勝っちゃいました三年前

 自動ドアを目の前に、木に囲まれた焦げ茶の屋根をぐっと見上げる。
 ここに来たいと思ったのはいつだったか――あれは確か四年ほど前、彼女がジムリーダー候補だと噂され始めた頃だったろうか。
「……待っててください、ナタネさん」
 策はある。上手くいくかはただひとつ、この自分の腕次第だ――ゆっくりと深呼吸をして、その道への第一歩を踏み出した。
 少年の名前はシラシメという。かつてこの街のジムリーダーに助けられ、それからずっとただひたすらに、彼女を想い続けた男だ。

「――来たね、チャレンジャー!」
 ハクタイジムの最奥部にて待ち構えていたナタネは、お気に入りの緑のケープを翻しながら振り返った。
 近くにハクタイのもりが鎮座しているうえに専門もくさタイプであることから、このジムは内装も小さな森のようになっている。室内ながら青々と茂る木々はナタネやポケモンたちにとって自慢の景観で、毎日丹念に愛情込めて手入れをしていることが道中でも見て取れるだろう。
 このジムに入る者はみなその木々に圧倒される。それが、ナタネにとって密かな誇りで楽しみだった。
 今回のチャレンジャー、なかなか骨のある人みたいです――そう言っていたのはジムトレーナーの一人だ。彼女の報告に違わず、彼はジムトレーナーたちをばったばったとなぎ倒し、あっという間にナタネのもとへとたどり着いてきた。
 まだまだ新米ジムリーダーの域を出ないナタネは、新緑のごとく活気あるすがたでチャレンジャーを迎える。そして、らしく構える彼のほうを見やった……はず、なのだが。
「えへへ……どうも、こんにちは〜。よろしくお願いします」
「構える」とは少々語弊があったかもしれない。何故なら彼は緊張感の「き」の字も感じられないほど――それはまるであの森のなかにいるかのごとく――悠々として穏やかだったからだ。
「んー……? あなた、ずいぶん落ち着いてるね。これからジム戦だよ?」
「そうですか……? あはは、まあ、普段からこんな感じなのでー」
「うわ……やだ、あたしまで気が抜けちゃいそうなんだけど」
 問いかけにもへにゃりと笑ってみせるチャレンジャーに、ナタネのほうまで気が緩んでしまう。おのれを叱咤するように頬をぺちぺち叩いてみても、やはりあの笑顔、雰囲気、間の取り方を前にしては気合いなんてどこかへ飛んでいってしまいそうだ。
 確かに、これはなかなかの大物になりそう――そんなふうに独りごちていると、彼はふと顔を上げて話し出す。
「ああ、先に紹介しときますねー」
 刹那、二つのモンスターボールがぽいぽいと放られた。煙の中から姿を現したのはライチュウとゴースで、正反対の取り合わせに思わず顔をしかめる。
 まさかおばけポケモンを連れてくるだなんて……! 彼に悟られないようこっそり背筋をぞっとさせていると、ライチュウが何やらこちらをちらちらと見てくるではないか。はて、一体、何の意図が? そう思いじっとその目を見つめていると、ふと数年前の記憶が呼び起こされるのを感じる。
 このぼんやりとした顔、どこかで見覚えがあるような――数拍思い耽り、そしてひとつの出会いを手繰れた瞬間、ナタネはあっと声をあげた。
「まさか、このライチュウ……! もしかしてあなた、あの時迷子になってた男の子……!?」
「あはは、はい、そうです。その節はありがとうございましたー」
「じゃあこのゴースも……!」
「そう、あのときナタネさんに追い払ってもらった子です。この子、遊んで欲しくてちょっかい出してきてただけみたいで」
 かつて自分に危害を加えてきたポケモンであるというのに……彼はゴースにへにゃりとした笑みを向け、それに応えるようにしてゴースも嬉しそうに笑った。仲睦まじげなその様子からは、彼らが加害者と被害者であった経緯などはまったく感じられない。
 ……なるほど。ライチュウは言わずもがな、あのゴースとも信頼関係は十二分か。親しげな三人組の様子を見ながら、人知れずナタネは頷いた。
 あのときはまだまだポケモンバトルにも不慣れであったはずなのに、よくもまあたった数年でここまで成長したものだ。
「さて……準備はいいかな、チャレンジャーくん。そろそろバトルを――」
「あぁ、それー」
「それ?」
「えっと〜……僕がバトルで勝てたら、名前、覚えてもらえますー?」
 間延びしたような問いかけに、ナタネはにやりと笑った。
「勝つ気満々だね、あなた。……うん、いいよ! 場合によってはご褒美もあげちゃおっかなー?」
「あははぁ、……それはそれは、すごく楽しみですね」
 ゆっくりと、チャレンジャーがナタネに向き直った刹那。彼を取り巻く空気はがらりと様子を変えてしまう。
 さっきまでの緩さはどこへやら、射抜くような目つきと勝ち気な笑み。少しだけ低くなった声色からも彼の気合いや自信がひしひしと感じられ、ナタネは思わず生唾を飲んだ。
「――精々楽しませてちょーだいねっ!」
 試合開始のゴングとともに、ナタネも負けじとモンスターボールを放り投げた。

「……上手くいったのかなー」
 ジム戦後。ぽんぽんと膝の上で跳ねるタマゴを撫でながら、シラシメは数刻前のことを思い出していた。
 以前出会ったときより何倍も鍛えられていたポケモンたち。ライチュウとゴースという不利なポケモンで臨んだのは他に選択肢がなかったというのもあるけれど、同じく不利なゴース相手に果敢に戦ったナタネへの憧れがそうさせたところも大きい。
 ここ数年、彼女に打ち勝つこと、彼女の記憶に残ることばかりを考えてポケモンバトルに勤しんできた。挨拶のひとつすら何度もイメトレを重ねたし、彼女からの印象を思ってはドキドキして眠れない夜もあったくらいなのに。
 作戦がうまくいったかどうか。それは、シラシメ自身にはどうやっても答えの出せないことだけれど――
 ――あはは! あなたとっても強いんだ、面白いねー!
 そっと目を閉じれば、まばゆい笑みを浮かべながらバッジを渡してくれた彼女のすがたが目に浮かぶ。
 ――これ、フォレストバッジね! それからご褒美もどーぞ!
 彼女の言っていた「ご褒美」をいただけたあたり、自分自身もバトルのほうも、とりあえず悪印象ではなかっただろうことが窺い知れる。
 件の「ご褒美」とは、いま目の前にあるこのタマゴのことだ。もらった時点でもう既に孵る直前だったそれは、今もなお跳ね続け、孵化のときを今か今かと待ちわびているように見える。
 ――またね、シラシメくん。あなたのポケモンやバトル、とーっても素敵だったよ!
 どくり。彼女が名前を呼んでくれた、その事実だけでこの胸は膝の上のタマゴのごとく、跳ねるように高鳴っている。
 彼女が呼んでくれるだけで、慣れた自分の名前ですらなんだか特別な響きに聞こえてしまうなんて……年頃の乙女のような自分の思考回路に悶えていると、不意にタマゴが熱を放出し始める。ぶるぶると震えひび割れるそれに驚く間もなく、その主は姿を現した。
「あっ……ナエトルだー!」
 タマゴから孵った途端、ナエトルはシラシメの膝からころんと地面に転がり落ち、初めて見る景色にきらきらと目を輝かせているようだった。ハクタイのもりの爽やかな風が、生まれたばかりの柔肌をそよそよと撫でているのがわかる。
 形容しがたい動作で転げたり躓いたりしながら精一杯動くナエトルに、自分のなかの何かがわき上がってくるような。それは父性のようであれば、いわゆるキュートアグレッションのたぐいのようでもあり、ざわざわとざわめく心は木々の声にも似ている。
 つんとつつけば赤子特有の愛らしい笑みを向けてくるナエトル。その顔は、なんとなくであるがナタネのナエトルを彷彿とさせるものだった。
「……もしかしてこの子、ナタネさんのナエトルの子供かな~」
 こてん、と首を傾げるナエトルには、そばで見ていたライチュウとゴースも微笑まざるを得ないようだった。
 ……あのナエトルには苦しめられたな。見た目に反してものすごくすばやいし、スピード型なのかと思えば一撃もなかなかに重い。シラシメの手持ちは二匹ともぼうぎょ面に不安が残るポケモンなので、その対策を練るのにもなかなか骨が折れたものだ。
 ジム戦ゆえかなり手加減してくれているのだろうけれど、それでもあそこまでレベルの高いこうげきを仕掛けてくるだなんて……きっと、彼女が本気になったら自分は指一本触れることすら叶わないだろう。「ジムリーダー」と「チャレンジャー」の確かな壁を感じ、シラシメは思わず歯噛みした。
 ただ、どうやらこのナエトルは親の機敏さを受け継いではいないらしい。生まれたてだから仕方ないのかもしれないが、いくら自分を孵した人間相手とはいえ抱き上げられてから微動だにせず、こちらを見つめるばかりなのはどうなのかと――さすがのシラシメにも疑問が生まれる。
 生後数分とはいえあまりにも警戒心がなさすぎではないだろうか。眉間にぐぐぐとしわを寄せつつその愛らしい顔を見ていると、ふとひとつのひらめきが降ってくるのを感じた。
「そうだ、名前。君にも名前がいるよねー……」
 ナエトルを地面に降ろし、ライチュウとゴースに触れあう時間をつくってやる。仲間たちに興味津々なのだろう、ナエトルはちょこちょこと二人の周りをうろついてはちょっかいをかけ始めた。
 ライチュウのしっぽを咥えようとしたり、ゴースにたいあたりをしかけてみたり……人懐っこい様子はひどく微笑ましくて、ひときわ穏やかな時間が流れているような気にさせる。
「ライチュウがオレンジ、ゴースがグレープだから……うーんと」
 あごに手をあてて首をひねる。一応、これでもニックネームへのこだわりはあるのだ。
 ライチュウの「オレンジ」もゴースの「グレープ」も、大好きな本に出てくる架空の果物の名前である。オレンジは橙色のオレンのみ、グレープは色んな色があるプレグのみといった具合の代物で、どちらもその作品内では人気のある果物のようであった。
 ならば、どうせならこの子の名前も同じ作品からとりたいと思うのは道理だろう。シラシメは目の前で転がる丸い姿と、大好きな世界観を頭のなかで並べ立ててうんうんと唸る。
 やがて降ってきたインスピレーションにあっと声をあげ、まあるい体を大きく抱き上げて笑った。
「メロン……とか、どうかな? ロメのみに似た緑の果物で、結構高級品なんだ。つまり、これも特別な名前ってこと!」
 気に入ってもらえたのだろうか。「メロン」と呼ばれるたびにナエトルは朗らかな笑みを浮かべ、ライチュウとゴースも、新しい仲間を歓迎するように笑っている。
「よろしくね、メロン!」
 新入りでもあり、彼女との確かなつながりでもある小さな体。まだまだ柔らかくてか弱いそれを太陽に向かって掲げ、幸先の良いスタートを切れたと胸を躍らせるのだった。

2021/10/09 加筆修正