また、なんだ。

 ――大車ダイゴによるアラガミテロが収束して、数ヶ月が経とうとしていた。
 サカキ博士主導のもと行われるようになった慈善活動も、もちろん第一部隊のみならず、他部隊も積極的に参加している。
 防衛班第二、第三部隊も例外ではなく、特にコズエはこの活動に精力的なようで、事あるごとに居住区の援助に我が身を駆り立てていた。
「はいはーい、まだまだたっくさんあるからね。ちゃんと並んで、順番に取りにくるんだよー」
 特に彼女が好んでいたのはこの炊き出しであった。彼女自身が食欲旺盛なこと、元より料理が好きなこと、そして居住区の人々と直に触れあえる機会ということで、他の部隊の援助にもたびたび参加していたように思う。実際、子供たちに皿を分け与える際の彼女の笑顔はひときわ輝いているように見えた。
「コズエさんに負けないよう、私も頑張らなくっちゃ……」
 むん、と気合いを入れたのはカノンである。彼女も彼女で、例の事件や居住区の惨状に胸を痛めていたので、この活動にはコズエに負けず劣らず積極的であった。
 また、彼女の持つ朗らかな雰囲気が伝わっているのだろうか、子供や老人は、彼女の顔を見るだけでふわりと空気が柔らかくなったように見える。
「ああ、俺も負けてはいられない」
 腹を満たした子供の遊び相手となっているのはブレンダンだ。がっしりとした体躯とは裏腹に穏やかな人柄を滲ませた顔立ちのおかげか、子供は彼によく懐く。今も小柄な子を肩車にしており、他の子供に次をせがまれていたところだ。
「ま、俺らはここで育ったからなあ」
 食器の回収をしていたタツミが、ひょいと話に入ってくる。居住区をぐるりと見渡しながら、ここで過ごした日々に思いを馳せた。もう何年前の話だろうか、苦しみと飢えのなかに小さな喜びを抱き、そして劇的な毎日があったものだ。
「色々と、思うところがあるもんだよ」
 かつて自分たちの家があった方角へと目を凝らす。今は誰が住んでいるのかわからないが、先日の大規模テロで潰れることはなく、なんとか形を保っていたと記憶している。
 今回、第三部隊の面々とは都合が合わず、第二部隊のみで炊き出しを行うことになった。やはり人手の少なさはネックとなり、誰も彼もが忙しなく動く羽目になっている――が、それでもコズエは笑顔を崩さないし、むしろなんだか嬉しさを滲ませているようにも見える。止まっていることが何よりも怖いんだと、タツミはなんとなく理解していた。
「あっ……材料、切れちゃいそうですね。私とってきます!」
「うぃうぃ~」
 道にだけは迷うなよ、と。第二部隊全員の心がひとつになった瞬間であった。

 
 ふと、カノンと入れ違いになるようにして1人の男がゆらりと姿を現す。くたびれて半分潰れた帽子を目深に被っているが、顔の造型自体はそこまで崩れているように見えなかった。ただ、この場所で見た目で人を判断するほど愚かしいことはない。見た目に気を使えるほど、豊かな場所ではないのだから。
 彼は鍋の調子を見ているコズエの背後に立ち、
「久しぶりだね、コズエちゃん」
 ぞくり。耳にぬるりと這い寄る、蛇のような声で彼女を絡めとろうとした。背筋を粟立たせながら、おそるおそる振り返る。聞き覚えがある、この声は。
「……おじさん」
 過去、コズエがある意味で世話になり、またある意味で世話をした因縁の男によるものであった。
「知り合いか?」
 異様とも言えるコズエの様を感じ取ったのだろう。助け船を出すかのように、ブレンダンが割って入ってくる。彼が近くに来てやっと、コズエは息を吐き出すことが出来た。
 この男が現れてから、時間にしては数秒だろうに、まるで蛇に締め上げられたかのようにコズエの喉は呼吸を忘れていたのである。
 無意識のうちにブレンダンの後ろに隠れたコズエの姿を見て、男は帽子のつばに隠れた瞳にどす黒いものを覗かせた。
「……相変わらず男に囲まれてるんだな」
「…………なに」
「あの頃からそうだったろう? やっぱり男ばかりのなかで育つとダメだな」
 ふぅ、と呆れたように肩をすくめて男が笑う。カノンのいない、最悪のタイミングで現れたこの男は、コズエのことを穢らしい何かを見るような目で見下しながら、そして。
「この男もカラダで捕まえたんだろう。売女らしく」
 彼女の神経を逆なでするように、“あの頃”を思わせる下卑た声色でそう囁いた。
「――おい」
 けれど。
 彼が二の句を継ぐ前に。
 コズエが目を逸らすより先に。
 ブレンダンが反論する隙も与えず。
 何よりも早くその場に突き刺さったのは、男が現れてから黙りこくったままだった、タツミの鋭く重い一言だった。
 振り返ってみると、いつも慈愛と熱に満ちた茶色の瞳が、凍てつくような冷たさを持って男のことを見つめている。アラガミと対峙するときも、世の理不尽を嘆いたときも、こんな目はしていなかった。
「食うもん食ったらさっさと帰れよ」
 普段の明るく爽やかな彼はどこへやら。押しつぶし、にじるようなその気迫からはいつもの姿などどこにも窺えない。
 押しつけるようにして、鍋の中身――フェンリル極東支部特製アナグラシチュー――を並々と注いだ皿を男に差し出す。
 反論なんて許さない。
 主張なんざ認めない。
 耳を傾けてなんかやるもんか。
 言外に込められた“拒絶”を前に男は怯む。目線は自分よりも低く、顔立ちだって幼い年下の相手に言われたたった二言に、何も言えなくなってしまった。
 結局男はそれきり口を開くことなく、皿だけ受け取ってその場を去るに終わった。

 
 居心地の悪い沈黙が横たわる。幸い、男が大声でわめき散らすことはなかったため、他の隊員や居住区の人々に知れ渡ることはなかっただろう。
 だが知られてしまった。ブレンダンに。そして、“もしかして”が現実になる。知られていたのだ、タツミにも。穢れきった、キズモノの自分を。
「カノン、おせーな。ちょっと見てくるわ」
 まるで何もなかったかのように、タツミはいつも通りの明るい笑顔を振りまく。コズエの頭を軽く撫でた後で、道に迷っているだろうカノンの捜索に出た。そっとブレンダンに目配せをして、コズエのフォローを頼むことも忘れず。
「……また、知られちゃったねぇ」
 自分はうまく笑えているだろうか。ぐにゃり、顔がいびつに歪んだだけのような気もする。声だって、この両足だって。みっともないくらいに震えていた。
 こんなこと、知られたくなんかなかったのになぁ。悲しいくらい人生は、なかなかうまくいかないらしい。
「……俺は、そのくらいでお前から距離をとるほど、薄情な人間になったつもりはない」
 ふと顔を上げてみる。ブレンダンの顔は似つかわしくないくらいに穏やかで、そしてとても優しかった。澄んだ空のような瞳を見れば、嘘はないと痛いほどにわかる。
「……ふふ、うん。……ありがとね」
 精いっぱいであろう、その言葉が。コズエにとって何よりも温かく染み渡るものであることを、ブレンダンは知らずにいるのだろう。