三度目の正直

「犠牲」を視野に入れた頃から、ずっと脳裏に染みついて離れなかったものがある。数多あるそのなかのひとつこそが、他でもないダーリヤの存在だった。
 置いていかれてしまった自分にも、置いていく存在ができてしまった。置いていかれる者の苦しみを、他でもない自分を理由に他者に味わわせてしまうことが、正直なところ、怖かった。
 しかし幸いなことに、彼女が「友人」の死を知る瞬間などはきっとこの先一生訪れないと、アベンチュリンは確信していた。なぜなら彼女は閉じられた世界の住人で、制限されたネットワークのなかで日常を送っているからである。あのバールのことだから、世間知らずの愛娘が悲しむことなどないようにと、知人の訃報なんてものはいっさい耳に入らないよう細工をしてしまうはずだ。
 だから、彼女がアベンチュリンの死を悲しむようなことはない。彼女のことは、彼女を何よりも大切に思う人間が――それこそバールという父親が、きちんと守ってくれるはずだから。
 何も知らされないままの彼女は、あの閉塞した屋敷のなかでアベンチュリンの来訪をただひたすらに待ちつづけるのだろうが――「死」という悲しみに暮れてしまうよりは、きっとそちらのほうがいい。知らぬが仏、言わぬが花という言葉もこの銀河には存在する。
 この一件で痛みを負うのは、彼女を置いていってしまう自分だけで充分だ。

(けれど、どうやら僕はただそれだけのことが耐えられなかったみたいだね)

 未練なんてものは抱えるべきじゃないのに、それが胸の奥に咲くのをとめてくれるものなんて、どこにもありはしなかった。ダーリヤは今もアベンチュリンの胸のなかで息をして、まばゆい笑みを浮かべている。それは喜びや慈愛という優しい形をしていて、いつまで経っても曇ることなく、一瞬たりとも揺らぎはしない。
 瞬きの合間に感じるその光は、やがてアベンチュリンにちいさな後悔を植えつけた。
 ――こんなことなら、一度くらいはあの腕に抱かれて眠っておきたかった。
 ――あの懐かしい音をした名前を、何度でも呼んでやりたかった。
 ――二度と消えやしないその笑顔をもっと深いところに刻みつけて、永遠のものにしたかった。
 生きているという事実に縋っていたのは他でもない自分自身で、「虚無」の一太刀を受けたその瞬間から、彼女に会いたくてたまらなくなった。
 自覚してからはもう手遅れで、それが収まる気配なんかはとうとう訪れないままだ。その程度はアベンチュリンの想像を遥かに上回っており、あのとろけた声を聞きたいあまりにピノコニーでの諸用をさっさと済ませたうえ、こうして足早に彼女のもとへと向かいはじめる始末である。
 彼女との「約束」を果たすため、アベンチュリンはいつになくしっかりと、地面を踏みしめて歩いている。柄にもなく気分が浮ついているのか、我ながら足取りも軽やかだ――今日という日に目に入れたロードナイトは前回より輝かしく見えて、まるで戦士の凱旋を祝うかのように微笑んでいた。

(こんなはずじゃなかったのに――なんて、往生際が悪いかな)

 アベンチュリンは慣れた手つきで応接間の扉をノックし、それを思い切り押し開く。扉の隙間から差し込んだ光は目を焼くように鋭くて、彼の祝福に満ちた双眸をそっと眇めさせた。
 まばゆい光の真んなかでは、恋しくて仕方なかったその人が弾かれたようにこちらへ目をやっている。

「ん……あら、アベンチュリンさ――!?」

 懐かしいその居姿を目にした途端、体が勝手に動いていた。背丈の変わらない彼女のことを、まるで存在を確かめるかのように思いっきり抱きしめてやる。初めて腕のなかに閉じ込めた体は想像していたより何倍も柔らかくて、ホットミルクでも口にしたときのような安堵のため息が漏れた。
 突然のことに面食らっているらしい彼女のことなどお構いなしに――気にする余裕がないとも言うが――アベンチュリンは腕の力を緩めることなく、その感触を味わいつづける。
 あんなにも毒だと思っていた安らぎが、面白いほどに心地よい。腹の底まで染み入るような彼女の空気に包まれて、今にも眠りに落ちてしまいそうなくらいだ。

「え……えっと、どうしましょう、お仕事で何かあったのかしら……ねえ、アベンチュリンさん――」
「――シャ、だよ」
「え?」
「『カカワーシャ』。それが、僕の名前だ」

 いちばん近くでそうささやくと、ダーリヤがその身をわずかに強張らせたのが伝わってきた。
 何か粗相でもしたのかと思いはしたが、その硬直もすぐに弛緩する。しばらく様子をうかがっていると、やがて柔らかく冷たい手のひらがそっと背中にまわされた。気を遣うようでも宥めるようでもあるその動きは今までで一番やさしく感じられて、アベンチュリンのまばたきをことさらゆっくりしたものに変える。

「……カカワーシャ。カカワーシャ――ああ、カカワーシャ! そうなの、とっても素敵なお名前だわ」
「うん……」
「わたし、あなたのお名前も大好きよ。すごく落ちつく響きをしてるものね」

 はにかむような声が耳にとろりと滑り込むのを感じながら、名残惜しくもその身を離す。
 特別な理由などはない。ただその顔を――エヴィキンの瞳を見ながら、伝えたいことがあっただけだ。

「僕も同じだよ、ダーリヤ。僕も……そう、君の名前がとても好きだ」

 伝えるや否や、ダーリヤはとびきりの笑顔を浮かべて弾けるように抱きついてくる。前回までならさっさと引き剥がしていただろうが、今回ばかりはそれを拒む理由もない――彼女の一挙一動をしっかりと噛みしめて、再会の喜びや存在の実感を、ひたすら味わうのみだ。
 本当は、ずっとこうしたかったのかもしれない。無二の感触を目いっぱい噛みしめながら、アベンチュリンはそっと目を閉じた。

 
  ◇◇◇

  
 何かを思い出したらしいダーリヤが唐突に身を離したのは、果たしてどのくらい身を寄せ合っていた頃だろう。
 困惑を滲ませた表情でこちらを見る彼女が、どこか迷うように口を開く。唇の繊細な動きをぼんやりと見つめながら、その声に耳を傾けた。

「あのね、カカワーシャ。わたしったらすっかり忘れていたのだけど、あなたの言っていたお願いっていうのはいったい何なのかしら」
「お願い……?」
「もう! 名前を教える代わりにお願いをひとつ聞いてくれって、言い出したのはあなたのほうじゃない」

 ぶすくれたように頬をふくらませる、その仕草すらやけに愛らしく見えた。未だぼんやりした頭のまま、アベンチュリンは彼女の問いについて思案をめぐらせる。
 お願い――ああ、そういえば。前回の賭けを拒まれた際、そのような交換条件を提示していたか。
 正直に言えば、この屋敷に足を踏み入れるそのときまで、何も思いついていなかった。否、正確には考えていたことのすべてが飛んでいったというべきか――本当なら、もう二度と会いには来ないとか、僕のことは忘れてくれとか、そんなことを言うつもりだったのだ。
 どれだけ彼女を実感しても心の隅には恐れがある。自分と一緒にいることで、彼女までも失ってしまうのではないかと。彼女もまた自分の「幸運」の犠牲となって、自分一人だけが生き残って、今度こそ自分は独り、今まで以上に後がなくなってしまうのではないかと――
 しかし、そういった葛藤を溶かすのもやはり彼女であるのだ。彼女を目にするといっさいが吹き飛ぶ。柔らかな指の動きひとつで、アベンチュリンのしみったれた思考回路などは一気にゆるくとろけてしまうのである。
 これがエヴィキン人のなせる技――否、ダーリヤという人間の持つ、無二の魅力なのだろう。

「そうだな……実は今、久々の休暇を楽しんでるところなんだ。君がよければだけど、休暇のあいだ、しばらくここに滞在させてくれないかな」
「まあ! そんな、いいの? わたしがお願いを聞く番なのに、まるでプレゼントをもらった気分だわ」
「うん。僕も、もう少し君と一緒にいたくてね」

 一緒にいたいという願いを、彼女はきっと叶えてくれるだろう。
 あと少し――もう少しだけ、その腕のなかに抱かれていたい。懐かしい音をしたその名前を、あと何度かだけ呼んでしまいたい。きらめく笑顔のそのすべてを、この魂に刻みつけたい。
 今だけは、この薄まった刃をしまい込んで、ただの子供に戻りたい。そう思わせるだけの力を、彼女はずっと、持っている。

「嬉しい……っ! わたしね、あなたに話したいことがまだまだたくさんあるのよ、カカワーシャ……!」

 彼女の興味関心のいっさいを請け負うような気持ちで、アベンチュリンは再びダーリヤの柔らかい体を抱きしめた。
 いつか訪れるであろう別れが、永遠の別離でないことを祈りながら。生きている彼女に言うための「さよなら」の練習だけして、アベンチュリンは祝福に満ちたその瞳を閉じる。
 
 そうして柔らかな暗闇に身をたゆたわせながら、うっすらと考えることがあった。
 ――僕は、やはり賭けに勝っていた。何よりも誰よりも確かなかたちで、自分すら気づかない間に勝利を手に入れていたのだ。
 なぜなら僕は、「ダーリヤ」というかけがえのない■■を、ようやっと得ることができたのだから。

 
2024/05/25