――ああ、ちょうどよかった。君に伝えておきたいことがあったんだ。
常人ならば身構えてしまうであろうディルックの言葉を、ハーネイアはいっさいの緊張を孕むことなく受け取った。
理由は大したことではない……もちろん、「ディルックさんはいつもわたしに優しいから」なんて甘ったれたことを考えているわけでもない。ハーネイアが屋敷に住まうようになってから数年、ワイナリーの一員として、本格的に業務に携わりはじめてから数ヶ月。その間、彼から直にお叱りを受ける機会は幾度となくあった。
けれど、ハーネイアがディルックからのお叱りを嫌がることはない。なぜなら、叱られれば叱られるほど、彼が本気で接してくれていることを肌で感じられるからだ。
今回のディルックの言葉がマイナスなものではないと察せたのは、そういったやり取りの積み重ねがあるからだろう。
何より、この場が二人の私室であるという事実も大きいかもしれない。ディルックの手に帳簿のたぐいは握られておらず、その指先は端正なかたちの顎を撫でるばかりだった。
ハーネイアがいつもどおりに目を合わせると、ディルックはどこか安心したように気を緩める。きっとこれも、他人にはなかなか気づけない些細な変化なのだろう――否、彼は意外と顔に出る性質であるから、もしかすると案外バレバレである、かもしれない。
「少し前、一緒に花の香りがする酒を開発したのを覚えているか」
「はい、もちろん! 外国のお花を使うかどうかってお話してた件……ですよね?」
「話が早くて助かるよ。近頃、その酒の売れ行きが良くてね。七国の花を取り寄せるか否か、会議を重ねていたんだ」
ディルックは淡々と語る。近いうちにモンドを出て現地調査に向かう予定であることと、その調査にハーネイアを連れて行くつもりだということを。
静かだったはずの声色は少しずつ弾みを含みはじめ、彼が現地調査に向けて前向きに考えていることが伝わってきた。同時に、重要な職務に同行させてもらう喜びもまた、ハーネイアの心を奪っていく。
「少しだけ余裕を持って出発したいと思っているんだ。仕事のついでで申し訳ないが……そう、君との新婚旅行も兼ねてね」
ゆるりと目を細めながら話すディルックに、ハーネイアはひときわ声を弾ませる。「いいんですか!?」歓喜を帯びた問いかけに、ディルックは優しくうなずいた。
ハーネイアの瞳が爛々とした輝きを湛え出すと、ディルックの笑みはなおさらに濃くなり、ベレー帽ごとそのまるい頭をなではじめる。その手つきはいつにも増して優しさに満ちていて、彼の指先に呼応するかのごとく、ハーネイアの碧眼はひかりをまとい、夜空の星々にも負けないほどのきらめきを抱く。
「了承してくれてよかった。スケジュールの都合がついたらまた改めて話すから、楽しみにしておいてほしい」
「わかりました!」
意気揚々と返事をすれば、ディルックはうんと目を細めてうなずいてくれる。その何気ない仕草を目で追うだけで、ハーネイアの胸にはいっぱいの愛おしさがあふれてたまらない。
刹那、開け放った窓から爽やかな風が駆け込んでくる。軽やかなそよ風は祝福の香りを帯びていて、まるで風神バルバトスが背中を押してくれているようにも感じられた。
あたたかくて心地のいい、春の風だ。いっそう気持ちの良いこの時分の風が、ハーネイアはひときわ大好きだった。
「それじゃあ僕は仕事に戻るよ。……君なら心配ないとは思うが、旅行に気を取られて普段の業務がおろそかにならないようにね」
最後にハーネイアの頬を撫でて、ディルックは部屋を去っていく。ぱたん、と無機質な音を立てて閉まったドアを見送りながら、ハーネイアはほんの少しだけ熱を持った息を吐いた。
めちゃめちゃ遅くなってしまった……!けど、ディルックさんのお誕生日メールネタです。遅ればせながらお誕生日おめでとうございました!
2025/05/13
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