恋しちゃいました七年前

 ここはシンオウ地方ハクタイシティ――の、外れにあるハクタイのもり。
 木々が鬱蒼と生い茂り真っ昼間でも薄暗く翳っているこの場所は、浅い場所なら森林浴にうってつけの癒やしスポットであるけれど……ひとたび森の奥深くまで足を踏み入れれば、一転して異様な雰囲気の漂う不気味な場所に姿を変える。
 特に森の奥の奥の奥にある森の洋館は一際で、やれおじいさんの霊を見た、やれ半透明の女の子の姿があった、やれ怪しい人影を目撃した、やれゴーストポケモンの巣窟だなどと、ホラーに敏感な若者すら近づきたがらないほどの「ホンモノ」だ。
 とはいえ、良くない噂だらけの洋館を抱えつつも、道を踏み外さなければ穏やかで優しい雰囲気のする森であることには変わりない。生息するポケモンたちも気性は落ちついているし、だからこそポケモントレーナーの姿だって散見する。
 ただ問題があるとすれば――
「……あ、あれぇ」
 少し気を抜くと道に迷ってしまうような、迷宮にも近い造りをしていることだろうか。

 お気に入りの切り株から飛び降りて、一歩、二歩、三歩。何回も何回も通った出口までの道のりは、きちんと覚えているはずだった。
 右を見ても木、左を見ても木。野生ポケモンたちも馴染みの顔ぶれである……ように見えて、やはり見覚えのないものばかりだ。遊びに来るたび綺麗な音色を聞かせてくれたコロボーシも、挨拶代わりに木から落ちてくるクヌギダマも、知らぬ間に頭に乗ってくるヤミカラスもいない。
 完全に道に迷ってしまった――その自覚がめばえた途端、ぞくりと背中が粟立つのを感じる。
 いつも通りの道のりを、いつも通り歩んでいたはずだったのに。ただひとつ問題があったとすればキャタピーに見とれていたことだろうか? ここいらでは滅多にお目にかかれないポケモンだったから思わず目を奪われてしまい、拙く歩くキャタピーをつい追いかけてしまった結果、気づけばこんなに奥深くまで。
「ねぇオレンジ、どうしようか……?」
 自分と寄り添うようにして歩くライチュウに問いかけてみても、ただ不安そうな目を向けられるばかり。
 ……不安なのはライチュウも同じだ。ここはトレーナーである自分がしっかりしなければならないのだと、意を決したように深呼吸をする。負けてはならない、必ず出口を見つけ出すのだ。どうせ誰も探しに来てはくれないし、糸口はおのれの手で掴みとらなければ。
 そうして決意を新たにしたとき、こちらの様子に何か思うことがあったのだろうライチュウが大きく頷く。今まで不安そうにしていた顔をきりりとさせ、まるで「一緒に居るから大丈夫」とでも言いたげなその姿は、痩せ我慢に等しい決意を確固たるものにしてくれた。
「そうだね、今は僕、一人なんかじゃないもんね。オレンジがいるなら――」
 ――きっと、大丈夫。そう言いかけた声は簡単に途切れてしまった。辺り一面が暗い霧に包まれ、重苦しい空気がのしかかってきたからだ。
 思わず振り返って見つけたのは、おぞましい雰囲気を漂わせる洋館。鬱蒼と茂る木々に縁取られたそこが、近づいてはいけないと街の人たちが噂していた森の洋館だと気づくのはすぐだった。
 ひとたび自覚してしまえば、もう動くことは出来ない。両足も今は鉛のように重く、それどころか腰もすっかり抜けてしまい、もはや立つことすらままならなくなってしまった。
 その場にへたり込んだ途端、今度はうぞうぞと何かが足元を這い上がってくる。周囲を覆う霧がまるで意志を持ったように動き、頭上を渦巻いてはこの身すら飲み込まんとしているのだ。
 こちらに抵抗する術はない。ポケモンバトルにはまだ不慣れだし、そもそもこんなイレギュラーに対応しきるほどの冷静さも持ち合わせてはいない。
 ああ、もう、無理だ――ライチュウと震える体を寄せあい、もうダメだと目を固く瞑った瞬間――
「――ナエトル、『かみくだく』!」
 背後から飛び出してきたナエトルが、その霧の正体に果敢にも食らいついていく。姿も形も捉えられないと思っていたそれは不意の攻撃にすぐ実体を現して、真っ黒でまんまるの体に、大きな目をぎょろりと覗かせた。
 ――ゴースだ! そういえばこの森にはゴーストポケモンが生息していると小耳に挟んだことがある。イタズラ好きな彼らは根城である洋館を飛び出して、近づいてきた人間やポケモンを襲っては遊んでいるのだとか。
 きっとこのゴースも目的は同じなのだろう。もっとも、今まさに颯爽と現れた少女とナエトルによって、その企みも失敗に終わってしまったようだが。
 立て続けに食らわされる『かみくだく』と、撹乱に使われる『はっぱカッター』。その緩急ある攻撃によって、ゴースはとうとう尻尾を巻いて逃げ出していった。
「あなた、大丈夫? 怪我はない?」
「あ……う、は、はい。お姉さんが助けてくれたから……」
「ならよかった! でもねー、あなたみたいなバトルに不慣れ子がこんなところまで来ちゃダメだよ? このあたり危ないんだからね」
「……わかるんですか? 僕が、ポケモンバトルうまくないって」
「もちろん! こう見えて、ポケモンの扱いにはちょっとだけ自信があるんだから」
 橙と黒のツートンヘアーが特徴的な彼女のことは、風のたよりで知っている。ハクタイジムの次期ジムリーダーだとまことしやかに噂されていて、特にくさタイプのポケモンに造詣が深いのだと。
 確かにさっきのゴースとのバトルもなかなかのもので、相性の不利をひっくり返すほどの手腕は、幼く経験も少ない自分でも充分に理解できるくらいだった。
 いつか彼女がジムリーダーに就任したら、自分もハクタイジムに挑戦してみたい――なんて、そんな夢を見ていたこともあっただろうか。
 とにかく彼女は、自分とは立場も実力も何もかもが違う憧れの人、強くて格好良いお姉さんなのだ。そんな人に助けてもらえるだなんてなんと幸運なことだろうか? ついさっきまでの立て続けの不運はこのためにあったのかと、きっかけを作ってくれたキャタピーとゴースに少しだけ感謝した。
 そして、いささか早口に自分を叱ったあと。そわそわと辺りを見回し続けていた彼女は、やがて霧が完璧に晴れたことを確認すると、かくんと力なく膝をついた。
「――ッあー怖かった怖かった怖かった! もう! お化けなんて勘弁してよお〜〜〜〜!!」
 刹那、飛び出してきたのは悲痛な叫び。森全体に木霊しそうなほどの大声で吐き出されたそれに、ヤミカラスたちが飛び立ち木々を揺らす音が聞こえてくる。辺りが一気にざわついた。
 ぶるぶると震えながら頭を抱える彼女を案じ、その顔をそっと覗き込んでみれば……少しだけ潤んだ橙の瞳と目があう。
 霧も晴れ、やがて差し掛かってきた木漏れ日にきらきらと照らされたその瞳は、今まで見たことがないくらい美しくこの胸を揺さぶった。
「あ――え、あれ?」
 そして、今までの勇姿とは正反対、年相応に可愛らしいその姿にどくりと胸が高鳴る。凛として強いはずの彼女が見せた弱さと脆さは、まだまだ幼い心にある、未発達の庇護欲と嗜虐心を同時に呼び起こした。
 一度自覚した感情は、ちょっとやそっとじゃ消えてはくれない。やがて見ていられなくなるほど昂ってしまった激情に、自分自身が一番驚いている。
「はっ……え、ええと。とにかく怖いから――じゃない、危ないんだからね、もうここには近寄っちゃダメだよ」
「は……い。すみません……」
「わかればよろしい。じゃあ、出口まで案内するね。あなたはハクタイの子かな?」
 ゆっくりと立ち上がり、土や草を払いながら問いかけてくる彼女にこくこくと頷く。うまく声が出ない。今までとは違う意味で、この喉は言葉を発せられずにいる。
 ライチュウに足をつつかれても満足に受け答えが出来ないまま。迷うことなく突き進む彼女の背を追っている間も、とうとう頬の熱が冷めることはなかった。

2021/10/07