木の葉の音は彼らの警鐘

 ハクタイシティの脇に鎮座するハクタイのもりは、夜になるとその薄気味悪さゆえにほとんど人を寄せつけなくなる。
 洋館付近はもはや肝試しのレベルをゆうに越え、新人トレーナーはもちろん地元の人間やオカルト好きですら立ち入れるような場所ではなかった。ハクタイシティの人間は言い伝えや噂の類に敏感であったし、神と言われるポケモンを祀って石像まで作っている関係上、そういった暗黙のルールには従いがちだ。
 しかし無知とは恐ろしいもので、どれだけ地元民がこの場所や掟を守ろうと、イタズラにこの場所を刺激する愚か者――良く言えば怖いもの知らずか――はあとを絶たない。彼らはまったくの興味本位で、ひどく無遠慮にポケモンたちの縄張りを踏み荒らしてゆく。少し痛い目を見ればすぐに逃げていくけれど、しかしそういった人間が少数でないことも事実だ。
 来る日も来る日もやってくる無法者。何度も住処を荒らすような真似をされて、果たしてここのポケモンたちはいったい何を思っていたのか。
 この森を根城とするゴーストポケモンたちが爆発寸前だということに気づいた者は……きっと、そう多くはなかったのだろう。
「あー、やだやだ。まさかこんなに遅くなっちゃうなんて……」
 ハクタイジムのジムリーダーを務めるナタネには、ハクタイシティはもちろんハクタイのもりのパトロールという義務も課せられている。
 もともとこの場所には馴染みがあったし、自然は好きな部類なので特に苦でもなかったのだが……しかし、ここまで遅い時間にもなると話は別である。
 今日は普段よりもジムへの挑戦者が多く、パトロールの予定がだいぶ繰り下がってしまったのだ。空には不気味なくらいまんまるの月が浮かんでいて、ヤミカラスが飛び交い、羽音がやめば寝静まったポケモンたちの寝息が聞こえる程度には静かで……つまるところ、今は時計を見るのも恐ろしいくらいの結構な時間であった。
 いつもなら夜遅くに近づくことはしない洋館も、役目とあらば見に行くしかない。自分の恐怖心に負けるような意気地なしのつもりはないし、おのれの怠惰のせいで取り返しのつかない事態を起こしてしまってはジムリーダー失格だ。何より、こうしてパトロールを重ねることで守れる命があるというのも確かである。
 例えばそれは、数年前にゴースに襲われて腰をぬかしていたシラシメ少年のように。
「そういえば……あれがきっかけだったっけ。この森のパトロールを頑張ろうって思ったのは」
 あのときはまだジムリーダーにもなっていなかったけれど、この胸に何か灯るものを感じたのは事実だ。正義感とでも言えばいいのか……とにかく、自分のなかに「誰かを守りたい、助けたい」という責任と決意があの日に生まれたような気すらする。
「そう考えると、あたしもあの子に色々もらってるんだな――」
 なんとなく気恥ずかしくて頬が緩む。ナタネが笑えば足元のナゾノクサも同じように笑い、少しだけ恐怖が和らいだような気がした。
 そろりそろりと及び腰になりながらも懸命に進んだ結果、ようやっと目的の建物が見えてくる。そして、なんとか『いあいぎり』の必要な細い木の前までたどり着いた途端、森はざわざわと重苦しく鳴き始めた。
 それこそ数年前――シラシメを助けたときとは比べものにならないほどの異様な空気に、いよいよ職務よりも恐怖が勝る。
 ――負けたくなんかないのに! そうは思っても体は言うことを聞かず、迫り来る恐怖に膝は震えてとうとうその場にへたり込んでしまった。歯の根はあわず、ナタネの恐怖が伝播してしまったらしいナゾノクサと、ただ抱きあって怯えるばかり。
 やがて扉をぶち破る轟音とともに飛び出してきたゴーストポケモンの群れを前に、ナタネは甲高い悲鳴をあげるのが精一杯だった。

 ――何かが来る。直感的にそう思った。
 長いあいだ森で過ごしていると、どうやら五感、否、いわゆる第六感が研ぎ澄まされてくるらしい。例えば人のまとう空気だとか、木々のざわめき、風の知らせ、ポケモンたちの言わんとしていること――そういった、とかく曖昧で不確かなものを、シラシメは少しずつ感じ取れるようになっていた。
 それこそ時にはガバイトと共鳴するように、暴れる野生ポケモンの気配を察して宥め、通行人を巻き込みかねない大惨事を未然に防いだこともある。あのとき大暴れだったイシツブテやワンリキーたちとはすぐに仲良くなり、今では顔を見ると挨拶してくれるほどになった。
 かねてからののんびりしたところは少しも変わっちゃいないけれど、それとは違うところにある『何か』を、いつの間にやらこの森から授かっていたらしい。
「……オレンジ、君にもわかる?」
 そしてそれは、こくこくと頷く相棒、ライチュウも同じだった。否、もしかするとシラシメと共にいる手持ちのすべてがそうなのかもしれないが。
 物心ついてすぐに出会ったこのライチュウは、出会ったときからずっとライチュウのまま。「野生のライチュウ」という普通では考えられない出自をしたこの子は、おだやかなせいかくながら人間を苦手としている。とはいえ自分やナタネには心を開いてくれているようで、彼女におなかを見せてじゃれついていたときにはニャースのようだと笑いあったものだが――
「あ――っと、ごめん、オレンジ。今はそれどころじゃなかったね」
 場違いにも感傷に浸りそうになったシラシメを、ライチュウは至極冷静に制す。強い意志を持った瞳はシラシメを焚きつけるような色をしていて、それだけで勇気が湧いてくるようだ。
「……そうだね。はやく行かなくちゃ!」
 勢い良くお気に入りの切り株から立ち上がった刹那、遠くから響いたのは誰かの悲鳴。ナタネのものによく似たそれには鬼気迫るような迫力があって、彼女の置かれている状況があまりよろしくないことを伝えている。
 想い人のピンチ。そんなもの、奮い立たないわけないだろう!
「オレンジ……! あとチェリー、ブルベリーも急いで!」
 残りの三匹をボールに戻し、素早いライチュウ、ホーホー、ガバイトを走らせる。
 ホーホーには空からの偵察も兼ねて遥か上空を。シラシメと残りの二匹は地上を全速力で駆けてゆく。火事場のばかぢからとでも言おうか、今までの人生で最速と言っても過言ではない速さで、シラシメは声のしたほうへ必死に足を動かしていた。
 ――待っていてください、ナタネさん。今度は、僕があなたを助ける番ですから……!

2021/10/17 加筆修正