こころに触れる

「――高科先輩。お誕生日、おめでとうございます」

 それは、なんてことない夜のことだった。
 寮の中庭で夜風に吹かれている高科へ、雛杉がそっと声をかけたのである。星のさやけさを邪魔しないよう、つとめて静かな語り口で。
 なぜならば、今日は六月十四日。目の前にいる、高科更文の誕生日なのだ。

「なんだ、通か。あんがとな、わざわざお祝いしてくれてサ」

 ゆるりと夜闇のなかから現れた雛杉にも、高科はいつもどおりの緩い笑みで応える。動じる様子はいっさい見せない。
 月明かりに照らされる横顔が、ゆっくりと雛杉のほうを向く。やがてその光は高科の深緋へと映り込み、妖艶な色を湛え始めた。
 その独特の色香に目が離せなくなった頃、高科は形の良い唇をにんまりと緩めて、雛杉にカウンターを仕掛けてくる。

「けどサ、誕生日っつったらお前もそうじゃなかったか? 確か、俺と同じ日だったろ」
「え――」

 どうして、ご存知なんですか――次ごうとした言葉は喉の奥に引っかかって、結局いっさい外に出ることを許されなかった。
 予想外の言葉を吐く高科に、雛杉のほうが虚をつかれる。どうして彼は自分の誕生日を知っているのだろうか、今までほとんど口にしたことはないのに、何故――きちんと訊ねたいのに、そうするのは悪手のような気がして声が出ない。
 水面下で狼狽える雛杉を察して否か、高科は畳み掛けるように話しかけてくる。

「なんで知ってんだ、って顔だな。確かに、おまーのつるんでるやつらは誕生日なんて訊いてきそうにねえし」
「は、はい……白田たちは、そういうことを気にする質ではないので」
「だろうな。……まあ、俺も別に確信があって言ったわけじゃあないんだが――」

 言いながら、高科はくっと顔を上げて満天の星空に目をやった。視界いっぱいに広がるそれは、ユニヴェールの立地のせいか少しだけ近いところにある、ように見える。
 澄んだ空気と、きらめく星々。思わずため息が漏れそうなほど、その景色は美しい。
 そして、星空を眺める高科の横顔も、それに負けないくらい、淑やかに輝いているように見えた。

「お前は、なんとなくそうかもなと思ったんだよ」

 しみじみと、何かを感じ入るように高科は言う。相変わらず落ち着き払ったままに、星の光を浴びながら。
 美しい、はずなのに。なぜだかどうにも見ていられなくなって、「失礼します」とだけ断りを入れてその場を去った。
 否、本当ならもっとずっと見ていたかったのだけれど、居たたまれなくなってしまったのだ。ここに立つのが怖かった。これ以上、おのれのなかに潜む“それ”に触れられるのが恐ろしかった。
 怖くて、怖くて、逃げたくて。無意識にどんどんと早足になり、ついにと小走りを始めた足は、やがて吸い込まれるように部屋に戻る。大げさに揺れる肩を震えながら抱きしめて、ドアにもたれたままその場に座り込み、やっとの思いで息を吐く。
 その、かすかに漏れたため息が憐れなくらいに“女”のそれで、雛杉はおのれの不甲斐なさに、思わず涙が出そうになった。

 
  ◇◇◇
 

「……ちょっと、やりすぎちまったかね」

 よもや、あそこまで過敏に反応するとは思ってもみなかった。
 高科から見た雛杉は、カイに負けず劣らず静かで、感情をなかなか表に出さず、どことなく掴みどころのない人間という印象だったのだけれど――今日、それを改めなければいけないことを理解する。
 彼は……否、彼女は。触れてみれば意外と脆く、つつけば壊れてしまいそうな危うさも持ち合わせているようだ。

「けど、まさか誕生日まで同じとはね。こいつぁ、いよいよ他人と思えなくなってきたな」

 ちょっとした出来心だった。カマをかけてやっただけだ。入学当時から感じている謎の“縁”を手繰る、なけなしの手がかりになるかもしれないと思い、それとなく話を振ってみただけで。
 なのに、雛杉の反応はあからさまだ。……あれではまるで、本当に。

「……ま。まだ一年あるし、そこまで結論を急ぐつもりはねえけど」

 雛杉が女であることなどは、とうの昔に気づいている。希佐と同じく、体の動き、所作、それから発声に女性独特のそれを感じたから。演技指導の一環として、“女”としての雛杉に触れたことだってある。
 とはいえ、ユニヴェールには女よりも女らしいやつなんてごまんといるし、別に傍目で綻びを感じるほど拙い男装なわけでもない。それこそよくコンビを組んでいる白田のおかげで、“彼女”は巧く“彼”として存在していられるだろう。
 しかし、しかし――なぜだか、それだけではないような気がしている。雛杉通という人間には、それ以上の何かがある。もしかすると、高科更文という人間の何かにヒビを入れるような、大きすぎる爆弾を抱えているのかもしれないと、そんなことばかり思うのだ。

「思ったより、目が離せねえやつってこったな」

 おおきく深呼吸をして、痛めない範囲で思い切り肩をまわして。ユニヴェールのだだっ広い星空を眺めながら、高科は独りごちるのだった。

 
二日遅れの誕生日おめでとう
2022/06/16