傾けてくれるその耳を

 華奢な首筋に顔をうずめて、すん、とひと嗅ぎ。愛おしい人の芳しい香りに胸を落ちつけて、シラシメはふにゃんと顔をとろけさせた。夜、二人でベッドに入るときは、いつもこうしてナタネの存在を味わっている。
 ナタネは、いつもいい匂いがする。それは彼女自身の体臭はもちろん、丹精込めて世話している草花の香りが染みついているからだ。多種多様な花々の香りが混ざっているはずなのに、しかしいずれもケンカすることはなく、穏やかで品の良い香りを、彼女はいつもまとっている。
 隣に立つだけでふわりと香るそれを、シラシメはひどく好んでいた。見た目も、中身も、魂ごと全部好きなのに、まとう香りすらこんなにも魅惑的だなんて、果たして自分はどうすればいいのかと真剣に頭を悩ませてしまうほど、彼女の香りが好きだった。否、もしかすると彼女から香るからこそ好きであるのかもしれないが、まあ、とにかく好きで好きで仕方ないことは真実である。
 こんなにも彼女の香りを堪能していると、自分はもしや匂いフェチなのではという疑惑を持ってしまうが――実のところ、ナタネ本人にもそのケがあったりする。匂いフェチというか、香りでポケモンのコンディションをチェックすることが多々あるのだ。
 それはくさタイプをあつかうトレーナーとしては一般的なのかもしれない。なぜならくさタイプのポケモンには様々な芳香を漂わせる子が多くて、そのとくせいを活かして、アロマテラピーのような効果を発揮していたりもするからだ。
 シラシメにはくさタイプを専門とする知りあいがいないのでわからないが、そういえばハクタイジムのジムトレーナーにも、同じようにポケモンの香りを判断材料にしていた者がいたような、いなかったような。……正直、記憶は少し曖昧だ。
 そして、なんとシラシメにもたまにその嗅覚が及ぶことがあったりする。いつだったか、ナタネの体を抱きしめたときに指摘を受けたことがあったのだ、「もしかしてシラシメくん、今日ちょっと体調悪い?」と。
 実際その日はかるい微熱を抱えていたもので、正直ものすごく驚いた。面食らったシラシメを前に得意げな顔をしていたナタネは可愛かったが、そのあとすぐモンジャラのつるのムチでベッドに縫いつけられたのは溜まったものではなかったが……
 ともかくとして、ナタネ本人にそういった節があるからなのか、それとも先日の抱きつき癖の件が影響しているのか。シラシメがナタネの香りを嗅ぐことについて、彼女から何らかの注意が入ることはなかった。少しだけむず痒そうに身じろぎこそするものの、やめろだの何だのといった抵抗がくることはない。ナタネから香る芳香を肺いっぱいに吸い込んで、体にめぐる血液にすらそれを染み渡らせようとしても、撥ねつけられることはない。
「……シラシメくんさあ」
 だからこそ、驚いた。なぜだか今日は、こうしてナタネから声があがったので。
「うん……? どうかしました?」
「どうか……うん、どうかした、というか、ちょっと気になることがあるの。シラシメくん、最近香水つけてるよね?」
「あ、気づいてくれたんですね。そうなんですよ、このあいだ知りあいに良いのを教えてもらって――」
「それってさ、本当にシラシメくんの好きな香り?」
 問いかけられて、言葉を失った。肯定することができなかったからだ。
 シラシメには自覚があった。自分が、意識しているか否かに関わらず、ついつい「ナタネさんの好きそうなもの」を選んでいるということに。今つけている香水だって例外ではなく、クサイハナの香りを薄めて作ったというそれを選んだ理由も、例に漏れず「ナタネさんが好きそうだから」というひどく不純なものだった。
 言い当てられたのが怖いような、恥ずかしいような。複雑な感情を一気にたかぶらせながら、シラシメは彼女の腰にまわした腕に力を込める。
 シラシメの図星が伝わったのか、ナタネはゆっくりと手を伸ばして、シラシメの頭をやさしくなでた。姉のようでも、母のようでもある手つきだ。
「あたし、シラシメくんが思ってるよりもシラシメくんのこと大好きだし、よーく見てるんだからね」
 途端、ひどく喉がつまった。すきま風のような息を吐いて、ぐ、と彼女の体を抱きしめる。
 やっぱり、ナタネさんはナタネさんだ。こういうときに、彼女が年上のお姉さんであることをこのうえなく実感する。つまるところ自分がまだまだひよっこの若造であることも同時に突きつけられるのだが、今はそれよりも彼女に対する感情の波のほうが強い。
「……い、ですか」
「なあに?」
「聞いてもらっても、いいですか。僕の、好きなもののこと」
 それに苦手意識があるのは、きっと家族との関係のせいだ。
 無意識のうちに、誰も自分の話には興味がないのだと、聞いてもらえないと思ってしまっているのだろう。ついペラペラと吐き出してしまうことはあるが、きちんと意識して口にすることにささやかな抵抗がある。
 それでも、聞いてほしいと思う心は本物で。他でもない彼女だからこそ、愛おしいナタネであるからこそ、この胸のうちを聞いてほしい。泥臭くて情けなくて、大人になりきれないめちゃくちゃな想いを、彼女にこそ受け止めてほしいと思ってしまう。
 ――そんなことは、許されるだろうか。
「あったりまえでしょ。あたしだってね、シラシメくんのことなあんでも知りたいんだから」
 けれどナタネは事もなげに、陽だまりのような優しさでもってその吐露を受け止めてくれるのだから。
 ああ、好きだ、大好きだと。そう思ってやまない、深夜一時のことだった。

ポケマスネタ、その2
2022/03/23