触れたくて触れられない

「あらー……」
 相も変わらずハクタイのもりの切り株に座り込んでいたナタネは、ふと現在時刻を確認しようとポケッチを覗き込んだ。近頃ジムへのチャレンジャーが増えたおかげで疲労が溜まっており、どうにもボーッとしてしまう時間が増えたせいでどれくらいここに座っていたのかわからないからだ。
 今日も誘われるように森に入っては木々の声を聞き、癒やしてもらっていた。とはいえあまり滞在時間を取ることはできず、早々にお暇して予約が入っているチャレンジャーとバトルしなければならない。
 少し休憩してきます、とジムトレーナーに断りを入れたとき、時間厳守でお願いしますね、と釘を刺されてしまったので。遅刻なんかするわけにはいかないのだ。
 そのためのポケッチであるのだけれど、しかしいくら画面を触ったりボタンを押したりしても反応はなく、画面は依然として真っ暗なまま。確かに少しモデルは古いし、何年も使っているものだからいよいよ壊れたのかもしれない――嫌なことは重なるものだ。はあ、とため息混じりにうなだれる。
「あれ……電池切れですか?」
「わかんない。でも見ての通り古い型だし、そろそろ寿命かも――」
「貸して下さい」
 そう言って、シラシメが優しくポケッチを掬い取る。何をするのかと凝視していると意外や意外、彼はどこからかドライバーを取り出して、あっという間にポケッチを分解したではないか。
 ずっと森にいるくせになんだこの手際の良さは。文明の利器のたぐいとシラシメをうまく結びつけることができず、ナタネはあんぐりと口を開けたまま、テキパキと動くシラシメの指を見つめていた。
「ああ、ちょっと接触が悪くなってただけですね。これで大丈夫です」
「え……ほんとに?」
「やだなあ、信じてくださいって」
 シラシメはこれまたあっという間にポケッチを元通りにして、ついでにライチュウの力を借りて充電まで満タンにしてくれたようだ。
 動作確認もしっかり行われたそれが、シラシメのもとから返ってくる。手元に戻ってきたポケッチと彼の顔を交互に見るナタネであったが、しかし呆気にとられたまま、「ありがとう……」とうわの空気味に発することで精いっぱいだ。
「あとはー……そうだ、この型番って時計がずれやすい不具合があるので、五分くらい早めておくと良いと思います」
「えっ……そ、そうなの?」
「はい。そのへんのニュースはひと通りチェックしているので」
 ――誰だこれは。それが、ナタネの率直な感想だった。
 普段あんなにボケボケで、同じハクタイシティに住んでいるのに街では一度も見たことがない、森でしか会えない男のくせに。
 あまりにも森にしかいなさすぎて、もしかすると彼はポケモンなのではないか、と疑ったことすらある。シンオウに住む人間なら誰もが知っている昔話だ。
 そんなふうに、ある意味人間離れした彼がよもや機械の不具合をさっくりと直し、持ち主であるナタネも知り得なかった豆知識を披露してくるだなんて。怪訝そうに眉間にシワを寄せるナタネを見て、シラシメは苦笑いを浮かべている。
「えっと……僕のヘッドホン、ライチュウがモチーフなのはご存知ですか?」
「それはもちろん……」
「これ、実はただのヘッドホンじゃなくって、ポケギアとか色んなものが内蔵されてるんですよ。たとえば……ほら、ここのボタンを押すとマイクが出てきたり」
「わぁお……」
「むかーしうちの両親にもらったもので……僕にとっては宝物みたいなものなんですよね。でも、二人の故郷で作られたものだから、こっちでは直せるかわからないとも言われてて」
「はぁ……」
「壊したくなんかないし、可能なら直せるようになりたいじゃないですか。だから、自然と機械に詳しくなったんです」
 別に大したことはないんですよ、と暗に言っているような口振りだ。だが全然大したことなくはなくて、むしろ動機も含めて非常に立派である。
「……あなたと機械って、すっごく意外な組み合わせだね」
 だから、脳みそから直接漏れたような本音が出てしまうのも仕方ないことだ。当の本人は緩い笑みを浮かべているだけだったが、そんなものじゃごまかされないくらいの驚きがずっと、ナタネの頭を占めている。
 ならば、だ。ずっと気になっていた疑問をこの機会にぶつけてみようと思う。いつになく真剣な顔で、ナタネはシラシメに向き直った。
「……あのね」
「はぁ」
「あたし、ずっと気になってたことがあるの。あなたね、いつも森にいるじゃない? ごはんとかどうしてるのかなって」
 生きている限り、人もポケモンも食を切り離すことなんかできない。食事をとらないとどうなるか? 一時的にはなんとかなってもすぐに動けなくなったり体を悪くしたりと、蓄積するダメージは計り知れない。たまにそのダメージを無効化するような人間もいるが、まあ、その話はこの際置いておこうではないか。
 たから、おそらくこのシラシメも何かしらの食事をとっているはずなのだ。朝も昼も、時には夜にすら入り浸っている彼だって、毎日必要なぶんの栄養素はとっているはず。それこそ育ち盛りの、年頃の男の子なのだから。
 ――さあ、何がくる。やはりここはきのみか、それとも野草のたぐいだろうか。何がきたって驚かないと腹をくくって、ナタネはシラシメの言葉を待った。
 やけに構えたナタネを知ってか知らずか、シラシメは首を傾げながら、事も無げに答えを返す。
「どうって――普通に何か持ち込む感じですよ? あ、もちろんゴミは持って帰ってます」
「……持ち込み?」
「はい。……まあ、お弁当とかそういうのではないですけど」
 ――いや、驚いてはいけない。むしろそれがごく一般的、人として普通の、常識的な答えだ。
 ここでナタネは気づく。彼に対して、ある意味での幻想や、いらぬ理想を抱いていたということに。
「今日は最近できたピザ屋のテイクアウトです。ゴミ袋はさっき一旦持って帰って捨ててきました」
「ピザ……」
「そこのピザすっごくおいしいので、ナタネさんも今度食べてみてください。あ、でもあんまり食べすぎると体に良くないから、そこだけは気をつけてくださいね」
 爆発しそうな何かを必死に抑えながら、ナタネはシラシメの言葉を追う。彼女があからさまに浮かべる眉間のしわに気づいているのかいないのか、シラシメは極めつけとも言えるような言葉を吐き出した。
「僕、ジャンクフードのたぐいが大好きなんですよね。ほら、おいしいものは体に悪いものってよく言うじゃないですか? 反面、野菜とかきのみとかの、あっさりしたものってどうも苦手で――」
 刹那。ナタネは考えるよりも先にシラシメの肩を掴み、力任せにぐらぐらと揺さぶってしまっていた。
「あなたって、ほんっとーにわからない子ね……!」
 だいばくはつとはまさにこのこと。シラシメの爆弾発言は見事にナタネの導火線に火を点け、むしろ一瞬で燃やし尽くすほどの勢いで彼女を刺激した。
 肩を掴まれてされるがままのシラシメは、ただひたすらうめくような情けない声を漏らしている。ぐわんぐわんと揺れる視界は彼からまともな思考を奪っているようで、結局抵抗らしい抵抗が返ってくることはなかった。
 しばらく揺さぶって気がすんだ――というよりは、我にかえったと言うほうが正しいか。ナタネは唐突に手を離し、シラシメの顔を覗き込みながら謝罪を繰り返す。いきなりごめんね、という気遣わしげな様子はいつもどおりのナタネのそれだが、おのれのしでかしたことに時間差で気がついたらしく、少々青ざめていた。
 せめてもの償いに、ボールから放ったロズレイドのアロマセラピーをシラシメに施し、調子が戻るのを待った。
「あなたって、本当に毎回予想の斜め上をいく子ねー」
「はぁ……喜んでいいんでしょうか」
「あはは、どうかな。……でも悔しいな、あたしってばそんなあなたが――」
 ぴたり。そこまで言いかけて、まるで時間が止まったような錯覚をおぼえた。
 口をついて出てきたそれはいったい何だ。ナタネは、ひどく戸惑っている。
 彼に惹かれているのは嘘じゃない。気持ちの自覚は痛いくらいにある。ただ、別に、今ではないと思っていた。よもや、こんなふうにぽろりと漏れてしまうほど、気持ちが膨れ上がっていたなんて。
「違う」と否定するのも間違っているような気がするし――こうなってしまってはもう、何も言えずに狼狽えるばかりであった。
 けれど、長年ナタネに恋い焦がれているシラシメからすれば、とてもじゃないがスルーしてしまえるようなことではないだろう。さっきまでの不調はどこへやら、シラシメはひどく真剣な、むしろ必死と言っても過言ではない様子でナタネに詰め寄ってくる。皮肉にも、先ほどとは正反対のシチュエーションが広がった。
「どういうこと……ですか」
「え、ええと……その、ま、待って、あの」
「今の……っ! 続き、教えてくれませんか」
 射抜くようなターコイズ。双眸に宿る微熱が、今までずっと募らせてきた、彼の想いを表している。
 段々弱くなっていく語尾からも、キツく掴まれた肩が訴える痛みからも、シラシメの期待が伝わってくる。
 応えたい、と思うのに。募る想いをぶちまけて、通じあいたいと思うのに。どうして、この口は素直に吐き出すことをしてくれないのだろう。
 冷静ではなくなっている。漏れるような自分の想いも、詰め寄ってくるシラシメも、ざわついた森の空気も、何もかもがイレギュラーで。
 ……ならば、一度リセットしてしまうのは許されるだろうか。ずるい大人でごめんねと、心のなかで謝罪をし、ナタネはロズレイドに目をやる。
「――『くさぶえ』!」
「えっ――ちょ、っと……――」
 ロズレイドの奏でるくさぶえが、シラシメやそこかしこに潜んでいた野生ポケモンの眠気を誘発する。手が緩んだ隙にひらりと後ろへかわして、
「……ごめんね。あたし、さいていだ」
 そっとその場を離れたナタネは、シラシメが意識を失う瞬間に落とした言葉を知るよしもない。

「なんだか僕、逃げられてばっか、だな……」

2021/12/07 加筆修正