さいしょの記憶

 正直なところ、わたしは「家族」や「親」というものがよくわからない。自分が他人の腹から産まれた実感が希薄なのだと思う。
 それがなぜなのかと言われたら、わたしは物心つく頃には既に一人で、気がついたときにはもう、そばには誰もいなかったからだ。嫌味なほど高く、真っ青な空をあおぎながら、まるで今その瞬間に生まれ落ちたかのような奇妙な感覚を覚えたことだけが、はっきりと記憶に残っている。
 そうして宛もなくふらついていた頃に出会ったのが、よくわからない大男だった。その人はわたしの引き連れていた「何か」をなぎ倒して、不要なまでにわたしを守るような真似をし、わたしのことを保護するとかなんとか言い出した。行く宛もなければ何もわからないわたしはそれにひたすら頷いて、彼の背中を必死に追いかけた。
 彼は夜ごと何かしらをブツブツとつぶやきながら書物を読みあさり、時に真っ黒な「何か」を祓っては何故だかわたしを守っていた。わたしの体が蝕まれているだの何だのとも言っていたような気がする。はやく治してやりたい、おまえのような子供がこんな目にあうなんてと、そんなことばかりを聞かされた。わたしには意味がわからなかった。
 
 ある日、彼はわたしの目の前にひとつの果実を差し出した。わたしの髪と同じ桃色をしたそれは、何やら悪いものを祓う力を持っているらしい。初めて食べた甘味はわたしの体を潤すようで、最初のうちはそれをもらうのがひどく待ち遠しかったけれど、いつしかその甘みに吐き気を覚えるようになった。気づけばそれしか口にさせてもらえなくなっていたからだ。
 ――そして、わたしは気づいたのだ。いつだったかに彼の言っていた「妖魔」というものの気配が、他でもない彼自身から感じられていたことに。わたしがそこにいたせいなのか否か、蝕まれていたのはわたしではなく、わたしを救うと言っていた愚かな彼のほうだった。
 男は死んだ。そうして今度はまた別の人間がわたしを救い、守り、蝕まれていった。現れては消えてゆく他人に何かを思うことはない。わたしにとってはそれが当たり前で、まるで呼吸を繰り返すかのごとく共に歩く人間が変わっていった、ただそれだけのことだから。
 それを幾度となく繰り返した頃、わたしを買いたいと言い出したのはひどく稀有な人間だった。彼は壮年の男で、少しだけ痩せこけた頬が特徴的な、切羽詰まったような印象を与えるような人だった。

 ――この娘がいれば、今度こそ私は家を建て直せるかもしれない! ああ、この出会いこそが岩王帝君の思し召しであり、この子は岩王帝君からの贈り物だ――!

 鼻息荒くのたまう姿はひどく滑稽で、わたしは興奮する彼をいつも侮蔑の目で見ていた。

 しかし、方士一門の端くれと言うだけあってその男は妖魔に耐性があったらしい。耐性というか、それらを祓い、避ける方法を常人よりも心得ている、といったところだろうか。
 彼が気を狂わせる過程は今までの「親」より何倍も緩やかで、その余裕のおかげか、意外にもわたしに比較的まともな暮らしを与えてくれた。少し傾いてはいるが、寝泊まりするには問題ない程度の個室――そのうえ、読み書きの知識や方術、心身の鍛錬方法など、たとえそれらに偏りがあったとしても、彼にもたらされたものはそれまでの暮らしに比べればよっぽどマシな部類だった。
 もしかすると、わたしは今の養父に対して少しだけ恩を感じているのかもしれない。今まであちこちの人間を狂わせてはたらい回しにされていたわたしを、彼はひとつところに留まらせてくれた。わたしに「桃琳」という名前を与えて、少し偏執的ではあるものの、まるで人間のように扱ってくれた。
 わたしは彼のもとで、ほんの少しだけ人間になれた気がしたのだ。
 以前の「親」はわたしのことを仙人だ何だと崇めてわたしの前で自刃したし、わたしの体に不老不死の秘密が隠されていると誤解して食らおうとしてきた女もいた。それに比べれば今の養父は何倍もマシで、何より彼はわたしを、重雲と出会えるだけの場所に連れてきてくれたから。
 だからこそわたしは、養父による扱いを甘んじて受け入れているのだろう。人としてはもちろん嫌いだしさっさと死んでしまえばいいと思っているけれど、それはそれとして、彼のために働くことは悪くない。どうせ長くない命なのだし、少しくらいは恩返しの真似事をしてみてもいいかもしれない。
 それに、こうしてわたしがうやうやしく彼に従っていれば、きっと重雲はわたしのために怒ってくれる。優しくて、素直で、純粋で――雪解け水のようにきれいな彼であればわたしの思惑に簡単に騙されて、わたしという汚れきった泥水でその身を穢してくれるだろう。
 わたしはきっとそれを望んでいる。自分の立場すらも利用して、重雲の心をひっかきたい。彼のことを傷つけたいわけではないけれど、彼というやわらかな氷を目いっぱいひっかいて、一生消えない傷を残したいのだ。
 それがわたしの――わたしに「死にたくない」と思うだけの強い願いを抱かせた、「一生のお願い」なのだと思う。
 

2024/02/06