今すぐにでもこの首を

 正直なところ、彼女には二度と会いたくないと思っていた。
 決して嫌いなわけではない。ただ、彼女の近くにいると様々なものがぐらつく気配がするのだ。無二に等しい同族はアベンチュリンに苦痛ばかりを連れてきて、やがてそれは苛立ち――否、やるせなさというかたちで頭をもたげるようになった。
 彼女の笑顔を見るだけで、後ろ暗い迷いが湧き上がってたまらないのだ。
 それなのに、なぜだかこの両足は再びあの屋敷へと向かって動き出してしまう。戦略投資部の激務の合間、まるで誘われるように彼女の元を訪れる。近々ピノコニーでの大きな案件も控えているというのに、「賭けの答えを知りたい」なんてもっともらしい言い訳を携えて、憐れな鳥のごとく自ら牢獄を目指してしまうのだ。
 きらめくロードナイトを目の端に映すたび、弱いおのれを改めるようでひどく苦々しい気分を味わわされる。……すべては、自業自得だというのに。

「アベンチュリンさん! 嬉しいわ、また会いに来てくれたのね!」

 アベンチュリンの葛藤なんて素知らぬ顔で、ダーリヤはいつも彼の来訪を喜び、心からの感謝を伝えてくる。
 エヴィキン人特有の蜂蜜色と、煌めくような双眸。彼女を同族だと認めたくないくせに、悲しいかな、その振る舞いのすべてが彼女がエヴィキン人であることを証明してくるようだった。
 理解するのが怖いから、「そんなはずない」とずっと目をそらし続けているのだけれど――
 
(……嫌なものだな。この笑顔ひとつで安らぎを覚えてしまう、そんな自分を自覚するのは)
 
 こんなところで安らいでなんかいたら、それこそもう二度と家族に会えなくなってしまうかもしれないのに。まるでぬかるみにでも足を取られたような心地で、アベンチュリンはじっとダーリヤのまばゆい笑顔を見つめていた。
 目先の平穏に囚われて、おのれの腹の底にある薄まった刃が、目的が、野望が、痛みが、とろけていくのが怖かった。彼女の笑顔は沼のようにこれらすべてをすっかり溶かして、アベンチュリンが長らく詰まらせていた呼吸をすっと通してしまうのだ。
 ――絆されているのかもしれない。やるせなさと羨望の合間で、自分は今日も揺れている。

「さっきまで、近くの星系を彷徨いていたんだ。だから、休憩がてら顔を見に来たんだよ」
「まあ、嬉しい! わたしね、あなたが来てくれるのをずっと待っていたのよ――」

 言うや否や、ダーリヤはなんの恥じらいもなく思い切りアベンチュリンに抱きついてくる。惜しみなく押しつけられる豊満な体がアベンチュリンの心を揺らすことはなかったが、いくら血の繋がっていない秘匿された存在とはいえ、元カンパニー役員のご令嬢がみだりに異性に抱きつくのはよろしくない。
 アベンチュリンが優しくその身を剥がすと、ダーリヤはこてんと首を傾げてこちらをじっと見つめてきた。蠱惑的な所作だ。

「君は、どうして会うたび僕に飛びついてくるんだい」
「あら、そんなの簡単だわ。大好きな人とふれあいたいと思うのは当然ではなくて?」
「君ねえ……自分のことを子供か何かだと思ってるのかな? 未成年ならまだしも、いい年した大人がこんな真似ははしたないよ」
「アベンチュリンさんは、わたしのことが嫌い?」
「今はそんな話をしてるわけじゃ――」
「わたしね、あなたのことが好きよ。友だちとしても、異性としてもね。だから、あなたにも同じようにわたしのことを好きになってほしいの。こうして抱きつくのは、その気持ちの表れかもしれないわ」

 もちろん、無理強いはしないけどね――そう言いながら、ダーリヤは再びアベンチュリンにそっと身を寄せてくる。先立ってよりもいくらか大人しいふれあいだったが、そこに込められた真意を知ってしまった以上、彼女の肌は重苦しくアベンチュリンの心中をかき乱した。
 ――こんなふうにまっすぐ気持ちをぶつけられるのは初めてだ。アベンチュリンにとって、他人からの接触といえばもっと下卑た欲望が渦巻いているものだった。粘着くような視線と共に穢らわしい真似をさせられたことなどそれこそ数え切れないほどにある――未だ忘れられないあの日々の記憶は、確かなかたちでじっくりとアベンチュリンのことを蝕んでいた。
 だからこそ、こうしてまっすぐ感情をぶつけてくるダーリヤへの戸惑いがある。彼女の振る舞いを見ればそこに下心や嘘がないことは火を見るよりも明らかで、まるでこの身を鷲掴みにするような痛みがアベンチュリンを襲った。
 ……これだから嫌なんだ。こうであるからこそ、彼女に会いたくないと思ってしまう。まっすぐに、ひどく善良な愛をぶつけられることは、それを知らない人間にとっては何よりも恐ろしいものだ。
 アベンチュリンには、このまっすぐな生物が光をまとった怪物に見えて仕方がない。

 
  ◇◇◇

  
「それじゃあ、僕はそろそろ帰るよ。近々大きな案件があってね、そのための『準備』が必要なんだ」

 不覚にもくつろぎ始めたその身を律して立ち上がる。隣に座り込んでいたダーリヤはきょとんとしながら何度も瞳を瞬かせていて、その仕草は他人を魅了するに充分すぎるものだ。
 品の良いスカイブルーのソファの上にある彼女は、まるで瞬きを切り取った一枚の絵画のようにも見える。

「やっぱり、カンパニーの幹部ともなるとお忙しいのね。どうか、帰り道には気をつけて」

 ――いつもこうだ。彼女は再会をあんなにも喜ぶくせに、別れを惜しむ素振りはいっさい見せたことがない。
 純粋でまっすぐだからこそ、こうしたときは涙を流して引き留めてくるものだと思っていたが――彼女という人間は、どうやらそう簡単に読み解けるものでもないらしい。

「君は、別れが淋しいと思ったりはしないのかい?」

 口をついて出たのは常日頃からの疑問だった。しかし、これではまるで「自分は淋しい」と伝えているようなものではないか。
 彼女のそばにいると変に気が緩んでしまうのか、こうして腹の奥に押し込んだ言葉がまろび出てしまうことがある。口を覆っても今さら意味はないのだが、反射的に動いた手のひらを口元からそっと目元へ移動させて、アベンチュリンは小さくため息を吐いた。
 出してしまったものは仕方ない――そう思い直して、ダーリヤの様子をうかがう。彼女は相変わらずきょとんとした顔のまま、こちらをじっと見つめていた。その目元が微笑みを形づくるのを待つように、アベンチュリンの目は彼女に釘づけとなっている。

「だって、わたしが――『わたしたち』がいくら淋しがったって、結局別れは避けられないわ。あなたを引き留めることもできないでしょう?」
「それはそうだけど、」
「だったら別れを惜しむより、あなたが一緒にいてくれる『今』に感謝したほうが建設的だと思わない? あなたとの時間をたくさん噛みしめて、味わって……そして、また次の再会を待つの。そうしたら、今日のお別れは次の再会のためにあるんだって、そのために生きていこうって思えるものね」

 ささやくような声が、耳からゆっくりと滑り込んでくる。それは胸の奥のうっすらとした「何か」を柔らかく掴んで、アベンチュリンの足をみっともないほどに震わせた。
 これ以上こんなところにいたくない。そう思わせるに充分なだけの激情を、その声はまとっていた気がした。そのまま踵を返そうとしたアベンチュリンの背中を、ことさら静かな声がしっとりと引き留める。

「ねえ、アベンチュリンさん。わたしからも質問していい?」

 ごくり。謂れのない緊張感を飲み下しながら、アベンチュリンは振り返る。

「答えられるかどうかは内容によるけど……いいよ、どうしたんだい」
「わたしね、気づいたの。あなたの名前を教えてもらってないって」
「は、随分と変わったことを訊くんだね? さっきも呼んでたろ、『アベンチュリンさん』って――」
「そうじゃないわ、あなたの本名の話よ。わたしが知りたいのは、カンパニーのコードネームじゃない……」

 再び、けたたましい警鐘が鳴り始める。此度のそれはおそらく防衛本能に近しいもので、彼女が距離を詰めようとしてくる、その行為こそを恐れている。
 その双眸はまっすぐに、ひたすらの好意で塗り固められた色をしている。美しいエヴィキン人の瞳。ツガンニヤの色。地母神への祈り。複雑なグラデーションがアベンチュリンの目の前で揺らぎ、瞬きと共に色を変える。
 しかし、まだそれを受け入れるわけにはいかない。その瞳に映り込むべき日は、きっと今じゃない――

「……次に会えたら、かな」
「え?」
「賭けをしよう。僕たちがもう一度会えるかどうか。君の言う『別れの次にある再会』が僕たちにも待っているかどうか、確かめてみようじゃあないか。僕はこの名前を賭けるから、君は――」

 不自然に言葉を切ったのは、ついぞ見たことのない光景をその目に映してしまったからだ。目の前にあるダーリヤのかんばせが、不器用なほどに歪んでいる――それが怒りによるものなのか、それとも悲哀に由来するものなのかはわからない。ただ、恐怖とはまた別の趣で、アベンチュリンの足元をわずかにぐらつかせたことだけは確かだった。

「アベンチュリンさん。わたし、『賭け』なんてものほしくないわ」
「――」
「そうね、どうせならもっと優しくて確実なものがいいかしら。たとえば――そう、約束とかね」

 どうかしら? とダーリヤが問うてくる。
 応えてやりたいのは山々だが、しかし、アベンチュリンにとって「約束」はひどく重たくて苦しいものだ。
 約束なんてものは、賭けよりもずっと脆くて強固である。それがいつまでもつきまとう足かせとなり得るものだということを、彼はよく理解していた。耳の奥、何度も聞かされた姉の言葉が木霊する。
 それでも、この言葉のいっさいを撥ねつけることができないのは――彼女が無二の同族である事実を、もうすぐ認めそうになっているせいかもしれない。

「……わかったよ。“次に会えたら”、僕は君に本当の名前を教えてあげる。その代わり――」
「なあに?」
「君も、ひとつだけ僕のお願いを聞いてもらうよ。お願いの内容は……そうだね、それこそ次の再会のときに話そうか」

 アベンチュリンの提案に、ダーリヤは怪訝そうな目を向けながらも頷いた。
 彼の脳裏にはずっと、彼女の言動が焼きついて離れない――微笑みではないその表情がこんなにも強く刻みつけられるだなんて、誰が予想できただろう。
 まるで彼女もただの人間なんだという事実を叩きつけられた気がして、今すぐにでもこの首を絞め上げてしまいたくなった。

 
2024/05/22