はじまりの楔

 幼い頃に交わした、宝物のような「契約」があった――

 その人は、いつもどこか淋しそうに笑っていた。他人が寄りつかないような奥まった場所に暮らし、時おり顔をあわせては、ぼくに向かって笑ってくれる。ぼくはその笑顔を見るたび少しだけ胸が熱くなってしまい、純陽の体を抑えるのにいつも苦労していた。
 大人たちに「お仕事」へと連れて行かれる彼女は、決まっていつも、驚くほど傷だらけで帰ってくる。その様相があまりにも恐ろしくて理由を訊ねてみても、「わたしは大丈夫だよ」「これがわたしにできる精いっぱいだから」と笑い、ぼくにはその傷のひとつにすら触れさせてくれなかった。
 けれどあるとき、彼女がひときわひどい怪我を負って帰ってきた日があった。全身ボロボロになって寝台に転がされていた彼女を前に、ぼくは未だかつてないほどの恐怖を――「いつかお姉さんがいなくなってしまうかもしれない」という、漠然とした不安を植えつけられたことを覚えている。

「いつかぼくが大きくなったら――一人前の方士になれたら、ぜったい、ぜーったいに、お姉さんをまもるから……!」

 包帯まみれになって横たわる彼女の手を握り、泣きそうなのをぐっと堪えて誓った。すると彼女は澄んだ桃色の瞳を何度もしばたたかせ、ふわりと笑って、うなずいてくれたのだ。

「ありがとう、重雲。わたし、ずっと待ってるね」

 そうして幼心に交わした「契約」は、今もなおぼくの胸の中に楔として残っている。

 
  ◇◇◇
 

「――重雲、見ーつけた! ねえねえっ、わたしね、あなたに話したいことがあるの!」

 相変わらず包帯だらけのまま、まばゆい笑顔を浮かべた彼女が――桃琳が、ぱたぱたとせわしなく駆け寄ってくる。実際の年齢よりもほんの少しだけ幼い所作は、彼女のまとう雰囲気も相まって、人好きしそうな空気を醸し出していた。
 ――がばり。思い切り抱きついてくる彼女をなんとか引き剥がして、ぼくは平静を装いながら口を開く。

「こ、こらっ、桃琳! いきなり抱きつくのはやめろって……!」
「あはは、ごめんね。重雲に会えたのが嬉しくって、つい」
「む……! え、ええと、それで? ぼくに話したいことは何だ」
「あ! そうなの、あのね――」

 ぺか、とアイスをすっかり溶かしてしまいそうな笑みに、ぼくは少しだけ目を眇める。桃琳はまばゆい笑顔のまま、今回の「お仕事」についてかいつまんで話してくれた。
 聞くところによると、なんと桃琳は先日窮地に陥った際、幸運にも「神の目」を授かったらしいのだ。「神の目」を授かるほどの窮地とは何だと、いったい何をさせられているんだと問い詰めてやりたくなったが、妖魔退治に危険はつきものだろうと思い直し、深呼吸と共に口を閉じた。
 というか、問題はそこではない。ぼくの視線を射止めて離さないのは、桃琳の両手に包まれている「神の目」のまとう色――その内に秘められた元素の種類だ。

「桃琳……それ、もしかして炎元素か?」
「そうなの! 昨日ね、このままじゃ危ない! って思ったとき、突然真っ赤な光が灯って、それで――ッ、げほ」

 興奮冷めやらぬまま話し続ける桃琳だが、気が高ぶりすぎてしまったのか体をまるめて咳き込みはじめる。桃琳は傷を負う機会も多ければ体もひときわに弱く、先日なんかは行秋と香菱の目の前で思い切り血を吐いたのだ。
 あのときは取り乱した二人に「口から炎元素を吐く人」だなんだと言われていたが――よもやそれがフラグになるだなんて、誰が想像できただろう。

「ダメだぞ、桃琳。あまり騒ぐとまた体調を崩すだろ」
「うう……ごめんね。ありがとう、重雲」

 慣れた手つきで背中をさするぼくに返ってきたのは、彼女の心根をあらわすような、眩しくも柔らかい微笑みだ。
 ぼくは昔から――それこそ、件の「契約」を交わしたあの頃から、桃琳の笑顔が好きだった。
 彼女の言う「重雲といると元気が出るんだ」という言葉に何度救われたことか。方士としての修行に明け暮れるぼくは純陽の体との兼ね合いもあって娯楽や世俗のことに詳しくないし、人付き合いにも積極的とは言いがたい。陽射しの強い日には出かけないようにしたり、熱いものと距離をとったりなど、数々の制限を課せられたぼくの人生において、この体質、もしくは方術以外の何かで誰かに喜びを与えられるのは、とても大きなことだった。
 あれから十年近くが経ったが、今もなお、ぼくの気持ちは変わらない。強くなって桃琳を守りたいし、もう怪我なんてしないよう健やかに過ごしてほしい。桃琳にはいつだって……いつまでだって、元気に笑っていてほしい。
 だから――

「あ……でも、わたしの『神の目』は、重雲の体に良くないよね? 熱くなったら大変だし……」

 こうしてぼくを気遣うばかりに顔を暗くしてしまう桃琳を見て、常よりも心苦しく感じてしまうのである。

「重雲と会うときは隠しとこうか? 最悪、家に置いてきてもいいし――」
「そこまでする必要はないさ。せっかく手に入れた『神の目』なのに、わざわざ手放す必要なんかないだろ? そのせいで心身に支障を来したら事だ」
「……うーん。困ったな、あ、げほ、ッ」

 ぐるぐると頭を悩ませながらも、桃琳は頻りに咳き込んでいる。「お仕事」のダメージが抜けきっていないのか心なしか顔色も良くないし、このまま立ち話を続けていれば、体に支障を来してしまうだろう。
 それならばもう、かくなるうえは――ゆっくりと深呼吸をして、ぼくはひとつの決心をした。

「大丈夫だよ、桃琳。香菱だって炎元素の『神の目』を持っているし、これも鍛錬だと思えばいい。ぼくは全然気にしないから、桃琳もそのままでいてくれ」
「う……ほんと? 本当にいいの?」
「もちろん。ぼくが嘘をつけるほど器用じゃないってこと、桃琳だって知ってるだろ」

 そう言うと、桃琳は一瞬だけ考え込んだあと、すっかり顔を明るくする。いつもどおりの朗らかな笑みに胸の奥に潜む熱血がざわつくのが聞こえたが、再び深呼吸を繰り返してなんとかやり過ごした。

「えへへ……ありがとう、重雲! だいすきだよっ」

 まばゆい笑顔と、身に余る言葉。桃琳の「だいすき」の真意については未だに聞けずじまいだが、その言葉に現金にも喜んでしまうのは、ぼくがまだまだ未熟であることの証左に他ならない。
 落ち着け、落ち着け――! ぼくは今日も自分に言い聞かせる。純陽の体を暴走させてしまわないように。桃琳を守れるような――彼女の「お仕事」を手伝えるような、一人前の方士になれるように。
 ぼくの密かな戦いは、これから先も変わらず続いていくのだろう。それこそ、たとえば桃琳の身長を追い越すくらいの大人になれる、そのときまで。

 
2024/02/13 加筆修正
2023/06/21