空が、見えない

 ヨヒラがコンゴウの集落にやってきてから、もうどれだけの日が過ぎたか。数えるのも億劫なくらい、時の流れはあっという間だ。
 彼女は、今日も元気に笑っている。誰にどんな仕打ちを受けても、どんな雑言を投げつけられようとも、ずっと笑顔を崩さない。
 日を追うごとにどんどん笑顔は深くなって、それは時としてひどく危うげに映るほど、彼女の笑顔は眩しく見えた。
 セキのリーフィアもさすがに異変を感じ取っているようで、なんとなく落ちつきがないような様子を見せている。その素振りはヨヒラを前にしたときとはまた違い、不安よりも心配のほうが強いように思えるものだ。 
 リーフィアといえば――セキやヨネの気持ちが伝わっているのだろうか、近頃のリーフィアとゴンベは、ありがたいことにヨヒラに対してあまり警戒しなくなった。他人と同じようにとまではいかないが、それでも最初期よりは態度も和らいでいるようで、リーフィアなんかはヨヒラが来ても変わらず穏やかに昼寝をしているほど。
 少しずつ変化が訪れている。か細いがそれは確かな光明であって、力を尽くせばどこかに改善の道はあるのだ。
 もっとも、当のヨヒラにそんな些細な希望を見ている余裕はないのだろうが……

「なあ、ヨネ。ヨヒラは――」
「ダメだね。あたしが何を言っても『問題ない』『大丈夫』の一点張りさ。……とはいえ、あれもあたしたちに心配をかけまいとしてるんだから、下手に突っ込むこともできなくってねえ」

 寝食を共にしているヨネ相手にすらこうなのだ、今さら自分が迫ったところで何も変わりはしないだろう。むしろ無駄に怯えさせたり、余計に心を閉ざす羽目になったりするのが関の山だ。
 ここまで行き詰まってくると、こうして気を揉む時間こそが無駄なのではと思ってしまう、そんな自分こそが嫌になる。成果が出るならいくらでも待つつもりだが、先行きが不明瞭である以上立ち止まっているわけにもいかないのだ。

「最近は随分と食も細くなっちまってね。はじめはピッタリだったあたしのお下がりも、だんだんゆるくなってるみたいなんだよね」
「本気かよ……」
「本気も本気、正真正銘の真実さ。……実は昨夜、適当な理由をつけて湯浴みを共にしたんだよね。ちゃんとこの目で見たんだから間違いないよ、元から細っこかったのに、今では折れそうなくらいさ」

 相変わらず抜け目のないやつだ――漏れそうになる言葉を飲み込んで、セキはくっと眉間にシワを寄せた。
 今、この集落において一番ヨヒラの近くにいるのはヨネだ。そんな彼女の発言には良くも悪くも重みがあって、言葉のひとつひとつがセキの背中にずっしりと、カビゴンのごとくのしかかってくる。
 なんとかしてやりたい、けれど、集落の皆の気持ちもわかる。知らないものや得体のしれないものを恐れるのは当たり前だし、未曾有の出来事というものはいつも人を脅かすのだと、耳にオクタンができるほどじいさまに聞かされてきた。
 みんな平穏を、穏やかな日々を守りたいだけ。皆は集落という小さな世界の「あらゆるもの」を「友としている」だけで、セキやヨネなど一部の人間はその範囲が広いという、ちょっとした違いしかここにはない。
 もともとヨヒラがこの集落の人間であったのなら、皆の態度も少しは変わっていたのかもしれないが――しかし、それはたらればの話でしかない。そんなことを考えていても何の意味もないし、現状が変わることはない。そんなこと、セキだってよくわかっている。
 わかっているはずなのに、どうしてもこの頭はぐるぐるとあることないこと際限なく考えてしまうのだ。

(――チクショウ。リーダーなんて名ばかりの自分が嫌になるぜ)

 老いぼれたちとの対話は何度も試みてきた。しかし、リーダーとはいえまだまだ若造のセキに彼らの態度を変えさせるだけの力はないようで、時間をかけて語りかける必要性ばかりを感じさせる。今すぐ現状を打破する方法なんてものは、もしかすると存在しないのかもしれない。
 必要なのは時間なのだ。お互いを理解し、歩み寄るだけの時間が圧倒的に不足している。それはセキだけでなく、ヨヒラにとっても、集落にとっても。
 
 果てのない思考の渦に飲まれていると、出し抜けなヨネによって軽く眉間をつつかれる。
 とっさのことで弾かれるように顔を上げれば、彼女は幼い頃から見ていた「姉」の表情をしていて。傍らに立つゴンベも彼女の真似をしているのだろう、同じように腕を組んで自慢げな顔をしていた。

「あんたがそんな顔してたら、集落のみんなも暗くなっちゃうでしょうが。……ま、あたしはあんたの情けないところなんて腐るほど見てるし、今更どうも思わないけどね」
「ヨネ――」
「まったく、本当に手のかかる弟だよ」

 ヨネの薄い手のひらが、いささか乱暴に頭をなでる。
 せっかくまとめた髪がぐちゃぐちゃになってしまうのだろうが――それでも、その手のひらから伝わる無類の懐かしさは、じんわりとやさしく染み渡って、沈んでいたセキの胸を軽くするのだった。

 
2024/01/24 加筆修正
2022/03/13