手のひらより滲む情愛

 次に目を開けたとき、わたしの視界には上質な細工の施された天井が広がっていた。
 その文様が璃月の形式であることはなんとなくわかるけれど、自分の泊まっていた旅館にも、ご飯を食べたお店にも、こんなものはいっさいあらわされていなかった。これがひどく上等なものであるということは、目を凝らさないとわからないくらいの細かい装飾を見れば、庶民な生まれのわたしにだってすぐわかる。
 ――どうして、こんなところに? 曖昧な記憶を掘り起こしながら視線を彷徨わせつつ嗅覚に意識を移すと、今度は璃月とまた違った異国情緒がわたしの鼻腔をくすぐった。乏しい知識で例えるならそれは「香水」と言うに相応しいが、今までの人生にいっさい食い込んでこなかったその異質な芳香は、わたしのぼんやりとした意識に危機感という名の警鐘を鳴らしはじめる。
 痛みによって不自由な体は視線を動かすのがやっとであったけれど、どうやらこの部屋の主人はそういった変化に敏感なようで、わたしの乱れた呼吸をすぐに嗅ぎつけたらしい。軽やかな足取りと共にあらわれた顔は、わたしの体に走る緊張を、ほんの少しだけ和らげてくれた。
 
「気がついた? よかった、なかなか目覚めないから心配したんだよ」

 ――タルタリヤさんだ。往来でたびたび見ていたその笑顔が、今は知らない天井の下で煌々と輝いている。そのどこか異様な光景に、わたしはろくな返事もできず黙りこくってしまった。
 わたしの不躾な沈黙に何かを察したのか、タルタリヤさんは「そう固くならないで、大丈夫だよ」と軽く言ってのけ、手近なスツールにゆっくりと腰かける。

「ここは俺の部屋。ま、正確には旅館の一室なんだけど……ああ、別に変なことはしてないから安心して。あそこで倒れた君をここまで連れてきただけさ」
「……えっと、」
「あれ、覚えてない? まあ無理もないか、ずいぶん取り乱してたみたいだったからね」

 うーん、と顎に手を当てながら、タルタリヤさんは簡単に状況の説明をしてくれる。その表情に戸惑いの色はほとんどなく、もしかすると「執行官」という立場上、こうして人を介抱することにはそれなりに慣れているのかもしれない。

「君と別れたあと、本当はそのまま仕事に戻ろうと思ったんだけど……やっぱりどうしても気になっちゃってさ、すぐに追いかけたんだよね。そうしたら君が宝盗団に襲われてるのが見えたから近づいてみたんだけど、どうやらひどく怯えさせちゃったみたいで――」

 困ったように笑う彼を見ながら、わたしはぼやけていた記憶が少しずつ鮮明になるのを感じていた。わたしの脳裏に蘇るのは、じくじくとした背中の痛みと……颯爽と現れた、おとぎ話みたいなヒーローの後ろ姿だった。
 ……そうだ、宝盗団にボコボコにされていたわたしを、タルタリヤさんが助けてくれたんだっけ――そこまで考えたところで、わたしの思考は一時停止する。あの場に駆けつけてくれたのがタルタリヤさんであるのなら、つまりはあのときわたしの目の前にあらわれた化物の正体も、もしかして――!
 途端、わたしの全身からはさっと血の気が引いた。話の途中で逃げ出した挙句、せっかく助けてくれた人を相手にあんなにも暴れてしまうなんて、なんて無礼なことだろう。わたしは自分の非礼を詫びる方法もわからず、ただ謝罪を繰り返すことしかできなかった。
 叶うならちゃんと体を起こして頭を下げたかったけれど、背中に走る激痛はそれを許してくれないらしい。またひとつ、彼に謝る理由が増えてしまった。
 
「ご、めん、なさい……! わたし、せっかく助けていただいたのに、あんなふうに怖がったりして……」
「え? アハハ、いいよそんなの、気にしないで。たしかにちょっとびっくりはしたけど、職務上、そういうのには慣れっこだからね」

 タルタリヤさんは相も変わらずころころと表情を変えながら、ひどく朗らかに接してくれた。
 その顔を見ればわたしの態度なんていっさい気に留めていないとひと目でわかるので、わたしとしてはありがたいような気もするけれど……やっぱり、ほんの少しだけいたたまれない。 
 言いようのない居心地の悪さを噛み砕くわたしは、彼の底抜けに明るい様を横目に、改めて浮かんだ疑問を口にする。この空気を払拭したいという気持ちもあった。
 
「あの……事のあらましはわかったんですけど、どうしてわたしは、ここに……?」
「どうして、って……うーん、確かにどうしてだろうね? 最初は君の泊まってる旅館に届けるつもりだったんだけど、なんだか一人にしておくのも忍びなくてさ。ほら、君、ちょっと様子がおかしかっただろう?」
「う……すみ、ません」
「ああ、謝らなくていいよ。とにかく、君みたいに貴重な『争いの種』をそのまま潰すなんて、俺の流儀に反するっていうか……まあ、何にせよ放っておけなかったんだよね」

 乱暴なことをするつもりはいっさいないし、不安なら同性の部下を呼んでくるから、せめて痛みが引くまではゆっくりしてなよ――そう言いながら、タルタリヤさんはおおきな手のひらをわたしの額のうえに乗せ、ことさら優しく笑ってくれた。
 分厚くて優しい手のひらを感じながらも、わたしは彼の言う「争いの種」という言葉への引っかかりを無視できずにいた。璃月で再会したときにも言われたその言葉の意味を、未だに教えてもらっていないからだ。
 わたしの視線によって意図を察してくれたのか、タルタリヤさんはどこか得意気なふうに口を開く。どう見ても物騒な単語でしかない「争いの種」も、彼にとっては利益となるものなのかもしれない。
 
「俺はね、君に唯一無二の才能を感じてるんだ。君のなかには『争いの種』が眠っている――だって、君の周りにはいつも闘争の気配があるからね」
「……あまり、良いことのようには」
「え、どうして? ただ歩いてるだけで戦いのチャンスが訪れるなんて、そんなの願ってもないことだと思うけどね、俺は」
「そうでしょうか……」
「もちろんだよ。……まあとにかく、その『種』がいよいよ芽を出す予感がしたから、俺は君を追いかけて、あそこまでやってきたってわけさ」
「……そうしたら、案の定だった、と」
「そう! いやあ、やっぱり俺の目に狂いはなかったね! 君は俺に期待通りの結果をもたらしてくれたよ」
  
 言いながらケラケラと笑うタルタリヤさんは、わたしが今まで見てきたどの顔よりも恐ろしく見えた。見てくれこそ見慣れた人のかたちだけれど、彼のなかにはやはり、先立ってに見たような燃える怪物が巣食っているのかもしれない。
 わたしは、この人のことが怖い。普段はひどく明るくて気さくなふうなのに、ふとしたときに化け物じみた、いわゆる狂気とも言うべき側面を覗かせる……そんな彼のことが震えるほど恐ろしいと思うのに、それでもわたしは彼の手のひらを拒むことができない。
 わたしを助け、守り、結果的に救いをもたらしてくれたその指のひとつひとつを、わたしの体に眠る細胞はすでに覚えてしまったらしい。弱くて惨めな「わたし」は、自覚したときにはもう取り返しがつかないくらいに、彼という沼に足を取られていたのだろう。
 もう、どうにもならないのかもしれない――そう自覚すると、今度は忘れていたはずの感情がわたしの思考をにわかに奪わんとする。彼の奥にあるあたたかな光を、無様にも敏感に嗅ぎ取ってしまったようだ。
 
(おに、い、ちゃん――)

 ――思い出して、しまった。悪魔のように笑う彼のすがたを見ながらも、わたしは目の前の他人に在りし日の兄の面影を見出してしまっている。慰めるように触れる手のひらから、彼の持つ兄弟への情愛が流れ込んでくる気がして、頭のなかがぐちゃぐちゃになる。
 ……大好きだった、お兄ちゃん。年の離れた彼は、わたしが熱を出したときにもこんなふうに看病してくれた。外で転んだときにはおんぶして家まで帰ってくれたし、どんなワガママを言っても「しかたないなあ」なんて言いながら、ずっと甘やかしてくれた。
 この人の手のひらは、そんな兄の優しさに似ている。あたたかくて、おおきくて、包容力に満ちたそれは、ささくれ立ったわたしの心に水のごとく染み渡って、空いた隙間を埋めていく。染み込んだ水はやがて両の目から溢れてきて、わたしの口から声にならない声までもを引きずり出した。
 わたしが泣き出すのはさすがに予想外だったのか、タルタリヤさんは海の瞳をおおきく見開いて、見るからに少し慌てている。その様子もどこか似ていた。

「えっ……ごめん、やっぱり嫌だった? ああ、泣かないで、回復したらすぐ君の部屋に帰してあげるから」
「ち、ちが……」
「うん?」
「ちがう……ちが、うんです。なんにも、いやなんかじゃ、ない、っ……」

 絞り出すようなわたしの言葉にも、タルタリヤさんは愚かなほどにまっすぐ耳を傾けてくれる。彼にとっては至極当然のことなのかもしれないけれど、今のわたしにとってはその気遣いが何よりもあたたかくて、この身を引き裂くくらいに痛い。
 ――もう、どうなったっていい。争いの種だろうと、芽だろうと、この人が関心を向けてくれるなら、わたしはもう、「それ」でいい。そんなふうな、半ば自暴自棄にも似たことばかりを、今のわたしは考えている。
 こんなの、もうどうしようもない。わたしの気持ちも、この人の存在も。この場に満ちる何もかもがどうしようもなくて、わたしはまるで悪鬼に睨まれた子供のように、声を殺して泣いていた。

 
2024/07/06