「俺たちの目が、いつまでも同じところを見ていられるように。」

 フォンテーヌに入ってから、果たしてどれほどの時が経った頃だったろうか。あの性格を考えれば当然だが、早速この国での休暇に退屈しはじめたタルタリヤは、「決闘代理人」という響きにすっかり夢中になってしまっていた。
 彼は事あるごとにホテル・ドゥボールを飛び出し、決闘代理人との手合わせを求めに行ってしまう。もちろんいくら休暇とはいえ四六時中一緒にいる必要はないし、自由時間があること自体はいっさい否定しないけれど、タルタリヤが自分以外の人間に夢中になっているという事実は、じわじわと、けれども確かにミラのことを蝕み続けていた。
 ……わたしじゃ、満足させられないんだ。その現実を突きつけられるたび、ミラはホテルのふかふか枕に顔を埋めて唸っていた。

『しかし、肩書きなんて名ばかりだね。こんなことなら、君と手合わせしていたほうがよっぽど有益だったよ』

 ――そんなふうに思うなら、わたしを放っていかないでよ!
 ベッドの上で唸るたび、脳内にはタルタリヤの声が木霊する。それは何気ない記憶が大半だが、今日は決闘代理人絡みの会話が主であるらしい。
 
『明日の相手はもう少し骨のあるやつだといいんだけど――』

 ――みんな弱っちければいいのに。そしたらきっと、タルタリヤはわたしのことを置いて行ったりしないから。
 ひどく自分勝手で利己的な恨み言ばかりが、真っ白な枕に吸われていく。
 
『聞いてくれ! ついにあのクロリンデと戦うチャンスを得られそうなんだ! ああ、やっと面白くなってきた……!』

 最強の決闘代理人、クロリンデ――それは、ミラがこの旅行で一番最初に覚えた名前だった。
 理由としては他でもない、タルタリヤがその「クロリンデ」にひどく興味津々だからだ。
 戦いを求めてやまないタルタリヤは強敵を何よりも好んでいる。ゆえに彼がクロリンデに夢中になる理由も理解できるが、しかし、今まで退屈だった反動なのか、はたまたミラが敏感なのか、近頃の彼はとりわけクロリンデに心を奪われているように見えて仕方ないのだ。
 そうしてもやもやを抱えながらフォンテーヌ廷を歩いていると、悲しいかな、彼女の噂を至るところで耳にする。このフォンテーヌの司法に深く関わる決闘代理人、そのなかで「最強」と謳われる戦士こそが、あの「クロリンデ」なのだと。
 悔しいが、今のミラにタルタリヤの渇きを慰められるほどの実力は備わっていない。彼のもとで訓練を受け始めてから数年、昔よりはずいぶん強くなったと思うけれど、しかし、未だにミラは一度も彼に本気を出させたことがないのだ。
 自分の不甲斐なさに深いため息を吐き出しながら、ミラはぐるぐると思案にふける。タルタリヤがクロリンデを求める理屈だけならギリギリ理解できるが、納得は決してしたくない。なんだかどうにも気に食わないのだ。タルタリヤの関心をすっかり奪ってしまった彼女のことを考えると、青いため息は少しずつ苛立ちの色をふくみはじめる。

「……いっつも、他の女の話ばっかりして」

 あるときは「旅人」、またあるときには「女皇」の話。そして、今度は「決闘代理人」ときた。
 困ったことに、タルタリヤの周りには女の気配が数多くある。彼が浮気な人間だとはこれっぽっちも思っていないけれど、それはそれ、これはこれだ。これ以上新しい女の話題を仕入れられてしまったら、今度こそ嫉妬で狂ってしまうかもしれない――一人で悶々と考え込んでいると、そういった破滅的なことばかりを考えてしまう。
 深く愛されていることはわかっているし、自覚もある。ただ、それでも彼のことを信じきれずに他人を妬んで仕方ない、そんな自分こそが一番醜いと、わかっているはずなのに。
 ホテル・ドゥボールの窓から見るフォンテーヌの街並みは、想像していたよりもなんだか淋しいものに見えた。

 
  ◇◇◇
 

 次に気がついたとき、ミラの世界は闇色に染まりきっていた。
 取り留めもないことを考え込んでいるうち、うっかり眠ってしまったらしい。暗くなった室内で何度もまばたきをしながら、今度は悲嘆に満ちたため息を落とす。その吐息は妙に震えていた。

(まだ帰ってきてないんだ。わたしのこと、ほったらかしにして……)

 帰ってきたら一回大暴れしてやろうかな。そうすればタルタリヤも退屈しないし、わたしも鬱憤を晴らすことができる。物騒な計画を練りながら体を起こすと、まるで人感マシナリーでも働いたかのようにぱっと部屋が明るくなった。
 突然の光に思わず目を眇めると、半開きになったドアの向こうに馴染み深い人影があることに気づく。上着を脱いだラフな格好を見ると、なんだか自分に気を許してくれているような、妙な錯覚を起こしてしまう。

「……帰ってたんだ」
「ああ、少し前にね。ただいま。……ごめんね、起こしちゃったかな」

 見慣れた人懐っこい笑みを浮かべたまま、タルタリヤはすたすたとミラのもとへ近づいてくる。その手には真新しい花瓶が握られており、透明感のあるオレンジ色をしたそれには、このフォンテーヌでのみ咲く珍しい花が活けられていた。

「せっかくだし、君に何か花でも贈りたくてさ。帰り道で花屋をハシゴしてたらこんなに遅くなってしまったよ」

 ごめんね、と付け加えながら、タルタリヤは花瓶を丁重に運び、枕元の棚へと置く。すれ違いざまに香った芳香はひどく優しくて、それだけでこのもやもやした心中を洗ってくれるようだった。
 まるで水元素で形作られたような、どこまでも澄み切った青い花。「待ち望む」「永遠の約束」といった花言葉を持つそれを、ミラはよく知っている。

「どの花にしようか迷いに迷って、結局これに決めたんだ。どうしてもこれを――湖光の鈴蘭を、君に贈りたくってね」

 花瓶のなかでちいさく揺れるそれに目をやる。瑞々しい花弁を眺めていると不思議と落ちつく気がするのは、この花の持つリラックス効果がそうさせるのか――もしくは、タルタリヤの絡む「水」が、彼女にとって安堵の象徴であるからだろうか。
 海は嫌いだ。テイワットを取り巻く大海原も、このフォンテーヌを囲むそれも。しかし、タルタリヤのもたらしてくれる水だけは、ミラのことをひどく安らいだ気持ちにさせてくれる。
 水花に夢中になっているミラのことを、タルタリヤは水面のように揺らめいた、優しい瞳で見守っていた。彼が口を開いたのは、ミラがその視線に気づいてからだ。

「ところで、このフォンテーヌでは花言葉が流行っているそうじゃないか」
「タルタリヤ、そんなの興味あるの? ちょっと意外なんだけど」
「ハハッ、どっちだと思う? ……なんて、そんなふうに焦らすのは俺らしくないか」

 肩をすくめて笑いながら、タルタリヤはベッドに腰かける。そうして、未だぐずつくミラの隣に落ち着き、まるい頭をゆっくり撫でた。愛でるようなその手つきは、タルタリヤがたびたび行ってくる愛情表現のひとつだ。

「ま、花言葉に関しては俺よりも君のほうが詳しいと思うから……なら、この花にまつわる『言い伝え』はどうかな?」
「言い伝え?」
「そう。花屋の主人いわく、この花にはずいぶんロマンチックな逸話があってね――細かい成り立ちは省くけど、とにかくこの国では、旅立つ人への餞としてこの花を贈る風習があるんだってさ」

 ふと、タルタリヤの指の動きが止まった。怪訝に思い彼の顔を覗き見ると、光を失った双眸の奥にらしくない「不安」の欠片が散りばめられている気がして、思わず体が強張ってしまう。

「生憎、俺は『永遠』なんてものに興味はないけど……俺たちの目が、いつまでも同じところを見ていられるように。そして、いつか俺たちが離ればなれになったとしても、君が迷うことなく俺のもとへ帰ってこれるよう願いを込めて、この花を贈るよ」

 ――なんて、いよいよ俺らしくないかな?
 からりと笑っているはずなのに、その笑顔の裏側には深淵が広がっているようだった。少しでも手を伸ばせばたやすく飲まれてしまうような、深く、遠い暗がり。その冷たさと恐ろしさがタルタリヤの足元から伸びている気がして、ミラは思わず息をのむ。
 しかし、だからといってミラがタルタリヤに触れることをやめたりはしない。……何年も前に決めたのだ。何があっても、どうあっても、絶対にタルタリヤについていくと。
 ゆえに、ミラは迷わず手を伸ばした。おのれを撫でる手のひらを追い越し、たくましい戦士の腕を掴む。些細な力はタルタリヤほどの武人なら簡単に振りほどけてしまうだろうが、彼にそうする気配はない。

「……ばかみたい。わたしがタルタリヤのそばを離れるわけないじゃん」
「ミラ――」
「でもいいよ、もらってあげる。ついでに、決闘代理人に夢中になってわたしのことを放ったらかしにしたことも、これでチャラにしてあげようかな」

 ゆるりと身を寄せながらそう言ってのけるミラに、タルタリヤは目を丸くする。気づけば先ほど覗いていた深淵の気配は消え去っていて、そこにあるのは相も変わらずに深海じみた、あどけないだけの双眸だった。

「……ほんと、君には敵わないね」

 思わず破顔しながら、タルタリヤはミラのことを思い切り抱きすくめてくる。体格差や膂力差によってそれはもはや肉でできた檻のようだったが、不思議と悪い気はしない。むしろ心地の良い体温と匂いによって、ひどく安らぐ気さえした。

「ねえ……ミラ、いい?」

 ほんの一瞬体が浮いたかと思えば、再びシーツの海へとその身を縫いつけられている。頭上にはどこか切羽詰まったような、縋るようでもあるタルタリヤの顔があって、逆光で独特の色香を放つその姿を、ミラは拒むことができなかった。
 彼から逃げるつもりなんて毛頭ないけれど、今はひときわ、彼を受け止めたいと思った。理由はちっともわからない――きっと、この先になるまで答えは出ないのだろうと思う。
 火照りの欠片を宿した、タルタリヤの頬に触れる。指の運びで了承を示してやれば、安堵を秘めた笑みをこぼすタルタリヤのくちびるが、すぐそこまで迫ってくる。

「愛してるよ、俺のミラ。……本当に、君がいてくれてよかった」

 そのささやきの真意を読み取れるのは、きっとまだまだ先の話だ。

 
2025/03/03

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