今度は僕の番ですよね!

 必死に戦うロズレイドやチェリムに、指示のひとつもしてやれない自分がひどく腹立たしい。
 けれど、もう、動けなかった。腰は完璧に砕けてしまって、もはやにじって距離をとることすら困難となってしまっている。それほどまでに恐ろしい。
 洋館から飛び出してきたゴーストポケモンたちは尋常じゃない数で、このままでは消耗戦は避けられず、やがてみんな力尽きてしまうかもしれないのに。どれだけ膝を叩いても足は動いてくれないし、掠れた喉は声を忘れてしまったよう。役立たずで、何もできない、意気地なしがここにいた。
 ポケモンの扱いに長けているジムリーダーがこんなことでどうするのだ――いつも自分を鼓舞する言葉も、今はただただ我が身を責め立てるだけ。
「――! あ、……ッ」
 そうこうしているうちにチェリムがひんしになってしまった。ゴーストの『シャドーパンチ』が急所に当たってしまったようで、ぐったりとしたその様子に再び自責の念が募る。
 せめてボールに戻してあげないと……! 必死の思いで倒れたチェリムの側に寄り、丸い体を抱き上げようとしたのに。その隙をついて襲ってくるゴースのすがたが視界に入り、もうダメだと反射的に目を閉じた刹那――
「――『10まんボルト』!」
 聞き慣れた声と、まぶたの隙間から入ってくる閃光。
 染み込んでくるような安心感に目を開くと、そこには思った通りの背中があった。
「お怪我はありませんか、ナタネさん」
「あ……ッ、シラシメくん……!」
 ゆるりと目を細めた彼に、ナタネの緊張も自然と解けてくる。
 ――ああ、そうだ。思えばいつもそうだった。彼のまとう緩やかな雰囲気は、日々の勤めで凝り固まった心を、ふわふわと解かしてくれていた。
 まるで彼自身が自然の化身であるかのように。アロマセラピーのような独特の空気が、彼の周りにはいつも漂っている。
「ブルベリー、『ドラゴンクロー』!」
 しかし、シラシメの登場が刺激になったのか、ゴースやゴーストの群れは攻撃を激化させている。
 シラシメも負けじと応戦し、次々に遅い来るポケモンたちをちぎっては投げ、ちぎっては投げとするものの……その数は十や二十では足りなそうだ。
 レベルの高いライチュウ、相性的に有利なホーホー、基礎能力に優れたガバイト。精鋭と呼ばれる三匹でも、やはり消耗は避けられないように見えた。
 いつかとは逆の立場となった今。ナタネには、あの頃よりも広くなった背中をただ見つめることしか出来なくて、その現状がひどく情けなくもあったけれど……
「チェリーは『サイコキネシス』だよ!」
 彼のもたらす安心感は本当に心地がよかった。今この場で、すべてを委ねてもいいと考えてしまうほどに。
 ぐったりと伏したチェリムを抱きかかえながら、ナタネは勇敢に戦うシラシメの背中をずっと見つめている。
「ダメだ、三匹じゃ足りない……メロン、グレープ、ピアーもおいで!」
 腰に携えたボールから、彼のポケモンすべてがこの場へと放たれる。
 シラシメのポケモンには小さい子たちが多い。そんな彼らが勇猛果敢に立ち向かう姿は見ていて何か沸き上がるものがあったけれど、数年前、彼とジム戦を行なったときから感じていた違和感が、ここにきて更に浮き彫りになる。
 なぜ彼のポケモンは、ほとんどが進化をしていない――?
「メロン、『かみつく』! ピアーは『おどろかす』、グレープは『シャドーボール』!」
 トレーナーの指示を忠実にこなす力も、一体一体を確実に倒していく力も確かに備わっているというのに。
 多勢に無勢という状況下で、ここまで持ちこたえられているのに。
「どうして、あなたたちは――」
 言いかけて、口を閉じた。今この場で彼を揺さぶるのは得策ではない。こんなにも懸命に戦ってくれているのに、その集中を乱すなんてジムリーダー……否、トレーナー失格だ。
 快復したら自分もバトルに加わろう、そう思いチェリムを強く抱きしめたとき、突然のモヤと息苦しさに思わず顔を上げた。刹那、口元に厚い手のひらが触れる。シラシメに口を塞がれたらしい。
 ――ゴースだ! ガスじょうポケモンのゴースは、どんなに大きな相手でもそのどくガスで飲み込んで、確実に仕留めてしまうという――ひときわ体の大きいゴースが放つそれは、おそらく殺傷力や効果範囲も平均より頭抜けているのだろう。
 シラシメのほうをちらと見やる。彼の頬を伝う汗を見逃すわけはなかったけれど……それでも彼は、柔和に笑ったままだった。
 いつもと変わらず落ち着き払って、片手でナタネのロズレイドとチェリム、ナゾノクサをボールに収めていく。シラシメに差し出されたモンスターボールを目に入れて、初めて彼にボールを取られていたことに気がついた。
 ナタネがそのボールを受け取った刹那……彼はひときわ笑みを濃くして、高らかに指を鳴らす。
 彼はいったい何をしたのか――? 深く考える間もなく、小さな鈴の音とともに充満していたガスや息苦しさが引いていくのを感じる。
 ふと差した影に頭上を見上げれば、そこには大空を悠々と飛びまわるヨルノズクの姿があった。
「『ふきとばし』です。ああ、すみません。もう大丈夫ですよ」
「あの子は……チェリー? でも、どうして――」
「捨てさせたんです。ほら、あれ」
 シラシメの指差す方向を見れば、そこにはいくつか点在する小さな石。淡い灰色をした丸いそれの正体といえば――
「――かわらずのいし!」
 のんきに話している間に、怒ったゴースが再度どくガスを広げてくる。先ほどとは比べものにならない広範囲、高密度なそれについ怯んだけれど、シラシメに動じる様子はない。勝ち誇ったような笑みを浮かべ相手を見据える彼に思わず首を傾げたが、隣に控えるポケモンのすがたを見て合点がいった。
「……効かないよ」
 シラシメの脇でゆらゆらと揺れるチリーン。その体から放たれるベール……『しんぴのまもり』に彼や彼のポケモンたち、そしてナタネもしっかりと守られていたのだ。
 予想外の事態だったのだろうか、ゴーストポケモンたちはどくが効かないことに戸惑い、ざわざわとして統制を欠いているようにも見えた。
 その不意をついて現れたのは、ジェット機にも負けない速さで飛ぶとされるガブリアスだ。
「『ドラゴンダイブ』!」
 数匹まとめて押し潰すガブリアスに、少し背筋が粟立ったのは内緒だ。
 衝撃で跳ねとんできたポケモンにトドメを刺すのはゴーストの『シャドーパンチ』。同郷のポケモンだろうと容赦しないその姿に、シラシメによくなついているという事実を感じ取れる。
 連続進化を経てどっしりと構え唸るドダイトスは、『はっぱカッター』や『リーフストーム』でゴーストポケモンたちの行動範囲を縛っている。もはや彼らは、ここから逃げ出すことすら許されないようだった。
 いよいよ危険を感じたのだろう、満を持して彼らの親玉、ゲンガーが姿を表す。かなり興奮しているらしくいきり立つその様に、再度体から力が抜けた。
「――うん。丁度よかった、かな。ナタネさん、ちょっと失礼しますね」
「へ? あっ、きゃあ!」
 ふと体が浮いたと思えば、シラシメに膝裏を掬われていたらしい。
 彼は空に向かってアイコンタクトを送ったあと、チリーンとゴーストをボールに収めている。
「な……何を……」
「えへへ。ちょっと危ないかもしれないので、一緒に避難しておきましょう」
 抱き上げられたままヨルノズクに乗り、十分に高度を保った辺りで目に入ったのはあのライチュウ。地面から抜かれた尻尾とまっすぐ立った両耳に、いつかに聞いた話を思い出す。
 ――オレンジって、耳がピーンってなるとすっごく怖いんですよね……。
 ライチュウは電気が溜まりすぎると攻撃的な性格になるため、定期的に尻尾を地面に突き刺して電気を逃がしているという。
 ……思い返せば、あのライチュウは途中からあからさまに攻撃の手を緩めていたように思う。群れに向かっていくというよりはずっとナタネの近くに立ち、降りかかるひのこを払う程度にとどめていたはずだ。
 未進化ポケモンが多かった都合もあるが、ライチュウはシラシメのポケモンで随一の攻撃力を持っている。もし、普段から飛び抜けた火力を持つライチュウが、このバトル中ずっと力を蓄え続けていたのだとしたら――
「いいよ、オレンジ! フルパワーで『ボルテッカー』!!」
 一瞬で黒焦げになってしまったゲンガーに、ほんの少しだけ同情した。

「……大丈夫?」
「はぁい……あ、いててて」
 ゴーストポケモンたちが大人しくなったあと、あろうことかシラシメは丸焦げのゲンガーに直談判を申し出た。会話になっていたのかどうかはわからないけれど、刺激したのが自分たちではないことや反撃したことについての謝罪、他にも色々なことを伝えた結果、最終的には何やら友情が芽生えていたようだ。
 何度か取っ組みあいの喧嘩にまで発展していた気もするけれど……まあ、彼らが納得しているならそれでいい。野暮なことは言うもんじゃないと、ナタネはずっと彼らの動向を見守っていた。
 ……もっとも、鬼気迫る様子のゲンガーが怖くて口を出せなかった、という事情もあるのだが。
 兎にも角にも、今回はシラシメの活躍のおかげで大事に至らなくて済んだ。ジムリーダーとして、目上の人間として情けなくもあるが、彼という救世主の存在には感謝するほかないだろう。
「あ……そういえばナタネさん、何か僕に言いかけてませんでしたー?」
「え? あ、ああ……聞こえてたの?」
「もちろん。僕がナタネさんの声を聞き逃すわけないじゃないですか」
「う……うーん、えっとね。どうしてシラシメくんのポケモンたちは進化してなかったのかなーって。あんなに強いなら進化してて当たり前なのに」
「あー……それはですね」
 ゆるい笑みを浮かべたシラシメが、ゆっくりとナタネに向き直る。
 いつも通りの笑みのはずだったのに、その向こうに見えた真摯な瞳は普段と違う色を湛えていて、自然とこちらの背筋も伸びるというもの。
 出どころのわからない感情と戦いながら、ナタネはじっと言葉の続きを待った。
「あなたのことが好きだから……です」
「! あ……あの、シラシメくん――」
「別に隠してたわけじゃないんですけど……僕が最初に本気を出すのは、ナタネさんのためがいいなって思ってたんです。だから、かわらずのいしを持たせていて」
 どくん、どくんと騒ぐ鼓動がうるさい。心臓が耳元に来たようだとはよく言ったものだ。
 彼に気持ちを伝えられたのは初めてではないけれど、前回は匂わせる程度で明確に言葉にされたわけではなかった。ゆえに、こうしてしっかり向きあって、言葉を使って伝えられるとこちらの受け取り方も変わるというもの。
 さっきはゴーストポケモンに、そして今度はシラシメに。ナタネの情緒はぐわんぐわんと、まるでジェットコースターのように揺さぶられまくっていた。
「あなたのために強くなりました。七年前に助けてもらったときから、ずっとあなただけを想って生きてきました。今度は僕があなたを助けられたらなって思って、それで――」
「ストーップ!!」
「……へぁ」
 ……我ながら最低だと思う。彼の真摯な告白を、不逞にも遮ってしまったのだから。それも、顔面にチェリンボを押し付けるという不恰好なかたちで。
 だがこれ以上続けられると申し訳ないがこちらの身がもたないのだ。相も変わらずうるさい心臓は最高潮に達していて、少し気を抜けば目をまわしてしまいそうなほど。
 けれど、この感情こそが自分の気持ちがシラシメに向いている、ということの証左になる。不謹慎だが、先の戦いを繰り広げた彼はずっと見ていたいと思うほどに格好良かった。
 しかし五歳という年齢差は、傾きかけたナタネの天秤に理性という名の重りを落とす。体裁だとか世間体だとか、邪魔なものを取っ払い向きあっていけるほどの意志や覚悟が、今のナタネには足りなかった。
 まだ……彼の気持ちに応えられるほど、ナタネは強くなかったのだ。
「このチェリンボね、覚えてる? シラシメくんによく懐いてた子。さっき助けてくれたチェリムの子供なんだけど」
「……はぁ」
「この子ね、あなたにあげる! お礼よお礼、遠慮しないでね!」
 ぐいぐいとチェリンボを押しつける力を強め、そのまま立ち尽くす彼にくるりと背を向けた。
「シラシメくん……助けてくれてありがとね、本当に。あなたがいなかったら、あたし、今頃どうなってたか……」
「それは……ええ。ご無事でよかったです」
「うん。……さっきのシラシメくん、すっごく格好良かった」
「!」
「だから……だからね!」
 ――もうちょっとだけ、待っててね。
 その言葉はちゃんとシラシメに届いただろうか。言うなり駆け出してしまったから、彼がどんな顔をしていたのかはわからなかったけれど。
 背後から香る空気の柔らかさが、答えを教えてくれた気がした。

2021/10/19 加筆修正