森の二人とキューピッド

『なるほどねえ…』
『珍しく焦ったようだな。お前らしくもない』
「……うう」
 定番の切り株でうなだれながら、ヘッドセットに手を当てて唸る。何度も落とされるため息はとどまることを知らず、木々のこうごうせいを促すようでもあった。
 ポケギア機能にて通話中のヘッドセットから聴こえるのは、少し高めの女声と低く落ち着いた男声という正反対なもの。会話を少し掻い摘んだだけでも、彼ら三人がそれなりに親しい仲であるだろうことが察せられる。
 声の主たちに聞き覚えがあるのだろう、隣に座るライチュウはしきりにヘッドセットを気にしているようだった。
『まあ、でも仕方ないんじゃないかしら? あなたの片想い歴はアタシたちも知ってるし、気が急いちゃうのも無理はないと思うけど』
『だが、そこで抑えてこそ男というものじゃないか? それこそ彼女も――』
『うるさいわねー、デリカシーのない男は黙ってなさいよ』
 そっちのけで繰り広げられる言い争いにも上の空で、シラシメは深く重いため息を吐いた。この様子を見るにかなり落ち込んでいるらしい。
 いつも余裕で掴みどころのない振る舞いをしている彼も、もちろん人並みに悩んだり落ち込んだりすることはある。むしろ一人のときはあれでもないこれでもないと悩むことばかりで、しかし、そんな弱っちいところを意中の彼女に知られるわけにはいかない。
 つまるところ、必死で隠しているのだ。ひどく子供で、出来の悪い自分を。
『本音、もっと出せばいいのに。そんなことで見放すような子じゃないでしょう?』
「うう……で、でも、やっぱりイヤです。僕、ナタネさんの前では格好良くいたいんで……」
『偽ってばかりの恋愛はつらいぞ?』
「わかってますけど~……」
 再びシラシメが煮え切らないため息を吐いたとき、ハクタイのもりには似つかわしくないエンジン音が遠くで響いた気がした。ライチュウも同じように何かを察したらしく、とろけていた瞳をせわしなく瞬かせている。
 だんだんと近づいてくる轟音に身構えていると、入り口のほうに見えたのはよく知った真っ赤なスポーツカーだ。
「なっ――」
「ふふっ、驚いた? 近くまで来てたものだから」
「久しぶりだな。背が伸びたか? ああ、オレンジも元気そうで安心した」
 なかなかのドライビングテクニックを披露して降りてきたのは、やはり見知った顔だった。このあたりは舗装された道が少ないので車で入るにはひと苦労らしいのだが、そんなことを物ともしないあたり、二人がこのスポーツカーで旅を続けている経験を感じられる。
 二人との出会いはいつだったか。バトルの特訓に失敗してライチュウを傷だらけにしてしまったとき、颯爽と現れて適切な処置を施してくれたのがキッカケだった。目立つ見てくれではあるものの、とても気さくで優しい二人はハクタイに立ち寄るたびこうして顔を見せてくれる、シラシメにとって数少ない親しい人間である。
 今はシンオウ全域を旅してまわっているらしい、腕の確かな男女の双子の旅医者だ。
「やっぱり恋愛相談は直接じゃないとね!」
 まばゆい金髪と鈍い銀髪が、爽やかな木漏れ日を反射している。
 見た目も中身も正反対な二人は、以前よりも大人びた顔つきになったシラシメの顔を一瞥して微笑んだ。

「……あらぁ」
 定番の切り株の周りをくるくるとまわって、ナタネはこくんと首を傾げた。
 ……いないのだ、いつもの彼が。ここに来れば会えていたはずののんびりとした彼のすがたは、今、影も形もない。
 ハクタイのもりに足を踏み入れたとき、「もしかして」をよぎらせた。先日あんなふうに逃げ帰ってしまったのだ、会いたくないと思われてしまうのは仕方のないことだろう。
 会えないことを覚悟してやってきたとはいえ、疑惑が本当になってしまった、その事実がちくりと胸に刺さる。
「さすがにあれは、ダメだったよね……」
 自分の行動を振り返ってみて、思わず特大のため息をこぼしてしまった。
 いつになったら言えるのか。
 いつになったら応えられるのか。
 いつになったら胸を張って彼の隣にいられるのか。
 いつになったら、自分は一歩を踏み出せるのか。
 彼はあんなにもまっすぐに想ってくれているというのに、どうして自分はここまで二の足を踏んでしまっているのだろう。
 彼が年下だという事実に、大きくも小さくもない五歳という年齢差に、なぜここまで臆病になってしまっているのか。わからない。けれど、彼のことを考えれば考えるほど、それが重たくのしかかってくる気がするのだ。
「なんかあたし、情けないかも……」
 落ち込むナタネの気持ちを汲んだのか、ついていたロズレイドがそっとくさぶえの音色を奏でる。そして、それに呼応した森のポケモンたちもそれぞれの歌を歌い始めた。
 くさぶえとはいえ決して眠らせるためのものではなく、おそらく心を癒やすために奏でられた旋律なのだけれど、安らぎを与えるそれはやはり眠気を誘発してしまったようで。ここしばらくジムの業務がハードであり、なおかつあまり眠れていないことも相まって、かくんと足の力が抜ける。
「ん……ありがと、みん、な――」
 気づけばナタネは、切り株に身を預けて深い眠りに落ちていた。

 心地良い眠りに沈むなか、ふと聴こえてきたのは穏やかな鼻歌。
 聞き覚えのある旋律はかつて祖母が子守唄代わりに歌ってくれたそれで、かれこれ十年以上は聞いていなかったもの。シンオウ地方の子供なら誰だって聞いたことのあるそれを、これまた聞き覚えのある優しい声がとろけるように歌っていた。
 誘われるように目を開く。そこにあるのが、安らぎを与えてくれる人であると確信して。
「……あ、起こしちゃいました? すみません、あんまりぐっすり寝てるものだから」
 隣にあったのは、いつもどおりのゆるい笑み。
 不安や焦りを洗い流すようなそれになんだか安心して、無意識のうちに流していたらしい涙に気づいたのはあからさまに慌てる彼を見てからだった。
 一瞬で真っ青になったシラシメの顔面のおかげで、ぼうっとしていた頭はすぐに覚醒した。
「な、なっ、ななっ……!? あの、僕、な、な、何か――!?」
「ああ……ううん、違うよ。これはね、あたしが悪いの」
 涙を拭って、ゆっくり深呼吸。まだあふれそうな涙をぐっとこらえて、ぎこちない笑みを浮かべた。
「このあいだ……ほら、あたし、シラシメくんから逃げちゃったでしょう? 年上のくせに情けないことしちゃったし、それでもうシラシメくんが会ってくれなくなっちゃったらどうしよう、って思ってて」
「そんな……僕、そんなことしませんよ」
「うん。わかってるよ、あなたがそんな人じゃないって。でもほら、ネガティブなことってさ、考え始めたら止まらないじゃない? それで……ふふ、でも、目が覚めたらシラシメくんがいて、すごく安心しちゃったみたい」
「僕がいて……安心、ですか?」
「そう。あなたの顔を見たらホッとして、また会えたのが嬉しくって、それでこんな」
 こんなの、もう、答えみたいなもんじゃない。
 ナタネの小さな独り言は木々の音にかき消されて、シラシメに怪訝な顔をさせる。薄く刻まれた眉間のシワを消してやるため、ナタネはもう一度深く深く深呼吸し、しっかりと彼に向き直った。
「あたし、自分が気づかないうちに――ううん、ずっと目を逸らしてただけだね。……好きだよ、シラシメくん」
「――!」
「ふふ……不思議だね? ちゃんと伝えたら、あはは、びっくりするくらい胸が軽くなった」
 好きだ、と声に出した瞬間、まるで世界に花が咲き乱れたような錯覚をおぼえた。ふわりと視界が広がって、目の前に映る彼のすがたがひときわ彩づいて見える。
 膝の上で握りしめられた手に手を重ねた。耐えるような瞳すら愛しく見えてしまうのにはさすがに驚いたけれど、もう、その気持ちから目を背けることはしない。ただまっすぐ受け入れるだけ。
 殊更ゆっくりと伸ばされた腕に答える代わりに、彼の胸板へ思い切り飛び込む。
「……好きです」
「うん」
「ずっと、ずっと僕、」
「……うん」
「あのときからずっと、ずーっとあなただけ見てました」
 もはや添えられているだけに等しい彼の両手が、それでも溢れるほどの優しさを伝えてくる。
 七年という長い月日の重みは、彼の頬に伝った雫が何よりも強く表していた。
「ごめんね、シラシメくん。それと、本当にありがとう」

「――ナタネさんは、目を逸らしてるだけって言ってましたけど」
 意外と男らしくしっかりとしたシラシメの両腕は、ナタネのおなかの前でしっかりと組まれていた。
 いつの間にやら自分じゃびくともしない力で後ろから抱きしめられていたし、気づけばいつもの切り株に座り込んで穏やかな時間を過ごしている。ちょっとした前進でこうも違うものなのだろうか、曖昧な返事をしながらも、シラシメの膝のうえ、いやにうるさい自身の胸を落ちつかせるのに必死だった。
「僕だって、その……色々と、言ってないことがあるというか。ナタネさんといるとき、いっつもどうしようって思ってたんですよ」
「……そうなの?」
「はい。なんとか気づかれないように、もう、ほんと、めちゃくちゃ頑張ってましたけど」
 ホッとしているのはどうやらシラシメも同じであるようで。やけに饒舌になった彼の口は、今までまったく教えてくれなかった彼の内情を打ち明けてくれた。
 いつもドキドキして仕方なかっただの、初めて隣に座ったときは心臓がだいばくはつを起こしそうになっただの、洋館のポケモンに襲われたときは生きた心地がしなかっただの。記憶のなかにある彼からはまったく想像できないすがたが、当の本人によってどんどん暴露されていく。
 今までずっと大人びて聞こえていた彼の声が、急に年相応の子供っぽいそれに聞こえてきて、少々新鮮な気持ちになれたのは内緒だ。
「え……でも、どうして急に? 今までずっと内緒にしてたんだよね」
「はあ……その、今日ですね、久しぶりに知人と会いまして」
 しぶしぶといったふうな語り口は、やはりどこか子供じみていて。先日までの彼とは正反対に見えるそのすがたは、ナタネのなかに眠る母性本能をじわりじわりと刺激する。
「その人たちに色々と相談に乗ってもらってたんですけど、『本心を隠したおつきあいなんて長続きしないわよ』って言われて……」
 さっきまで根掘り葉掘り色々聞かれまくってたんです、と続けるすねたような口ぶりは、可愛いと思わせるには充分すぎるものだった。
 悩んでいるのは自分ばかりだと思っていたけれど、どうやらそういうわけでもないらしい。ある種のお互い様であることを知り、昨日まであーだこーだと頭を抱えていた自分を少々バカらしく思いつつも、それに勝る安心感と愛しさに、自分も大概だということを思い知るのであった。

2021/12/12