言わば、青天の霹靂

「なあ、ヨヒラ。おめえよ、イーブイに興味はねえか?」

 ニヤリともニコリとも形容しがたい笑みを浮かべるセキは、ヒノアラシと遊んでいたヨヒラにそう声をかけてきた。ここは紅蓮の湿地にあるコンゴウ団の集落――の、外れだ。
 何年経っても刺さる視線があるおかげで、ヨヒラは相変わらず人のなかにいるのが得意ではない。ゆえに、ヒノアラシと二人でいるときはいつも人気のないところばかりを選んでいた。
 だのに、どうして彼には――否、彼だけではない。どうしてセキとヨネには、自分の居場所がすぐにわかってしまうのだろう。群れを外れた自分を見つけてもらえるたびにそんな疑問が浮かぶのだけれど、仮にそれを尋ねたとして、次からいっさい探してもらえなくなったらそれはひどく淋しいことだ。だからヨヒラはあえて気づかないふりをしたまま、こうして今に至っている。

「興味……って、どういうこと? 可愛いなあとは思うけど」

 ヒノアラシと遊ぶ手をとめ、ヨヒラはじっとセキの目を見る。セキの疑問の意図がわからなくて、どうにか彼の真意を読み取ろうとしたものの――しかし、その考えは相変わらず読めない。
 このまま無駄に話を引き伸ばすのはよくないので、無理に探ることは諦め、ひとまずは当たり障りのない返事で彼の言葉を待つことにした。

「おう、そうかそうか。じゃあ、友だちにはなりてえか?」
「友だち――」

 なれるわけがない、という言葉はギリギリのところで飲み込んだ。そんなふうに後ろ向きな言葉を吐き出すべきではない、そう思ったからだ。
 しかし、ヨヒラのいやに暗んだ逡巡すらも、やはりセキにはおみとおしのようである――彼はヨヒラの心中を巧みに読み取り、慰めるように優しく頭をなでた。

「もちろん、無理にとは言わねえがな。ちっと頼みがあるのよ」
「頼み……?」
「おう。実はな――っと、我慢できずに出てきちまったか」

 刹那、木陰から現れたのは小さくてふわふわとした、生まれたてと思しき命。なんとなく覚束ない足取りのその物体――もとい、ひどく幼げなイーブイは、全身の毛を逆立てながらじっとりとこちらを睨めつけていた。
 ――正直なところ、慣れている。こんなふうにいきり立ったポケモンを前にするのはヨヒラにとって珍しいことではなく、むしろ日常茶飯事であった。ゆえにみだりに騒ぎ立てることなく、イーブイの様子を窺うことができるのだが。
 本来の愛らしい容姿とは裏腹の険しい顔つきを見れば、イーブイが如何に警戒心をむき出しにしているかがわかる。顔つき以外にもなんとなく違和感があるような気もするのだが、その答えは木陰という暗がりのせいでうまく見つけられなかった。
 ただ、幼いイーブイのまとう危うい雰囲気が、なんとなくかつての自分を想起させたような気がして、ほんの少しだけ胸が軋む。

「セキさん、この子は……」
「オレのリーフィアの子供さ。おそらくはな。ついさっきコトブキムラで引き取ってきたのよ」
「おそらく、って……え、じゃあもしかして、リーフィア、よそで勝手に子供つくってきたってこと?」
「ハハハ! ……おめえ、オレの相棒に随分な口利いてくれるじゃねえか」
「あ、あわ、ごめんなさっ――うひゃあ!」

 言うが早いか、セキの大きな手によって頬を思いきり引っ張られる。伸びがいいおかげでそれほど痛くはないものの、その感触はにわかに反省の心を刺激した。
 やがて解放された頬を押さえながら謝罪を言い直すと、セキはからりと笑いながらヨヒラの頭を撫でてくれた。別に本気で怒ってはいなかったのだろうが、どうやら問題なく許してくれたようだ。

「ギンガ団にな、エーフィをたいそう可愛がってる男がいるのよ。ヨヒラ、エーフィは知ってるか?」
「えっと……リーフィアとは別の、イーブイの進化型だよね? シンジュ団のカイさんと一緒にいたの見たことあるよ」
「おう、なら説明は省くぜ。……で、そのエーフィは人間のオレから見ても随分なべっぴんさんでな、オレのリーフィアもゾッコンだったわけさ。向こうさんも満更じゃあないようだったから、とりあえず見守るかって話になってたわけなんだが――」

 しかし、主人たちの想像よりも二匹の仲は熱烈であったらしく、人間のあずかり知らぬところで玉のような子を授かっており――発覚してからは何もかもがあっという間で、危なげなく出産しての今日、ということらしい。
 いわく、エーフィを世話しているギンガ団員はまだまだポケモンに不慣れな人なのだという。エーフィとすら手探りで付き合っている状態なのに、そこにイーブイが加わったとして、果たしてきちんと世話ができるかどうかと――それが、彼のもっぱらの悩みであったそうだ。

「そのうえ、あのイーブイは突然変異……いわゆる色違いってやつだ。ポケモンに不慣れな人間じゃあ、なおさら手を焼くだろうよ」

 ――色違いのポケモン。耳慣れない言葉であるが、なるほど、それならイーブイ相手に抱いた違和感にも納得がいく。木陰で震える輪郭によおく目を凝らしてみると、確かにこの子は他のイーブイと違う、真っ白な毛並みをしているようであった。
 文字通り毛色が違うことを理解した刹那、ほんの少し、場違いな親近感を抱いてしまった。群れから外れた異物であるという、おのれとの類似点に。

「調査隊によれば、色素以外の差異等々はまだ発覚してないらしいんだが……まあ、ここまで予想外の出来事に見舞われちゃあ、誰だって音をあげちまうわな」

 経済的な問題もあるし、無理に引き取って万が一ということになるよりは、素直に里親に出したほうがイーブイのためになると。優しげな、けれどもひどく悔しそうな顔をしながら、件のギンガ団員はそんなふうに言っていたらしい。
 セキとしてもその判断には賛成だと言う。おのれの許容範囲を理解しているのは人間としての土台がしっかりしていることの証明で、頼れる相手がいるのなら、無情に逃がすより何倍もいい。むしろ、不慣れな状態でよく出産までの面倒を見てくれたものだというのが、どうやらセキの総意のようだ。
 そのままいっさい揉めることなく、セキはイーブイを引き取ったその足でヨヒラの元へやってきたらしい。そういえば今日は珍しく一人でコトブキムラに行くと言っていたが、なるほど、そういうことだったのか。
 事のあらましはなんとなくわかった。けれど、ヨヒラのなかにあるのは一種の恐怖心と疑念だ。彼女がポケモンにひどく嫌われることは、セキもわかっているだろうに。
 当たり前の疑問を口にするか、否か。ヨヒラは決断を迷いながら、もごもごと口を動かしていた。
 しかし、これは決して捨て置けない問題だ。ヨヒラからすれば不可抗力ではあるものの、おのれの体質によって引き起こした騒動にはいくつかの覚えがある。自分の特性を理解しているヨヒラには、その問題から目を背けて愚直に頷くことができなかった。
 ゆっくりと体内の酸素を入れ替えてから、素直な疑問をセキに伝える。彼が何を考えているのか、きちんと確かめるために。

「でもセキさん、あたし、絶対この子に嫌われちゃうよ。ほら、今だってこんなに――」
「おっと、それは早とちりってやつだぜ。あのイーブイはな、誰に対してもああなのよ」

 けれど、セキは事もなげにそう言い放った。おめえの言うことなんておみとおしだぜとでも言いたげなその顔は、いつもどおり余裕に満ちた、大人の男のそれだった。
 いわく、あのイーブイは肉親であるリーフィアとエーフィ以外にはいっさい心を開いていないらしい。件のギンガ団員が手を焼いた要因のうちのひとつがこれだと、セキは静かにそう語った。
 実際、説明も兼ねてセキが抱き上げようとするもイーブイはやけに抵抗していたし――体格差でなんとか大人しくさせているものの、未だふうふうと彼をいかくしながら、依然として毛を逆立てたままなのだ。
 ……セキさんも、こんなふうにポケモンに嫌われることがあるんだな。ヨヒラのなかに生まれた小さな発見は、世間からすれば至極当然のことなのだけれど、彼女にとってはまるで世界が開けたような感覚に陥らせるものだった。

「なあ、ヨヒラ。オレはおめえに無理難題を押しつけてるつもりはねえんだぜ。確かにこのイーブイは随分といじっぱりで、余程の手練でもなければ手を焼きそうなもんだが――」

 セキは、恐れもなく優しくイーブイをなでた。彼はなぜだか慈愛に満ちた顔で微笑んでいて、どうして笑っていられるのかがヨヒラにはちっともわからなかったが――その顔になんとなく見覚えがある気がして、ぎゅう、と胸が締めつけられる。

「この数年で、おめえは随分みなと仲良くできるようになった。老輩たちはまだうるせえが、若者たちとは目を合わせて話ができるようになったろ。最近はほら、テルっつー新しい友だちだってできたみてえだし」
「それは、そうだけど……」
「コトブキムラにはおめえの味方がたくさんいるし、コンゴウ団だって、少しずつおめえを見る目が変わってきてる。今が潮目ってやつなのよ」
「…………」
「いつまでもそこに留まってるわけにはいかねえ。時は流れるし、世間も移ろう。……おめえだって、そろそろ一歩を踏み出すときなんじゃねえか?」

 セキは、再びヨヒラの頭をなでる。ちらりと覗い見た彼は迷いもなく堂々としていて、ヨヒラのことを強く信頼していることが、痛いほどに伝わってきた。
 ……一人ではないと、そう言ってくれている気がした。おめえならできる。必ずやれる。セキのその言葉は、想いは、いつだってヨヒラの弱い心に寄り添いながら、あふれるほどの力をくれた。

「……けて、くれる?」
「うん?」
「この先あたしが何かに困って、もうどうにもならなくなったら……そのときは。セキさん、あたしのこと助けてくれる?」

 そんなこと、わかりきっているのに。セキが自分を見捨てるわけがないと知っているくせに、試すような言葉を吐いた。
 甘えているのだ。セキのことを信頼して、寄りかかっているからこそ、当たり前のことを訊いて、何気ないことを肯定してほしい。絶対に見捨てない、傍にいる、家族だから、仲間だからと、そんな当たり前に聞こえる言葉を、飽きるくらいに聞かせてほしい。
 浅ましくてたまらない、ひどく本能的な自分が、彼の優しさを確認したがって仕方なかった。それがいずれは彼の負担になることだって、きちんと理解しているのに。

「……あたりめえだろ。このオレを誰だと思ってんだ、コンゴウ団のリーダー、セキだぜ」

 そして、セキは案の定にっかと笑ってヨヒラのそれを受け入れた。甘ったれたグズグズの言葉を、ヨヒラなんてすっぽり覆い隠せるくらいの包容力で抱きしめた。
 そっとヨヒラの手を握る指先は、包帯越しでも伝わるくらいにあたたかい。体の端から端へと染み渡ってゆくぬくもりが、ヨヒラに確かな勇気を与えた。
 刹那、ヨヒラの瞳に仄かな炎が灯る。ヒノアラシが見せる炎と同じ色のそれは、彼女の意志を強く表しているようだった。

「――あたし、頑張ってみる。この子とたくさん、仲良くなる……!」

 言って、ヨヒラはイーブイに手を伸ばす。セキに抱かれたままのイーブイは一瞬びくついた様子を見せたものの、じっとヨヒラの目を見つめていた。
 イーブイの警戒が緩むか、否か。そのタイミングを見計らって、ヨヒラはそっとイーブイを撫でようとしたのだが――

「あいたっ……!」

 ――がぶり。焦りは案の定無用な痛みをつれてくるもので、怯えたイーブイからの手痛いかみつくを食らってしまった。
 突然の出来事に、二人は目を見開いた。ヨヒラの手のひらからは静かに血が流れて、その光景は、あの事件を想起させるに充分なもの。

(あ――)

 数年前のあの日――サイホーンの群れに襲われてめちゃくちゃになってしまった数年前のあくむが、まるですぐそこに迫ってきているようだった。
 ――足がすくむ。痛むのは手のひらのはずなのに、傷痕なんていっさい残っていないのに、まるで全身がばらばらに砕けてしまったような錯覚と痛みが、ヨヒラの脳天を貫いている。

「――ヨヒラ! おい、大丈夫か?」

 一瞬で暗転した視界を裂くのは、焦りを滲ませたセキの声。葛藤に苛まれた表情は険しく、きっとイーブイを抱いている手前、今すぐ彼女に寄り添うことのできないジレンマに襲われているのだろう。
 珍しく取り乱したようなセキをかすがいにして、ヨヒラは遠くなる意識をなんとか繋ぎとめた。立ち止まってはいられないと、成長を促してくれたセキの信頼を裏切るわけにはいかない。自分以上に自分のことを案じてくれている彼に情けないところを見せるのは、なけなしのプライドが許さなかった。
 諦める、なんて選択肢はもう捨てた。すぐには無理でも、ちゃんと向き合って変わっていかなければ、きっと自分は、停滞しかない。

「……まけない、から。あたし、絶対この子と仲良くなってみせる……!」

 有り体に言うなら、燃えている。ヨヒラの胸のうちにあるのは、雨を晴らすほどの炎だ。

 
2024/01/27 加筆修正
2022/04/18