それであったとするならば

「何にも、なくなっちゃったね」
 目に見えて落胆する背中に投げかけた言葉は、果たしていつも通りを取り繕えただろうか。激務と苦痛と絶望に喘ぐ体を叱咤して、ここまで来たというに。
 備えつけのベッド、ソファ、何も貼られず真っ白なはめ込みの窓。マルコの痕跡がなくなった部屋で、静かに2人うなだれていた。微かに残る香りだけが、まだかろうじてこの部屋の主が誰だったのかを教えてくれる。
 タツの手に握られたバンダナと、私の譲り受けたリストバンドは、紛れもないマルコが生きていた証。彼が、私たちと共に、懸命に、歯を食いしばって生きていた何よりの証明。彼の足跡だ。誰に断られるでもなく済まされた遺品整理は、おそらく何の滞りもなく行われたのだろう。予定時間よりも早く終了したようで、せめてと思い様子を見に来た私たちの前に待っていたのは、がらんどうとした彼の部屋。何もない、誰も居ない静寂を詰め込んだ一室は、何もないのに重たい。何もないのに胸が震える。
 否、何もないわけなんかない。何もないわけなんかじゃない。一歩進むだけでも、私には聞こえる。彼の、他でもないマルコの声が。私を迎えて、背を叩いてくれた、彼の少し掠れた声が。
「……一瞬、だった」
 か細い声で呟かれる言葉は、私に向けられたものなのか、それともこの部屋の主だった人か。私には判断しかねるけれど、沈黙で続きを促す。口を挟んではいけない気がした。
「あと一匹、あのシユウさえ倒せればそれで終わる筈だった。ほんの少しのところだった。あのとき、無理やりにでも止められてたら、俺が、マルコを引き止められていれば、」
 ――それは私も同じだよ。
 喉から出そうになった言葉を、ぐっと堪える。あのとき私も傍に居たのだから、彼がその身を蔑ろにして飛び出し、幼い命を救ったあの一瞬は、私の瞼にも焼きついているのだから。切り取ったような刹那の繰り返しは、ただ目を伏せるだけで蘇る。まるで、追体験でもしているかのように。
 けれどきっと、今の彼が必要としているのは同調でも同情でもない。だから、私には何も言えない。
「俺の、せいだ……」
 絶望に膝を折る彼の姿に、在りし日の自分がだぶついた。俯き、体を縮こまらせて、顔を覆って、耳を塞いで。何もかもを拒絶するくせに、誰かの優しい言葉を求める。どうしようもない、哀れな姿。
 けれど私には、手を差し伸べてくれた人が居た。私を引っ張り上げて、共に生きると約束してくれた人たちが居た。私を受け止めて、受け入れてくれた大切な幼なじみが居た。だから今の私が居るの。だから、私は今生きているの。
 私も、君にとってのそれでありたい。君のために生きたい。これは私の誓いであり、自分にかまけてばかりで彼に声をかけることさえ出来なかった、自分勝手な贖罪のかたち。
「……おまえまで」
 おまえまで居なくなったら、俺は――
 喉の奥を震わせるような言葉は、彼の心情そのものだ。その傍らにしゃがみ込み、広くも頼りない背中をそっと抱いた。いつかの彼がそうしてくれたように、私も彼を助けたかった。彼を支えてあげたかったから。
 背から覆い被さるようにして、爪跡と血痕がいくつも残った手のひらをそっと撫でる。「大丈夫」その一言が、言葉以外で伝わればいいのに。強くも脆いその背中を、ぽっかりと空いたその穴を、埋められないその隣を、私の何かで補えるのなら。私はそれを厭わないだろう。
「約束、するよ」
 胸にひとつの火が灯る。それは、生きる意味であり指針であり、決意のようなものだったのかもしれない。自分の生まれた意味を理解したような、存在意義を手繰り寄せたような感覚だった。
「私は君を、置いて逝かない。絶対」
 それはきっと、仲間として。相棒として、盟友として。彼の求めうる私が、それであったとするならば。