頬をなぞる綺羅

 計算の通り事が運べば、おそらく決戦の日は明日。
 明日になればネメシス率いる大軍勢がこのガルグ=マクへたどり着き、復讐の炎を撒き散らして灰燼の野を作らんとするのだろう。雑草のひとつも生えない不毛の大地が築かれることだけはなんとしても避けなければならない。
 この戦いが終われば、きっとクロードにとってフォドラでやれることはほとんど終わる。それはつまりどういうことなのかと言われたら、彼が故郷に帰るその日が刻一刻と迫っている、ということだ。
 夜空に燦然と輝く月、その月を囲む星々。当たり前の星月夜を見上げながら、クロードはぼうっと思案に耽っていた。
 やるべきことは全てやったし、こなせることは全部こなした。可能性だって極力潰した。今日という日、否、これまでずっとクロードは最善を尽くし続けてきたのだ。つまるところ全てを決するのはやはり明日に他ならなくて、たとえ今日に何をどうしたとて、明日の小さな見落としで全てが無に帰すかもしれない。
 この戦乱を駆け抜けた双肩にかかる重圧は、おそらく最高潮と化している。今にも詰まりそうな呼吸をとめないよう、クロードはことさら深く深く息を吸って、ゆっくりと吐いた。
「――今日は、今までで一番月が綺麗に見えるわね」
 波打つような心を落ちつけているおり、出し抜けに口を開いたのは隣に立つウィノナだった。
 最終決戦を目前に控えにわかに沸き立つ心のまま、二人はちょっとした気分転換と称して大修道院の三階を訪れていた。レアを起こさぬよう声を潜めつつ、セテスの監視をくぐり抜け、なんてことない談笑と共に星見の広場に並び立つ。子供じみた冒険を超えた先には淡い星明かりと煌めく月が美しい夜空が広がっていて、柄にもなく感嘆のため息まで漏れてしまった。
 決戦を明日に控えているというこの状況にあまり似つかわしくない佳景は、取りとめもなく騒ぎ立てる心をしんと静かにさせてくれる。そして、それに見とれながら思うのはこの世界がウィノナの淡い瞳にどんなふうに映っているのだろうかということで、クロードはまた尽きることない好奇心をふつふつと沸き上がらせていた。
「そうか? 俺にはあまり変わらないように見えるが」
「あら……情緒がないわね。それともあまり月を見る習慣がないのかしら」
「いや、むしろ逆さ。昔からこの星空にはたいそう世話になってきた。だからこそ思うんだ、今日もあのお月様は変わらずに輝いてるなって」
 星空を見るたびに思い出す。幼い頃からこんなふうに、おのれを慰めるような気持ちで夜空を眺めていたこと。
 だだっ広いパルミラの空は今よりずっと広くて、文字通り無限に世界が続いているような気持ちにさせられたものだ。この空の向こうには何があるのか? どんな人間が、どんな文化のなか、どうやって生活をしているのか。この空と山と海を超えた先には、きっと痛みや苦しみを癒やしてくれる何かに出会えるのではないかと、幼い頃からずっと希望を膨らませ続けた。そうやってクロードは、いつ何が起こるとも知れない故郷での生活で、自分を守り続けてきた。ぐちゃぐちゃに乱れた頭の中を静かにさせてくれたのは、ずっとこの星空だけだったのだ。
 フォドラにやってきてもこの空の色は変わらず、月だって何も言わずにクロードのことを見つめていた。けれどどれだけ見つめあったとて、別にこの月が答えをくれるわけじゃない。神様にも似た星空は、ただクロードを見守るだけで何かを導いてはくれない。クロードが求めているのは神頼みなんかで手に入れられるものではないし、未来も道も、自分で切り開いていくものだと知っていたから。
 何かに縋り、頼みきって思考を停止させることを、クロードはずっと厭うていた。
「そう……私もね、ここ数年はずっと月夜に慰めてもらっていたわ。あいにくと、今夜は三日月ではないみたいだけれど」
「三日月じゃなきゃダメなのか? 暦に振りまわされるとはおまえらしくもない」
「ふふ、だって、ほら。三日月を見るとリーガンの紋章を……あなたを思い出せるでしょう? 三日月夜は、まるであなたがそばにいてくれるような気持ちになれたから」
 ウィノナはちらともこちらを見ない。ぼうっとした横顔はきっと、遠い日の三日月を思い返しているのだろう。
「誰かに隠れて泣くときは、決まって三日月の夜だった」
 ささやくような声がする。それは落ちついているようでいて、今にも泣き出してしまいそうなほど、不安定な弱々しい声色だった。
 今にも伸びてしまいそうな右腕を必死で律した。今ここでこの細い肩を抱いて、彼女から涙を引き出してどうするのか。ギリギリのところで立っているのは皆同じだ。誰しもが明日に不安を抱いていて、この夜を超えるために、夜明けを迎えるために明日に向けて調子を整えているのだから、たとえ好いた女だからといって無用なことはしたくない。
 ウィノナは決して泣くためにここにいるわけではないのだ。気分転換に誘ったのはクロードだけれど、応じた理由は自分に縋って泣きわめくためではないだろう。彼女の誇りと意志を踏みにじることなどしたくない。彼女に想いを抱く男としても、隣に立ち、背中を合わせる仲間としても。
 盟主として立つ自分は、たとえ恋い焦がれた相手であろうと特別視することを許さない。
「……なんて、こんなときに冗談なんて言うべきではなかったかしら」
「はは、随分と意地が悪いことをする」
「ごめんなさいね。どこぞの盟主様が滅入っているようだったから」
「心臓に悪いお気遣いをどうも」
 ――わかっている。それが、冗談なんかじゃないことくらい。
 どちらともなく踵を返した二人は、ポツポツと談笑を再開しながら寮のほうへと戻っていく。長い階段を降り、廊下を渡って、かつて学生寮として思い出を重ねた建物へとたどり着いた。
 二人の部屋は二階にある。クロードのものと違い、階段からほど近い場所にあるウィノナの部屋は、結局天馬の節以来訪れることはなかった。
 寮の階段を登る頃には随分と緩慢になっていた足取りも、牛歩とはいえ進んでいるのだからあっという間に二人に別れを届けてくれる。……惜しむ気持ちは同じなのだろうか、ウィノナは躊躇うように取っ手を握り、何の物音もしない廊下に無機質な開閉音を響かせた。
 扉の隙間から見える室内には目立った荷物など窺えず、寝台のうえに小さめの旅行かばんがひとつ転がっているのみだった。がらんどうになったこの光景を見れば、きっとどんな愚か者であろうとも彼女が嫌な覚悟を決めていることくらいわかるだろう。それはクロードにとって非常に恐ろしく、けれども決して遂げさせてはやらないと固く誓ったものだった。
「じゃあね、クロード。おやすみなさい。送ってくれてありがとう」
 最後に良い思い出が出来たわ――そんな幻聴でも聞こえてきそうだった。
 名残惜しそうに閉まる扉を、クロードはやはり何もしないままに見送る。おやすみ、また明日な、学生時代から何度もかわした挨拶と、あの頃と変わらないままの笑顔だけを浮かべて。ほんの一瞬、扉の隙間でウィノナが泣きそうに顔を歪めたのだって、クロードの目はしっかりと捉えてしまっていた。
 ぱたん。呆気ない音を立てて、二人は扉で分かたれた。さっさと帰ればいいのにクロードの両足は縫い止められたかのように動かず、おそらくそれは薄い板の向こうにいるウィノナも同じだろうと思えた。聞き耳を立てていたわけではないが、目の前からは足音のひとつも聞こえてこなかったから。
 音もなく、額を扉につける。この向こうにウィノナがいる。それをわかっているのに何もしない、何も出来やしない自分がもどかしくて仕方なかった。
 今すぐこの扉を開いて、あの体を抱きしめて、愛の言葉をぶつけてやりたい。独りよがりな彼女が固めた馬鹿な決意をぶち壊して、離すつもりなんてさらさらないことを、どこにも行かせてやらないことをひと晩中でもささやき続けてやりたい。後悔しても遅いのだと。お前の愛してしまった男は諦めが悪くどこまでも追うような人間なのだと、骨の髄や血の一滴に至るまで彼女の全てに刻みつけたい。
 血と欲と絶望にまみれ、死んだほうがマシだと叫ばせるような渦中で生きた彼女の五年間を知ってもなお、この決意は一瞬たりとも揺らいだりはしなかった。
 けれども、そう、今ではないのだ。この瞬間も邁進しているネメシス軍はもう目と鼻の先に迫っていて、そんな感傷と睦言に浸っている暇などない。
 後悔はもうしたくない、けれど今のクロードの双肩にかかっているのは世界だ。個人としての自分がウィノナの手を取りたいと思うのと同じくらい、盟主としての自分はこの大地を守りたいと考えている。この大地を守って壁をぶち壊した先でこそ、ウィノナをこの腕の中に閉じ込めたいのだ。
 明日になればきっと、その体をキツく抱きしめられると信じて――クロードは扉から静かに体を離し、しっかりとした足取りで自室へと戻るのであった。

 
20210518 加筆修正
20200906