあることだ。
 ヨヒラの何かを感じ取ったのか、ヒノアラシは彼女のことを見上げながらちいさく鳴いている。

「やっぱり……この子も、怖いのかな。人の目とか、気配とか、そういうの。……そうだよね。まだ生まれたばっかりだし、いきなり知らないところにつれてこられたら、誰だって怖いよね――」

 それは、ここにきたばかりの自分がずっと考えていたこと。
 誰にも触ってほしくなかった。皆と仲良くなりたいこともひとりが怖いこともまったくの事実であるけれど、むやみやたらと舐めまわすような視線を向けてほしくはなかった。自分は見世物なんかじゃない。みんなと同じれっきとした一人の人間なのに、そんなことはありえないとばかりに、誰もがヨヒラを奇異の目で見た。
 今はテルという存在のおかげでだいぶ緩和されているが、それでも老輩たちは依然としてヨヒラに厳しい目を向ける。かつてはコンゴウ団やヒスイ地方に厄災をもたらす疫病神として――そして今はリーダーと睦まじく見える女として、ヨヒラにはいつも値踏みの目が刺さっていた。改善傾向にあるはずの団員との仲は、今度はまた違うかたちで、ある種の軋轢を生み始めている。
 思い出すだけで気持ち悪いそれは、屋内で誰の目もないところにいるはずなのに、静かにヨヒラの胃を蝕んでキリリと物理的な痛みをもたらす。
 しかし、経験は得てして理解につながるものだ。視線に怯えて生きるヨヒラだからこそ、なんとなくわかることもあった。人の目はひどく痛くて、怖い。注ぐ側に攻撃の意図はなくとも、それを向けられるこちらからすれば、時として鋭い刃になる。
 そして芽生える新たな気づき。その苦しみをずっと背負っている自分が、このちいさな命に対して、同じことをしているのだとしたら――?

「……ごめんね、イーブイ。あたし、あなたのことちゃんと考えられてなかった。じっと見られて、いきなり触られそうになって、そんなの、絶対やだもんね」

 言って、ヨヒラはそっと背を向ける。ヒノアラシを抱え直してから、イーブイの警戒心や痛みが少しでも薄まるよう、できる限り声を落ちつけて、話した。

「えっと……あたしね、ポケモンにはあんまり詳しくないんだ。お友だちもこのヒノアラシだけで、あとはセキさんのリーフィアと、ヨネさんのゴンベくらいしか、きちんとお話できる子もいなくて……」

 ゆっくり、ゆっくりと。イーブイをこれ以上傷つけることがないよう、ヨヒラはおのれの言葉でやさしく想いを紡いでゆく。手のひらの傷はまだじくじくと痛んでいるが、そっとなでるとなんとなく気分が落ち着いた。きっと、この傷に触れていればイーブイを縛る恐怖に寄り添うことができるからだろう。

「でも、あなたのされたら嫌なことはなんとなくわかる気がするから、この先はちゃんと気をつけるね。……だから、これから少しずつ仲良くなれると嬉しいな」

 ヨヒラの言葉が届いたのか、否か。仔細はわからないが、背中への刺さるような視線がぷっつりと途切れた気がした。やがて聞こえてきたのはおだやかな寝息で、それはイーブイがここにやってきてから、初めて聞かせてくれたものだ。
 そっと、気づかれないように振り向く。今まではたったこれだけの動作でも簡単に目を覚ましていたのに、此度は深い眠りについてるのか、ちっとも起きる気配がない。
 ならば、と。気配を消すのはヨヒラの得意分野であるので、そうっと動いて、イーブイのためにあつらえた布団に手を伸ばす。さすがにこのまま抱っこして動かすのは可哀想なので、起こさないように手作りの掛け布団をかけてやった。イーブイのことを考えて作っただけのことはあり、彼女の白銀の毛並みによく似合っているように見える。
 イーブイの目覚める気配はない。そのことに安堵して、ヨヒラとヒノアラシは彼女のおだやかな寝顔を網膜に焼きつけたあと、再び背を向けたのだった。

 
2024/01/27 加筆修正
2022/04/21