Stairs

 ――ねえ、シラシメくん。あたしとデートしない?
 それは、なんてことない夜のことだった。ソファでサイコソーダ片手に雑誌をめくっていたシラシメへ、ナタネが声をかけてきたのだ。
 僕があなたからの誘いを断ると思ってるんですか――そんな言葉をすっかり飲み込んで、脈絡のない申し出を受けた。なんとなく含みのある笑い方をするナタネが満足げにうなずいていた姿が、ひどく印象的に映る。
 鼻歌まじりのナタネに連れられて――もとい、彼女の案内通りにガブリアスを乗りまわして訪れたのは、隣町のクロガネシティ。炭鉱の街の片隅にはほんのり危険な香りのする路地裏があるらしく、その隙間に潜りこんだ先で、こじんまりとしたバーにたどり着いた。
 看板娘とおぼしきビークインに挨拶しながら扉をくぐると、ひどく落ち着いた造りのその店の奥に、年配のマスターが佇んでいた。彼はナタネの姿を確認してすぐ、柔和な笑みを浮かべる。
「いらっしゃい、ナタネちゃん。待ってたよ」
「マスター、こんばんは! 早速だけど約束のやつお願いしてもいい?」
「ああ、もちろんだとも」
 ――「約束のやつ」。そんな言葉で通じるあたり、ナタネがこの店の常連であるだろうことが窺えた。
 彼女と共に暮らすようになってかれこれ二年くらいか経つけれど、こんなバーの話なんて一度も聞いたことがない。毎日のように彼女のことを識っているつもりでも、やはりまだまだ未熟なようで、喜ばしいようなもやつくような、複雑な気持ちを隠して微笑む。
 シラシメの心中を察したのか、ナタネはカウンター席へ座りながら口を開く。導かれるまま隣に腰を下ろして、彼女の話に耳を傾けた。
「マスターはね、あたしの親戚なんだ。父方の。小さい頃はたまーに遊んでもらってたんだよ」
「そうなんですか?」
 シラシメが訊ねると、ナタネは瞬きとともにうなずいた。
 マスターの肩越しに色とりどりのボトルを眺めているナタネは、かつてを懐かしむように目を細める。彼女の視線の先にはきっと、シラシメの知らない彼女の欠片があるのだろう。
「初めてお酒を飲んだのもここだったなー。ジムリーダー業がうまくいかなかったときとか、度々やけ酒しに来てたっけ」
「よく覚えてるよ、あの頃のナタネちゃんの荒れっぷり。飲みすぎて急に泣きだしたときはもうどうしようかと――」
「ちょ、ちょっと! そういうのはいいのよ、そういうのは!」
 あらぬ過去を暴露されそうになったのだろう、ナタネは急いでマスターの言葉を遮る。わたわたと慌てふためく様子は、シラシメの前で見せるそれとはまったく異なっていた。これも「親戚のおじさんに遊ばれている」というシチュエーションのなせるわざだろう。自分には絶対に出せないそれをいとも簡単に引き出されて、場違いな嫉妬心を抱いてしまう。
 意味深な目を向けてしまっていたのだろうか、マスターはシラシメの表情をうかがったあと、何かを察したふうなそぶりを見せた。
「もしかして、彼が噂のボーイフレンドかな? 名前は確か――そう、シラシメくん」
 どうやらマスターはこちらのことを知っているらしい。意外な事実が判明したせいか、子供じみた嫉妬心は一瞬でうっすらとした。
「僕のことをご存知なんですか?」
「もちろんだとも。君の話はよく聞かされてたんだよ、だってここに来るたびナタネちゃんが――」
「マスターってば!」
 今にもカウンターを叩きそうな勢いで、ナタネがいささか声を荒らげる。他にお客さんがいなくてよかったと、きっとここにいる全員が思ったことだろう。もちろん、声を発した張本人も。
 顔を真っ赤にしたナタネに潮時を見たのか、マスターは談笑に励むのを一旦とりやめ、手元の作業に集中しはじめた。彼が今から作り出すのは、さっきナタネが頼んでいた「約束のやつ」だろうか。
 カウンターに突っ伏しそうなくらいのナタネを横目に、シラシメはマスターの所作を見やる。彼は指の運びひとつとっても非常に洗練されていて、おそらく血の滲むような努力を積んだのだろうことが察せられた。
 もはや意識をやらずとも目が奪われるようなそれに、シラシメも漏れなく魅せられる。この時点ですでに「次回」を考えている程度には。
「おまたせいたしました。こちら、モヒートでございます」
 低く染み渡るような、心地よいマスターの声。想像よりも彼のビルドに夢中になっていたらしく、まるでそのひと言で意識を引き戻されたような感覚に陥った。
 シラシメの前に差し出されていたのは一杯のカクテルだ。ライムとミントで美しく彩られたそれは、ライムの風合いも相まってひどく瑞々しく見える。
「これは――」
「モヒートっていうカクテルだよ。さっぱりしてるから飲みやすいと思うし、マスターに頼んで度数も低めにしてもらったんだけど、どうかな」
 いつの間にか復活していたナタネが、心なしか得意げに言う。モヒートを見る彼女の瞳はきらきらときらめいていて、このカクテルが好きなのだろうことがよくわかった。確かにこの緑の風合いは彼女のイメージによく合うし、好んでいても違和感がないように見えた。
 本来ならば二つ返事で口をつけたいところなのだが――シラシメには、そうできない理由があった。なぜなら彼は、今までついぞ酒を飲んだことがなかったからだ。
 もちろん、別に何かおおきな理由があるわけではない。親が酒乱だとか、酒で失敗する人を間近で見たとか、そんなシリアスは要因は存在せず、ただ単にタイミングがあわなかっただけである。酒を飲んでも問題ない年になってしばらくが経つけれど、漠然としたためらいを理由に、いっさい手をつけられずにいた。
 とはいえ、人並みに興味があったのは事実だ。ならばこんな好機に手を出さない理由などないのだが――
「シラシメくん、今までお酒って飲んだことなかったでしょ?」
 ナタネの不意な言葉により、思わず手を引っ込めてしまった。言葉にせずとも図星とわかってしまうくらいの、見事な動揺っぷりだ。
 一部始終を見送ったナタネは、ちいさく吹き出しながら「キョドりすぎだよ」と言って笑った。
「あはは……すみません。なんか、びっくりしちゃって」
「ふふ、シラシメくんのそういうとこ、ちょっと新鮮でおもしろかったよ」
「ひどいな……」
「ごめんってば。それでね、実はあたしが初めて飲んだお酒もモヒートだったんだ。可愛いからって単純な理由だったんだけど、マスターが気を利かせて度数も低めにして作ってくれて、まあ、それがすっごくおいしかったんだよね。だからシラシメくんにも同じ気持ちを味わってほしかったし、どうせなら――」
 言いかけて、ナタネはにわかに言葉を切った。いつもならストレートに続くだろうそれが不自然に終わってしまったのは、他でもないマスターが目の前にいるからだろうか。
 幼い頃からの知り合いにおのれの恋愛事情を垣間見られるのは、どことなく気恥ずかしいものなのだろう。あいにくとシラシメにはそこまで懇意にしている身内がいないのでピンとこないのだけれど、おそらく世間一般はそうなのだろうと推察する。
 急に押し黙ってしまった二人のあいだに横たわる微妙な空気を察してくれたのだろうか、マスターはおちゃめなウインクを残して下がっていった。お客さんが来たら教えてね、とビークインに言伝を残すあたり、もしかするとこういう気まずい場面に遭遇することは多いのかもしれない。
 ぱたん、と静かに閉まるドアの音を合図のようにして、ナタネは再び口を開く。
「こ……後悔は、させないと思うから」
「え?」
「マスターのつくってくれるカクテル、どれもすっごくおいしいし……あたし、本当に好きなんだよね」
 だから、シラシメくんにもたっぷり味わってほしいんだ――言いながら、ナタネはふんわりと微笑む。バーの暗い照明のせいか、いつもよりひときわ大人びて見えるその表情はひどく愛おしいもので、甘ったるい胸の奥をぎゅうと締めつけられた。
「嬉しいです。初めてが、ナタネさんと同じで」
 すっかり冷えたモヒートを片手に、シラシメは同じく笑みを返した。グラスに結露した雫がひとつ落ちるのを見送ったあと、しっかりと掲げて口元へ運ぶ。
「それじゃあ、いただきます――」
 大好きな人と一緒に、いつかの思い出を重ねながら初めて飲んだモヒートの味は、以降に飲んだそれよりもずっとおいしく、甘美であった。

2022/05/06