曇り空、晴れぬゆえ

 ヨヒラについての無用な憶測と噂が這いまわるのに、そう時間はかからなかった。
 雑音交じりの言葉はいやに陰湿でねちっこくて、直接彼女の耳に入ればどんな傷を負うかわからない。できることならそれらすべてを大人しくさせたいが、人の口に戸は立てられぬというし、頼りのない自分にそれを全うできる気もしない。
 こんなふうにうだうだと考えていても時間の無駄だし、いつもならそれでもどうにか打開の策をひねり出そうとするのだが……珍しく後ろ向きになってしまっているあたり、思ったより参っているようだ。
 否――もしくはあることないこと宣っては騒いでいる、現状のすべてを凝縮したようなやつが目の前にいるからかもしれないが。
 セキは、今にも耳をふさぎたくなるような彼の――弟分であるツバキの言葉を、数十分間ずっと聞き続けていた。

「だからツバキはやめろと言ったんだ! どこから来たかもわからない子供を集落に迎えるなど、それこそ愚の骨頂だと……!」
「あのな、ツバキ。そもそもおめえはあいつが来てから一度もオレの前に現れてねえじゃねえか」
「まあそうだね。なんせ、ツバキがおのれの考えを述べたのはアニキではなくスカしたスカタンク相手なのだから」

 どうしてこいつはこんなに自信満々なのだ――! 漏れそうになるため息を腹の奥に押し込みながら、セキは先日の出来事を思い返す。ヨヒラと出会った翌朝の、例の事件が起きたときのことだ。
 サイホーンはもともと気性の荒いポケモンだが、タカノリのサイホーンが暴れたところなんてついぞ見たことがない。雨の日は家のなかでおとなしくしていたし、晴れた日にはタカノリや集落の人間と一緒に散歩したり遊んだりと、ひどく穏やかで優しいやつだったはずだ。
 ヨヒラを拾った帰りの道中のこともあるし、サイホーンの暴れる原因になったのはおそらくヨヒラで間違いない。それは紛れもない事実だし、御託を並べて無理くり否定するようなつもりもない。
 問題なのは、その一件でヨヒラへの視線がひどく冷たいものとなってしまったことである。先ほどヨネからも報告を受けたが、気分転換にこっそり散歩に出かけた帰り道にも、老輩たちから侮蔑のまなざしを向けられたという。その場はヨネが取り持ってくれたのでそれ以上何もなかったが、このまま増長してしまえばヨヒラの身に何が起こるかわからない。
 近頃はギンガ団と名乗る集団が西のほうに出入りしているようだし、ヒスイに住む人間もポケモンも、今までより何倍もぴりついているのだ。

「……まあ、とはいえね。それでもアニキの決めたことを否定するつもりはないよう。アニキがあいつをコンゴウ団の仲間として迎え入れるなら、ツバキもそれに従おうじゃないか」
「おめえよ、さっき思いっきり否定してなかったか? ……まあ、そうだな。ありがとよ、助かるぜ」

 ツバキという思わぬ援軍に、じくじくと痛んでいた頭が少し楽になった。色々と面倒な性格をしてはいるものの、さすがは次期キャプテンと噂される人間なだけはある。
 リーダーとして考えるのであれは、おそらくヨヒラを捨て置くほうがよっぽど正しい選択なのだろう。たったひとつの種のおかげで集落全体がざわつくのなら、大より小を犠牲にして安寧を保つのは至極まっとうな考え方だ。
 しかし一人の人間としての「セキ」は、そうであるはずがないと――そうであってはいけないとすら思っている。彼女を最初に見つけた人間だという責務もあるし、あんなにも不安そうに、消えそうなくらい震えていた様子を見てしまっている自分には、とてもじゃないが彼女を捨て置くなんてことできやしない。
 たった一瞬とはいえ同じ時を過ごした人間を簡単に切り捨てられるほど非情なつもりはなかったし、それこそコンゴウ団の教えに反するというものだ。
 ――どうすればいいのか。考えるのはあまり得意ではないのだが、どうにか解決に至る道を探さなければいけないと、セキはここ数日、ずっと頭をひねり続けている。

「あ、あのう……セキさん、いますか?」

 刹那、入り口の控えめな開閉音とともに聞こえたのは覚えのある声だった。潜めるようなそれは彼女自身の置かれた立場を如実に表しているようで、それだけでちくりと胸が痛む。

「ヨヒラ……! おめえ、みだりにうろつくんじゃねえって言っただろうよ」
「あ……え、えっと、そうなんですけど。今は人の気配もなかったから、大丈夫かなって、思って」

 へにゃり。力なく笑うその顔は、あの日に少しだけ見せてくれた快活なそれではなくなっていた。ギリギリのところで立っているような、触れるだけで壊れてしまいそうな、不安定な脆さを湛えている。

「やあ、やあ、来たね、来訪者! 思ったよりは元気そうじゃないかよう、憎まれっ子世にはばかるとはまさにこのことだね!」
「おい、ツバキ! そんな言い方するもんじゃ――」
「大丈夫です! ツバキさんはまだ優しいほうだから……ほら、ちゃんとあたしの顔を見て話してくれるし、ねっ」
「そうだとも! このツバキ、人を見る目はあるほうだからね」

 ヨヒラの物言いに、ツバキはふん! と鼻を鳴らすばかりだった。
 どうやら、ヨヒラは思ったよりも人の機微や好意の有無に敏いらしい。それならばきっと、今彼女を取り囲んでいる敵意はやわらかな彼女の心にひときわ強く刺さっているのだろう。
 それでもこうして笑っていられるのは彼女が強いからなのか、それとも――

「今日は……その、セキさんに『大丈夫』を言いたくて来たんです。セキさん、きっとあたしのせいでたくさん悩んだり、忙しくしてたり、するだろうから」
「まあ……それがコンゴウ団リーダーとしての役目だからな。別におめえだけのせいじゃねえよ」
「でも、火種になってるのは間違いなくあたしでしょう? あたし、こう見えても結構丈夫なんです。だから、セキさんはあたしのことより、集落の人たちのことを考えてあげてください」
「ヨヒラ――」
「大丈夫です! セキさんにもヨネさんにも迷惑をかけないよう、精いっぱい頑張るので」

 だから、安心してくださいね。
 そう言って笑う顔は今までで一番眩しかったが、いやに焦燥感を掻き立てられる、複雑な色をしていた。

 
2024/01/24 加筆修正
2022/03/08