釣り糸の向こう側に

 ぽちゃん。あからさまな音を立てて落ちくれた釣り針に、背後に控えていたタルタリヤが肩をすくめたのがわかった。集まっていた魚たちは突然の無法者によってさっと四散し、目の前にはただひたすらの静寂が残るのみである。
 ――失敗だ。この結果が良くないものであることくらい、まったくの初心者であるミラにもわかった。しかし、予想外にもタルタリヤからの注意らしい注意は飛んでこないようである。彼は何も言わずにミラの隣に腰を下ろし、同じように――否、ミラのそれよりずっと慎重に、釣り針を水面へと投げ入れる。

 ――ミラ、今日は俺と一緒に釣りでもどうだい? 大丈夫、やったことがないなら俺が教えてあげるから――

 そんな誘い文句につられたのはほんの数時間前のことだ。
 彼の出し抜けなお誘いにより、本日はフォンテーヌの片隅でゆったりと釣りに勤しんでいる。初めて見つめる水面はミラが思っていたより何倍も穏やかで、以前自分を飲み込まんとしたそれと同一であるようには思えない――あの日の末恐ろしさをふと思い出し、ぶるりと体を震わせた。
 雑念を振り払うようにまばたきをし、ちらりとタルタリヤへ目を向ける。彼は意外にもまっすぐと釣り糸を見据えており、想像よりもこの行為に没頭しているようであった。

「……タルタリヤ、こういう静かなのって好きじゃないと思ってた」
「なに、俺がいつも騒がしいから?」
「べつに、そういうわけじゃないけど――」

 刹那、脳裏をよぎるのはかつて向けられた冷たい視線。暗がりの記憶のなか、ぼんやりと光る真っ青なそれだ。
 停滞を嫌った彼の瞳。スネージナヤの堅氷のごとく冷え切ったその色が、ミラは何よりも怖かった。
 あのときタルタリヤの関心が一瞬にして消え去ったのは、てっきり彼がそういった静かなものを嫌うからだと思っていたのに。どれだけ近くにいたってわからないことだらけだと、半ば諦めのようなため息が口から漏れる。

「習慣なんだよ、ある意味でね。昔は父さんと一緒に氷上釣りをして、色んな話を聞かせてもらったりしたもんだ」

 遥か遠くを見る彼の瞳――フォンテーヌの空、もしくは広がる海原にも同化しそうなその色は、わずかな不安を湧き上がらせるに充分すぎるほどだった。

「でも、今はそうじゃない。あの日の父さんと同じように、今度は俺が物語を聞かせる側にまわるのもいいけど……ただ、俺がミラに求めているのは、もう少し違うものなんだ」
「何それ……もったいぶって教えない気?」
「アハハ! まあまあ、そんなに焦らないで。でも……そうだね。せっかくだし、答えはミラ自身に見つけてほしいかな」

 刹那、ミラの釣り糸が強く何かに引っ張られた。突然のことに体が傾ぐのをすんでのところで押さえ込んで、まるで水面の向こうの宿敵と語り合うごとく、借り物の釣り竿を操ってみる。
 普段の戦闘とは違う種類の高揚感。血湧き肉躍るといった感覚に、ミラは一瞬で夢中となってしまった。
 結局、もう少しのところで宿敵には逃げられてしまったのだけれど――遠ざかっていく魚影を見送りながらも、やはりタルタリヤは叱るような素振りなど見せない。やさしくアドバイスをしてくれるその様子は、まるで釣り糸の先にある「獲物」なんて眼中にないように見えた。

「じきにわかるよ。なんたって君は、俺がこの手で育て上げた立派な戦士なんだからね」

 自信に満ち溢れたその笑みを前にして、ミラの胸中はちいさな悔しさであふれた。この精神はタルタリヤによって鍛えあげられたもののひとつで、かつて故郷でのんびりと暮らしていた頃にはいっさい知らなかった感情だ。

「べつに、教えてもらいたいなんて思ってないし……!」

 ふん! と思い切り鼻を鳴らして、ミラは再びその場に座り込む。次の獲物を――否、「釣り」という行為の向こう側にある、タルタリヤの真意を見つけるために。その先にある彼の意志を、今すぐにでも感じたかった。
 タルタリヤの真似をして、注意を払いながら釣り針を放ってみる――先ほどよりも静かに海中へ潜ったそれを、彼はどこか満足そうに眺めていた。その視線はまるでかつての「兄」のようで、安心感と悔しさで心をひどくかき乱しながら、ミラはいやに静かな水面へと、再び意識を集中したのだった。

 
2024/05/19