追懐と友情と興味と寂寥

「……よく似てるわ」
 無意識に口からこぼれた言葉は、呆れ半分感心半分といったところだろうか。
 あの一件以降。逢瀬というにはまだ少し遠いものの、シラシメと会う機会は前にも増してぐっと増えた。自分の気持ちが彼に傾き始めたこともあり、会いたいと願ってこの森に足を運んでいることが主な理由だ。
 パトロール、個人的な趣味、そして彼という存在……その三つが重なっている今、ナタネにとってハクタイのもりはまたひとつ特別な意味を孕んだ。かつてシラシメが「好きな人に会いたいからここに来ている」といった旨のことを言っていた気がするが、今ならその気持ちも、理由も、痛いくらいにわかってしまう。
 だがしかし、当の本人はお気に入りの切り株に座り込み、こちらに体を預けすやすやと眠ってしまっていた。彼の相棒であるライチュウも同じようにお昼寝の最中で、一人と一匹の寝顔を見ながら発したのがさっきの言葉だ。
 ……本当に、よく似ている。
「両方のんびり屋だしねぇ……」
 ちょんちょんと頬をつついてみるが起きる気配はなく、穴があくほど見つめてみてもそれは同じ。いつも左目を覆っている前髪を捲ったって微動だにしない。
 ハクタイのもりはナタネ自身大好きな場所であるし、別にこの状況に退屈しているわけでもないのだが、しかしこうも熟睡されてしまうと少々居づらいものがある。森の中を散策しようにもシラシメにもたれかかられているし、何より右手をきつく握られているから振りほどくことはできなそうだ。
 知らぬ間に握られていた右手はじんわりと熱くなっていて、まるで生娘のような自分に少々ため息を吐きたくなる。みっともないな、なんて独りごちるのはさすがに控えたけれども。
「……ちょっと帰りたいかも」
「ダメですよ」
 自嘲代わりに漏れた言葉と、返ってきた声。ひどく穏やかで唐突なそれに、情けなくも肩が跳ねた。
 寝ていると思った人間が起きていて、体は離れたものの右手を握る力は強くなって、だが今度は相手の顔が目の前にあって。相変わらずの緩い笑みが胸の辺りをぎゅうぎゅうと圧迫する。
 余裕なんてものはその辺の草むらに捨ててきた。この男にはそんなもの、まったく通用しないのだから。
「お……起きてたの?」
「えへへ。はぁい、しっかりと」
「寝てたんじゃ――」
「目を閉じてゆっくりしてましたー」
「あたしがなに言っても返事しなかったじゃない!」
「そうでしたっけ? でも、ナタネさんの声はちゃんと聞いてましたよ」
 ――ダメだ、もう、勝てないわ。ああ言えばこう言うとはまさにこのことで、まるで真剣に張り合っている自分が馬鹿のように思えてくる。
 思わず「年下のくせに!」なんて子供っぽい言葉が出そうになって、それを飲み込んだときにはもう何も言えなくなってしまっていた。こうなった彼にはいつだって勝てないのだ。
 ……悔しいな。舌の上で転がした一言は、ギリギリのところでシラシメに届かないまま終わった。
 彼の雰囲気にあてられるとすべてが意味をなさなくなる。穏やかな空気に溶かされて、何もかもがめちゃくちゃになってしまうような感覚に陥るのだ。
 けれどそれを認めてしまうとそれこそすべてが壊れてしまうので、自分の気持ちや現状に素直になることもできないままながらも、こうして彼のとなりを求めてしまうようになっているのだが。
 目の前にある緩い笑みも、ひょろく見えて案外力のある腕も、温かくて安らげる声も、本当はこの上なく――
「あれ……どうしたんですか?」
 何のことやら、といった様子で笑っている彼がなんだか憎らしい。おちょくってくる仕返しに、さらさらと揺れる前髪を思いっきり引っ張ってやった。
「い゛っ……たぁ! もう、禿げたらどうしてくれるんですか……」
「しーらない! ていうか、あなたが狸寝入りなんだったらもしかしてオレンジも――っと。この子は本当に寝てるのね」
 涙目になって唸るシラシメをよそに、丸い体をそっとなでる。標準よりも少し小さめなライチュウは、やはり主人と同じ顔をしてすやすやと眠っていた。この喧騒を前に寝続けていられるのはなかなかの大物だ。
 安らかな寝顔を見つめている最中、ふと彼と出会った頃のことを思い出す。それはトレーナーなら当たり前のように気になってしまうような、本当に素朴な疑問だ。
「そういえば、オレンジっていつくらいに進化させたの? 昔からライチュウだった気がするし、もしかして捕まえてすぐとか?」
 そうであるなら、ジムリーダーらしくアドバイスのひとつでもしてやろうと思っていた。ライチュウに進化させるまでに最低限のわざは覚えさせたのか、どのわざマシンを使えばもっと強くなるか。
 そして、違うと言われたなら。誰かから譲り受けた子なのだと言われたら、さぞかし立派なトレーナーが育てたのだろうと興味をもっただろう。他にはない爆発力を持ったこのライチュウを育て上げた、その術をぜひご教授願いたいと。
 しかし彼からの返答は、どちらとも違う予想外のものだった。
「んー……わからない、です。もともと野生の子だったんですけど、僕が出会ったときにはもうライチュウだったんですよ」
 野生のライチュウなんてシンオウにはいないですよね――ナタネは絶句した。その可能性を考えなかったわけではないのに、よもやこんなところで現実としてあらわれるなど思ってもみなかったから。
 言葉を失くした彼女を見ながら、シラシメがゆっくりと口を開く。彼が話すのはきっと数年前、一人と一匹が出会ったときの話だ。

 ――ぴちょん。
 頭頂部に落ちてきた雨垂れは、気温にそぐわぬ冷たさをしていてぞくりと背筋が粟立った。梅雨時期にも関わらず腕を擦ってしまったのは条件反射のようなものだ。
「……あめかあ」
 すっかり曇ってしまった空はムックルの毛色を薄めたようで、つられて少し気分が落ち込む。はあ、とこぼれたため息が見えないまんまに霧散していくのも、シラシメの気分を落ち込ませる手伝いをした。
 ふ、と。家を出て少ししたあたりから、既に遥か彼方では雲行きが怪くなっていたなと思い返す。よもやこんなに早く天気が崩れるとは思ってもいなかったけれど。
 森に入れば多少は雨を防げるかもしれない……そう思い足早にその場を立ち去ろうとしたのだが、不意に聴こえた鳴き声がシラシメの足を縫いつける。まったく聞き覚えのないその声は、微かな悲嘆と苦痛を乗せてシラシメの耳に滑り込んだ。
 草陰で震えていたのは、この場所――205番道路に生息しているはずのないライチュウだった。別にそれほどポケモンに詳しいわけではないけれど、野生のライチュウなんてものは今まで聞いたことがないし、ピカチュウ自体この近隣では滅多に見かけない。
 シラシメはあまり機敏に動けるようなタイプではないが、いるはずのないポケモンが弱って潜んでいる、その事実に疑問を抱かないほど間抜けのつもりもなかった。
「きみ――う、うわあっ」
 ライチュウのことを案じて駆け寄ろうとするも、手痛いでんきショックを足元に浴びせられてしまい、立ち止まる。近寄るなとでも言いたげな抵抗と、怯えた視線が痛々しい。
「えっと……あ! そこ、けがしてるね……?」
 ライチュウの右手。コッペパンのような部分に血が滲んでいるのに気づき、ゆっくりとライチュウに近づいていく。敵意なんて微塵も感じられない、むしろのほほんととぼけたようなシラシメを見て、少しだけライチュウの警戒は解かれたようだ。
 ある程度距離をつめたシラシメはゴソゴソと懐をあさり、まるで秘密兵器でも出すかのようにそれを掲げた。
「じゃじゃーん、オボンのみ! ひろったんだ、たべる?」
 弱っているだけならまだしも、負傷している相手には「キズぐすり」のほうが効果的だろう。
 だがまだ幼いシラシメにそんな知識があるわけもなく、拾ったばかりで泥のついたオボンのみがライチュウの目の前に差し出された。
「あ……でも、よごれてちゃたべづらいかな? 待ってね――」
 そう言って服でごしごしときのみを拭うシラシメに、ライチュウのまんまるの目がひときわ丸くなったのがわかる。どうしよう、と惑う様子を見せつつも、シラシメの持つオボンのみを、ライチュウはひと口だけかじってみせた。
 これが、二人の第一歩だった。

 それからのシラシメは、前にも増してハクタイのもりへ、205番道路へ寄りつくようになった。
 少しずつ表情が柔らかくなりはじめたライチュウは、初めて会ったときには黒ずんだビー玉のような瞳をしていたけれど、今はまるで黒曜石のように爛々と輝いた目をしている。草影に隠れている時間も減り、朗らかに周囲を探索する機会が増えた。
 ライチュウが嬉しければ、シラシメも嬉しい。きっと、その逆もしかり。
 シラシメが何気ない疑問を投げかけたのは、そんな関係をひっそりと築き始めていた頃だった。
「そういえば、きみにもなまえがあるのかな?」
 出会ってから早一ヶ月が経とうとしていたのに、お互い名乗りもしていなかったこと――ライチュウに名乗る手段はないけれど――を思い出す。
 お気に入りの切り株からぴょんと降りて、シラシメはライチュウに向き直った。
「ぼくはね~、シラシメっていうんだよ」
 ――シラシメ。漢字を使うなら「白絞」と書く。字面は少々物騒だが、なんてことはない、油のことだ。
 おシメだの何だのとからかわれて少々厭うていたこの名前だが、少し先の未来、恋した人の名前と深い関係にあるということをさりげなく感謝するようになるのだから、人生というものは全くもって面白い。
 聞き慣れない響きなのだろう、ライチュウはひくひくと忙しなく耳を動かしていた。
「きみのなまえは?」
 こくんと小首を傾げながらシラシメが問うが、ライチュウはみるみるうちにしょぼくれてうつむいてしまった。まんまるの瞳がじわりと滲む、その様子はあまりにも痛ましい。
「もしかして……なまえ、ない?」
 弾かれたようにシラシメを見たあと、小さくこくりと頷いた。「そっかぁ……」と溢して三拍の後、閃いたようにシラシメがライチュウの手を取る。
「じゃあ、ぼくがきみのなまえ、つけてあげる!」
 子供特有のぺかぺかした笑みを浮かべ、すぐにシラシメが唸り始める。左右に揺れたり座り込んだり周りをくるくると回ったり、十分すぎるほどの時間を要して、ようやっと結論に達することが出来たようだ。
 名前のアイデアは相変わらず、お気に入りのあの本から。今日も家を出る直前まで読みふけっていたもので、むしろだくりゅうのように押し寄せるアイデアを見繕うことに苦労した。
「オレンジ……ってどうかな? えへへ、きょうからきみはオレンジだよ!」
 笑みを深くしながら、シラシメがずずいとライチュウに顔を近づける。ライチュウは一瞬ぽかんとしていたようだが、すぐにその顔は満面の笑みに包まれた。
 感極まって飛びついてきたライチュウに対抗する術もなく、シラシメはそのまま後ろに転げてしまう。しかし、嬉しくてたまらないようなライチュウの顔を見れば怒る気なんて起きなくて、むしろ喜びの連鎖が再び始まってしまうだけだ。
「あらためてよろしくね、オレンジ……!」
 きゅう、と高らかに鳴く声が、静かなハクタイのもりに響いた。

「――みたいなことがありまして……ああほら、これ。取っ組み合いとかしてた頃にオレンジに噛まれた痕です」
 シラシメがちょいちょいと指差した肘には、確かにライチュウの口と同じような大きさの歯形があった。この年になっても残っているあたり、相当な強さで噛みつかれたものだと思われる。流血沙汰は避けられなかっただろう。
「最初の頃は全っ然近づけなかったんですよ~。寄ってったら噛みつかれるし、叩かれるし、逃げられるし……」
 口から出るのは不満ばかりなのに、シラシメの表情はとても柔らかかった。
「本当に苦労しました」と付け加えて、ちらりと横に流れた視線。その先では、話の途中で目を覚ましたらしい犯人が照れ臭そうに笑っている。
「でもほら、僕たち結構抜けてるじゃないですか。だから、しばらくはオレンジって呼ぶの忘れたり、呼ばれても返事してくれなかったりで――ナタネさん?」
 不意に顔を覗き込まれ、肩が大げさに跳ねてしまう。どうしたんですか、と訝しむようなシラシメを適当にかわして、今日は帰る旨を伝えて逃げるようにこの場を去った。
 さくさく、さくと草むらを踏みしめながら、ざわつく胸を必死に落ち着けようとする。
「あたし……これ、ちょっとやばくない?」
 思わず独りごちてしまったのは、おのれの感情に戸惑いを隠せないから。
 自分が聞いていたのは二人の絆の話だ。二人が歩んできた軌跡の話。二人が育んできた友情の話。
 トレーナーとポケモンのあいだには確固たる絆がなくてはならない。それがあるからこそナタネはジムリーダーに就任することができたし、シラシメだってあそこまでの強さを手に入れられたはずだ。
 ……自分から訊いたくせに。自分から興味を示したくせに、この心のうちには確かなノイズが混じっている。それはあまりにも人間臭くてみっともなくて、そして今さら取り返すこともできないようなことなのに。
 渦巻く感情が奥から溢れてくる。こんなこと思う資格はないとわかっているのに、無性に募る淋しさが、この胸に住みついて頭をもたげる。
 覆すことなんかできないのだ。二人のあいだに入ることなんて叶わなくて、むしろ烏滸がましいくらい。わかっているはずなのに、優しい顔をして笑いあう二人のなかに混ざれないこと、思い出を共有できないことによる淋しさが、二人への興味を上まわってしまった。
 仲間はずれみたい、なんて。子供じみた不満が喉の奥にぐるぐるとして、疎外感にいたたまれなくなってあの場を立ち去ってしまった。……あまりにも大人気ない。
「年上ぶって偉そうなこと言うくせに、ほんと、しょうがないんだから……」
 自嘲まじりのつぶやきは、ハクタイのもりの木々の隙間に消えてゆく。
 感情というものは、とかく想像を越えて肥大しているものなのであった。

2021/11/11 加筆修正