欲しかったもの

 それは、ポカポカ陽気の気持ちいい春の出来事だった。束の間の小休止ではないけれど、あたしはふとミシロタウンに立ち寄って実家で羽を伸ばしていたのだ。
 そんななんてことない昼下がりのこと、久しぶりに家に帰ってきてテンションが上がってしまったのだろうか、プクリンがいつものふかふかでつやつやな体毛を大胆に汚して戻ってきたのである。柔らかなピンクの毛皮は跡形もなく泥の色。やんちゃでお転婆な女の子だから仕方ないのかもしれないけれど、それにしたって程度はあるんじゃないかと思ってしまうのは仕方ないことだろう。
 よく見るとプクリンはお友達なのか子分なのかジグザグマを連れ帰ってきていて、なるほどこの子と遊んでいたからこんなに汚れるハメになったのだなと、納得こそ、したけれど。しかしそれでこのやりきれない気持ちが落ち着くわけはなく、あたしは大きくため息をついてポケモンたちのシャワータイムを始めたのだった。
 まずは汚れの軽度なジグザグマから。いくら野生とはいえ自分の子だけを洗うわけにもいかないし、少しくらいなら変に懐かれることもないだろう。あたしは玄関の脇にあるホースを手に取って、蛇口で水圧を調節しながらジグザグマの体にこびりついた泥を落としてやる。よく見ると葉っぱやきのみの食べかすまでくっついていて、ちらりとプクリンを見ると同じく毛皮の隙間にあるクラボのみの茎。……なるほど、おやつは外で済ませてきたってわけだ。じゃあ今日の3時のおやつは抜きね、せっかくママが美味しい美味しいモモンパイを作ってくれるっていうのに。待ち時間が暇なのだろう、自分でもゴシゴシと泥を払うプクリンに心のなかで合掌しながら、あたしはジグザグマのシャワーを続ける。ああでも、それやると余計に泥が刷り込まれちゃう気がするなあ……まあいいか。
 ポケモン用シャンプーを手に取ってジグザグマを洗ってやると、気持ちが良いのだろうかうっとりと目を細めてはあたしに身をゆだねてきた。下手に暴れられなくてよかった、大惨事は免れられたみたいでほっと胸をなで下ろす。頃合を見計らって泡を流すと、ジグザグマは全身をぶるぶると震わせてまとわりつく水を払った。お約束とでも言うべきかあたしはその水を被ってしまったのだけどそれについての嫌悪感などは特になく、むしろ気持ちいい! すっきり! とでも言わんばかりのジグザグマの笑顔にすうと心が洗われた気分だ。
 満足げに去っていくジグザグマに手を振って、あたしは退屈を持て余すプクリンへと目線を投げかける。綺麗にしたかったのか汚したかったのかわからない、逆に泥を塗り込んだようなその姿はまるで泥団子のよう。げんなりするような逆にやる気が湧いてくるような、ひと言で言うならとても複雑な気持ちであたしはホースを握り直した。

 

「もー、次からはもうちょい気をつけてよねー」
「ぷぅ……」
 不服そうに息を吐くプクリンへ、あたしは丁寧に丁寧にドライヤーをかけてやる。「すてみタックル」が「どろばくだん」にでもなりそうだった土の塊は、長らく時間をかけてようやっと本来の体毛を取り戻すことが出来た。淡い桜色に染まる毛はひどく柔らかで心地が良い。プクリン同士が寄り添うとあまりの気持ち良さに離れがたくなると何かで見たことがあるが、確かにそれも納得の触り心地なのである。
 そして、その極上の手触りをどれだけ保つことが出来るか、またどれだけ高めることが可能なのか。それが、ほかでもないトレーナーとしての腕の見せどころであり、義務なのだろうとあたしは思う。
「こうするの、夢だったんだよなあ」
「ぷ?」
「……パパにね、おねだりしたことがあるの」
 このミシロタウンに引っ越してくるより前のこと。単身赴任中のパパのもとへ1人で遊びに来たおり、当時まだまだ子供だったあたしはパパにプリンを捕まえてくれと、そうねだったことがある。テレビで見た桃色のまあるい生き物はあの頃のあたしの目には――もちろん今も好きだけれど、とにかく耐えきれないほどひどく魅力的に映ったし、可愛いからほしいというのは小さな子供にとって当然の欲求ではないだろうか。パパのジムがノーマルタイプを専門としていることもあって、その関心はどんどんとプリンに寄せられた。
 しかしパパの返事は決して色良いものではなく、ゆっくりと「チイロにはまだ早いから」と言い聞かされたことを今でもしっかりと覚えている。次がれたのは「どうせならユウキと一緒がいいだろう?」という言葉で、そのひと言にがつんと頭を打ちつけられる感覚に陥ったのもなんだか久しい。きっと、もしかするとあたしはあのときから、パパのことを特別視していたのかもしれないね。
 その数年後、まあほんの数ヶ月前のことなのだけれど、晴れてあたしはこのミシロタウンに越してくることができた。もやもやを抱えたままではあれど、これでやっとパパと一緒にいられる! そう意気込んだのも束の間、気づけばユウキはあたしより先にオダマキ博士からポケモンを貰っていて、ずっと我慢していたあたしはまた1人でショックを受けたのだった。
 ユウキに遅れをとる形ではあったけれどあたしもちゃんとキモリをもらうことが出来たし、その子も今では立派なジュカイン。もしかするとユウキも同じようにねだって断られたことがあったのかもしれない、あたしより悔しい思いをしたのかも、色々悩んで、迷って、苦しんでいたのかもしれないけれど。
 ――ああ、あたしはきっとユウキには何だって敵わないんだろうな。そう思わせるには十分すぎる出来事だったと、あたしは今でもそう考えてる。
「……よし、出来た」
 あらかた乾いたふかふかの体をブラッシング。毛先が絡まないように、キューティクルを傷つけないように、もしかすると自分の髪よりも慎重に、細心の注意を払いながらやっているかもしれない。けどこうして自分のことよりもポケモンや他人を優先するようなところ、そこはなんとなくパパに似ている、そう言ってもらえてからあたしは自分のこういうところも少しだけ好きになれた。
 整った毛並みはつやつやと光り輝いていて、陽の光を反射しては美しくきらめく。うまくいった、ちゃんと出来た! ガッツポーズを隠さないあたしに向かって、このおてんば娘は容赦なく抱きついてくるのだ。ひとしきりじゃれてからあたしはプクリンの柔らかなおなかに頬を寄せ、いいにおいに包まれながら深呼吸をした。
「……パパに見てもらおうか」
「ぷ?」
「できたよー、可愛くなったよーって、ジムのみんなに自慢しちゃおう!」
「ぷう! ぷ、ぷゆっぷ!」
 そうと決まれば話ははやい! 会いたいの、パパにはやく!
 あたしはいつものウエストポーチに道具を詰め込み、プクリンと手を繋ぎながら部屋を飛び出して階段を降りる。キッチンでおやつの準備を進めるママに用件を伝え、まるで跳ねるように家を出たのだった。

 
20170120