私が死んだ日

『おまえまで居なくなったら、俺は――』
 そんな、遠い日の一言が頭のなかで木霊する。理由はわからないところであるが、もしかしたらこれは“予感”だったのかもしれない。
 これから、とんでもなく恐ろしいことが起こる――そんな、予感だ。
「思ったより元気そうだな」
 錆だらけの鉄の天井を眺めながら、お世辞にも綺麗とは言えない、硬いベッドに寝転んでいた。時計もなければ窓もなく、地下とあっては音すらしない。気が触れそうな懲罰の、あっていいのかわからない唯一の楽しみは、こうして誰かが面会に来てくれることだった。
 人の気配に体を起こすと、ふわりと頭を撫でられるような、安心感を宿す声がした。幼い頃より聞き慣れたものなのだから、顔など見なくたってわかる。愛おしい幼なじみの姿に、自然と頬が緩んだ。
「退屈すぎて天井の汚れ数えちゃうくらいだけどね」
「はは、そんだけ口が利けたら上等だ」
 錆びついた檻の格子越しに、からりとした笑顔が見える。眩しい、私の太陽だ。この笑顔があるから、今まで頑張ってこれたのである。
 しかしその笑顔も、目に焼きつける前に消えてしまった。背筋をいやな汗が伝う。悲しんだような、懐かしむような、何か複雑な思いを噛み砕くことが出来ずにいる、そんな顔。思わずベッドを離れて駆け寄ると、タツは格子を握る私の手に、大きくって温かなそれを重ねてきた。
「今回の、ことだけどよ」
 ――今回。その言葉が指すのは果たして、先だっての大規模防衛任務のことか、それとも私がここにぶち込まれていることについてか。ちらりと表情を窺うも、彼の真意は読み取れない。俯いている、というよりかは、私と目を合わせられないでいる。彼の視線の先にあるのは、きっと床のシミなどではないのだろう。
「なんとなく、あの頃のことを思い出しちまった。防衛班が結成されて、俺が隊長に選ばれて……マルコも、一緒にいて」
 その名前を他人の口から聞いたのはいつぶりだったろうか。忘れているわけじゃない、けれど誰も、なんとなく口に出せない名前。私たちの大事な仲間、だった人。私たち防衛班を、「防衛班」たらしめてくれた人。私たちに、現実を教えてくれた、掛け替えない人だ。……もう、ここには居ないけれど。彼はもう、どこにだって居ないけれど。
「ハルが倒れて、カノンもやられて……もうダメだって何度も過ぎった。それでも歯ァ食いしばって、絶対に負けないって思って。そんなときに、こーこが来てくれてさ」
 重ねられた手に力が込められる。温かいはずの彼の手のひらは、緊張しているのか恐れているのか、どんどん熱を失っていって。どうしたの、という一言は、喉に貼りついて取れなかった。
「安心、しちまったんだ、俺。おまえが居てくれたら絶対に大丈夫だって、怖いものなんかねぇって。……隊長がこんなんじゃ、示しがつかねぇのにな」
 こつん。鉄格子に額を預けるタツは、細く長い息を吐いた。指の跡が残ってしまいそうなほど強まっていた手の力も今は、うなだれるように、かろうじて引っかかっている程度だ。
 一瞬、ほんの一瞬だけれど、この手を払ってしまいたいと思った。そうすれば、この続きを聞かなくって済むだろうと思ったから。この先を聞いてしまえば、きっと何かが壊れてしまう。けれどこの手を離してしまえば、他でもないタツを傷つける。
 自分可愛さか、目の前の彼か。そんなもの、答えはとうの昔に決まっている。
「サテライト任務のときだって、どうにも背中が落ち着かなくてよ。俺はおまえが居ないとダメなのかもしれないなって再確認して。けど、それと同時に自分が恥ずかしくもなって」
 自嘲をこぼすタツの瞳は、彼が先ほど口にした、“あの頃”を思い起こさせるものだった。何もかもを1人で背負いこんで、理想を追い続けていた彼。人を惹きつける人のようで、どこか孤独に苛まれていた姿。胸が痛い。苦しい。怖い。こんな棒さえなければ、それが許されるのならば、今すぐにでも彼を抱きしめているのに。
「俺、おまえに甘えてたんだなって。おまえの自由を奪って、俺に縛りつけて……ずっと。作戦が終わってから、このことばっかりグルグルしてた」
 意を決したように、タツが顔を上げて私を見る。ああ、いつもの彼の顔だ。琥珀色の瞳は夢や希望を閉じ込めていて、凛々しい眉が意志の強さを表している。引き結んだ口元も、年齢よりかは若く見える、少し柔らかみのある頬も、ずっとずっと見てきた、私の大好きな人。
 ――けど、もう。それもきっと、終わりかな。
「おしまいにするべき、なんだよな……こーこ、」
 私の手を握りしめていたそれは、呆気ないほど簡単に離れる。温もりも冷たさも汗さえも、すぐに消え去っていった。まるで彼の心みたいに。私たちの距離のように。終わりを示す、その指の動きが。
「俺はもう、大丈夫だからよ」
 ありがとな。そう言って、タツが笑う。私は笑みを返せただろうか。やけに渇きを訴える喉は、何も言葉を返せない。ああ、でも、言わなくっちゃな。眩しすぎて見えない太陽は、滲んだ視界の向こうにある。
「……うん。私も、大丈夫」
「ごめん」って言わないのは、君の良いところ。「ありがとう」って言うのは、君の狡いところ。本当のことが言えないのは、私の悪いところ。
 気づいたかな、君は。気づいてほしいなんて思うのは、私のワガママなんだろうな。

 
 重苦しい金属音と共に、離れていく彼の気配。私の収容された場所は奥まったところにあるから、エレベーターも遠いだろう。彼はどんな気持ちでこの道を進んでいるのだろう。こんなカビ臭い場所ですら、晴れやかに、眩しい姿を留めているのかな。見えなくなった背中にやっと、言えなかった二文字を伝えられる、惨めな私とは違って。
 溢れる涙の落ちる音すら聞こえそうな、静寂に満ち満ちた場所で。私のなかの「私」が、とうとう半分死んでしまった。