あれから、タルタリヤさんは前にも増してわたしのことを気にかけてくれるようになった。否、気にかけるというか、やけについてくるようになった、といったほうが正しいかもしれない。
……わかっている。彼の目に、わたしがどう映っているのかくらい。彼にとってわたしはただの「争いの種」でしかなく、彼が狂おしいほどに追い求めている闘争のトリガーそのものなのだ。
その事実は、自惚れそうになるわたしの意識をすんでのところで繋ぎとめてくれる。何度も咀嚼して、飲み込んでは吐き出して、喉を掻きむしって、わたしなりに受けとめたつもりだ。
傍にいることを許されるなら、別にもう何だっていい。その笑顔を向けてくれる、痛いくらいに眩しい日向に立たせてくれるなら、わたしはそれで満足だ。
……そう。それが、正解のはずなんだ。
話す機会が増えたおかげで、わたしは以前よりも深くタルタリヤさんのことを知るようになった。彼の話は多岐にわたり、スネージナヤの話はもちろん、ファデュイの職務に関してだとか――もちろん一般人に話していい範囲のことだと思う――、彼の敬愛する女皇陛下についてのことだとか。他にも彼のパーソナルな部分の話を、ここしばらくのあいだにパンクしそうなほど聞かされた。
そのなかでも一番の目玉といったら、彼が戦いを追い求める狂戦士であるというのが、紛うことなき事実なんだと確信を得られたことだろうか。だから先日わたしを助けてくれたときも、あんなふうにぎらついた目でこちらを見ていたのだろう。
知れば知るほど、彼はどこかがおかしく……掴みどころのない、稀有な性質を持っている人なのだと実感する。そして何より、わたしたちが普通に生活していればこんなふうに親交を深めることもなかった、違う世界の住人であるということも、ここしばらくで何度も突きつけられた。
だからこそ、よくわからなくなっているのだ。そういった狂気的な面を打ち明けるのと変わらぬ調子で、タルタリヤさんはひどく優しくて善良な、まるで少年の如き一面を晒してくる。ファデュイの猛者を打ち倒したときの武勇伝――彼にとってはただの通過点でしかないのだろうが――を話したのと同じ口で、大切な家族との思い出を語ってくれる。狂気を孕んだ怒濤の瞳は、瞬きのうちに穏やかなさざなみへと姿を変えた。
わたしには、この人がよくわからない。寄せては返す波なんて生易しいものではない、まるで荒波の真下にいるような恐ろしさと安らぎを、この人は同時に湛えているのである。
――そして、わたしはその柔らかな波の根で体を丸めながら、彼のもたらす安らぎの片鱗に縋るばかりの毎日を過ごしていた。
ゆえに、悲しいかな、タルタリヤさんと触れあえば触れあうほど、わたしの胸の奥に押し込んだ気持ちは少しずつ、無様にも膨らんでいってしまう。彼という存在の足元に縋りつくことで、なんとか両足で立てるだけの力を得ているのが現状だ。
ひどく不健全で弱々しい、忌むべき「わたし」のすがたが、彼と共に過ごすたび、どんどん膨れ上がっていく。依存と言うべきそれはいつしか異なった様相を含んできて、彼に対する感情のいっさいを、重く、粘ついたものへと変えた。
自分がここまでねちっこい人間なのだということを、わたしは彼と接することで何度も改めさせられている。そして、その惨めな変化をどこか客観的な気持ちで眺めているわたしがいるのも、紛れもない事実だった。
「そういえば……タルタリヤさんは、どうして璃月までやってきたの? 『執行官』のお仕事のため?」
そろそろ敬語やめてくれない? なんていうありきたりな誘い文句に甘えたのは、つい最近のことである。
わたしの問いかけにタルタリヤさんはうっすらと笑って、「まだちょっと言えないことかな」とはぐらかしてくる。はぐらかすというか、教えられないときっぱり断られた、と言ったほうが正しいだろうか。
璃月港の潮風に髪の毛を遊ばせるタルタリヤさんは、飲食店の並ぶ街道を歩きながらきょろきょろと視線を彷徨わせている。おそらく、お昼をどこで済ませるか考えているのだろう。
「俺の目的はいいよ。君はどうなの? その『神の目』を見るかぎり、故郷からはそれほど離れてないみたいだけど――」
「ん……まあ、そうだね。隣といえば、隣かな……」
わたしがそれきりで言葉を切ると、タルタリヤさんはわずかに口を尖らせてわたしの頭に手のひらを置く。撫でるでも乱すでもないそれはお互いの足をぴったりと止め、往来のど真ん中で人の波をにわかに滞らせた。
「自分が言えないことを他人に訊くんじゃないよ。殴っていいのは殴られる覚悟のあるやつだけだって言うだろう? それと同じだ」
「そんなの初めて聞いたけどな……」
「ハハッ、それは君の見識が狭いせいかもしれないね」
快活に笑うタルタリヤさんは、おおきな手のひらをわたしの頭でぽんぽんと跳ねさせて、踊るように手を引っ込めた。名残惜しいその温度を引き止めるだけの言葉は、わたしの口からは出てこない。
何気ない日常会話の合間、幼げに笑う横顔を見るのが、今のわたしの精いっぱいだった。
わたしが璃月にやってきてからは、もう三ヶ月が経とうとしている。予想外の長期滞在はわたしのお財布に大打撃を与え、日を追うごとに痩せていくモラ袋を見るのが、そろそろつらくなってきた。
ここまで長期で滞在するつもりなんかなかったのに。こんなことなら、適当に安い家でも借りておけばよかった――なんて、そんなのはもはや後の祭りだし、考えても無駄なことなのだけれど。
(タルタリヤさんに出会わなければ、きっと今頃は他の国に行ってたんだろうな……)
わたしがこの国に留まっている理由――そんなもの、今わたしの隣で笑っているタルタリヤさん以外に何があるだろう。
わたしは、もうこの人から離れられなくなってしまった。弱々しい「わたし」の嘲る声を聞きながら、わたしは今日もこの人の隣に立ち、その笑顔を向けられる喜びを噛みしめるようになっている。
ルーツを辿り、「わたし」を殺すための旅。それがよもや、こんな出鼻でくじかれて、すっかり足を止めてしまうことになるなんて。おのれの意志の弱さに、このところは毎晩ベッドのなかで唸る日々が続いている。
とはいえ、この気持ちをタルタリヤさんに伝えるつもりは今のところ、ない。そんなものは迷惑でしかないとわかっているし、わたしみたいな一般人と「執行官」なんて、それこそ初恋の彼と同じくらい似つかわしくない、馬鹿げた夢であるだろう。
何より――人の幸せを嫌うわたしが、こんなかたちでそれを手に入れていいはずもないから。
だから、こうして何気ない会話を続けられるだけでよかった。その気持ちは嘘ではないし、胸を張ってそう言える。……そう、思っていた。
今日という日に、「あの女」の影を感じるまでは。
「そうだ、君は知ってる? 最近ね、この璃月にもう一人、君に似たような子が現れたんだよ」
――どうしてだろう。その言葉を聞いた途端、わたしは悪寒がとまらなくなった。まるで世界がひっくり返るような眩暈を感じ、何も言えないまま、ただ彼の瞳を見つめるのがやっとである。
わたしの様子など知ってか知らずか、タルタリヤさんは嬉々として話を続けた。
「彼女は面白いね、一緒にいるとわくわくするよ。……ああ、もしかしたら君も顔くらいは見たことがあるんじゃないか? 彼女、モンドでは『栄誉騎士』と呼ばれていたらしいしね――」
刹那、わたしの世界からは一瞬で音が消え失せた。
その名称には覚えがある。否、「覚えがある」なんて生易しいもんじゃない。彼女こそがわたしが故郷を出ることになった遠因で、わたしは彼女と出会わなければ――否、彼女があそこにいさえしなければ、こんなふうに落ちぶれることもなかったのだから。
腹の奥から、ざわざわと恐怖心や焦燥感が膨れ上がっていく。あの日のおぞましい記憶が、まばたきの間に蘇ってしまう。
大好きだったあの人があの女に向けていた、慈愛に満ちたやさしい微笑み。まるで恋でもしているかのような愛おしさに溢れた瞳で、あの人はずっとあいつの背中を見ていた――あの光景を、わたしはこの数ヶ月、一瞬だって忘れたことはない。
刻まれているのだ。あの日の痛みと共に、苦い景色と、その風の匂いが。
眩んだ光景が目の前の璃月港と混ざりあった途端、わたしは滲んだ視界の真ん中に、タルタリヤさんのことを捉えた。
……また、とられてしまうのではないかと。大好きだったあの人のみならず、今ここにいるタルタリヤさんですら、あの女に奪われてしまうのかもしれない。そう思ってからは早く、わたしは半ば反射的にタルタリヤさんの腕を掴んでいた。
わたしの行動に面食らったのか、タルタリヤさんはおおきな海の瞳を何度もしばたたかせ、わたしの出方を待つように沈黙を投げてきた。からからに渇いた喉をなんとか動かして、わたしは必死に、しどろもどろの言葉を紡ぐ。
「い……行くの? あの女の、ところに」
「ああ……まあ、大事な用事もあるしね。君と別れたらそうするつもりだったけど」
「っ――」
「どうせなら君も一緒に連れて行きたかったんだけど、今回はちょっとね。あーあ、君たちが一緒にいたら、さぞかし大層な争いか――もしくは夢みたいな強敵が、俺の目の前に現れてくれただろうに」
タルタリヤさんは、悔しさと喜びを綯い交ぜにした表情のままに、人混みのほうへと目を向けた。彼の視線の先には、二度と忘れることができないであろう金髪をたくわえた、華奢な後ろ姿がある。
隣には見慣れない背中があるが、傍に浮かぶ白い物体や騒がしそうなその様子は、わたしの疑念を裏づけるには充分すぎた。わたしは手のひらに込めた力を一層強めて、タルタリヤさんの腕を引き寄せる。武人の体がこちらに傾ぐことはなかったが、その視線を取り戻すことだけはできた。
「や……やだ、行かないで、まって」
「うん? どうしたの、そんな顔して。大丈夫だよ。別に危ないことじゃないし、ヘマなんかしないさ」
「やだ! ダメ、置いてかないで! あんな女のとこなんか、っだめ、いっちゃやだ」
「うーん……どうしてそんなふうに言うんだい? そこまで言うんだから、何かしらの理由はあるんだよね」
真っ当な疑問にも答えられない不細工なわたしは、果たしてタルタリヤさんの目にどんなふうに映っただろう。真っ青な瞳はひたすらまっすぐにわたしのことを見つめているが、その奥にある感情のいっさいが読み取れなくて、わたしの震えはそろそろピークを迎えそうになっている。
引きつるような喉から出たのは、みっともないくらいの本音に覆われた、惨たらしいまでの執着心だった。
「す、好き……だか、ら、」
「え――」
「あんな女より! わたしのほうがずっとっ、タルタリヤさんのこと、っ知って――」
再び言葉を切ったのは、まるで宵闇のような冷たい海が目の前に広がっていたからだ。
さっきまであたたかに温度を持っていた瞳が、氷のように冷え切っている。いっさいの感情や興味関心をなくした双眸が、じっとりと、まるで睨めつけるようにわたしのことを見ていた。
全身が凍りついたような、異様な気迫を感じている。そうしてやっと、愚かなわたしは思い出すのだ。この人がファデュイの「執行官」であることを――
「好きって、俺のことを?」
「あ……ぅ、」
「……そう。君は、俺のことをそんな目で見てたんだね」
言葉の波が、凪いでいる。彼の口から発せられる単語のひとつひとつから、何も見えなくなってしまった。
期待はずれだ――そう言っているのが聞こえた気がした。にこやかにしゃべるその口で、タルタリヤさんから拒絶の言葉をぶつけられたような錯覚をおぼえる。もちろんそれはただの錯覚で、本当に彼の口からそんな言葉が吐き出されたわけではないと思うけれど、その疑惑はわたしの心を折るに余りあるだけの力を持っていた。
無様に震えるわたしの手を、タルタリヤさんはいとも簡単に振り払う。それが、すべての答えのような気がした。
「……めん、なさぃ」
気づけば、謝罪が口から出ていた。みっともなく揺らぐそれがタルタリヤさんに伝わったのか、その真偽すらわからない。確かめる勇気がないのだ。彼の目を見て、まっすぐに話すだけの芯を、今のわたしは持ち合わせていない。
「さ、さよならっ、ごめんなさい! うそ、全部、嘘だから――」
また、わたしは逃げ出した。タルタリヤさんに背を向けて、わけもわからないまま走り続けた。あの日よりも涼しくなった璃月港の端から端まで、脇目も振らずに駆け抜けた。
あの日みたいにタルタリヤさんが追いかけてきてくれるんじゃないかって、そんな淡い期待を捨てられないまま、転ぶまで。
けれど、惨めに転がるわたしを引き起こしてくれるヒーローは二度とやってこなかったし、すれ違いざまに話しかけてきてくれるタルタリヤさんも、もうどこにもいなかった。
わたしのまぶたに焼きついているのは、大好きだったはずのタルタリヤさんの瞳――温度という温度をすっかりなくした、真冬の深海の色だった。
2024/07/10