桃色吐息は友の色

 ローレンツの言葉を疑うつもりはないが、しかしクロードの手の内に真実を確かめる術は多くなかった。
 なぜなら彼がクロード=フォン=リーガン本人であるという時点で、「ウィノナがクロード以外の人間と話しているところ」を見るのが難しいからだ。ウィノナは人の気配に敏い。クロードがどんなに気配を消してもすぐにバレてしまうし、彼を見るとウィノナはそれまでの話を手短に終わらせて足早に駆けてくる。その様はまるで忠犬のようでもあり、否、もしくは人に懐いた獅子の類だろうか。
 とにかく、諸々の事情から手段というのは非常に限られてきてしまうので……クロードはいささか汚く不器用な方法だとはわかっているけれども、掴める藁はもうここにしかないと認めて最後の手段に躍り出る。
 その方法は至極単純であり、けれども簡単なようでいてとても難しいものだった。
「最近のウィノナちゃん?」
 クロードが頼った相手はヒルダだ。貴族のお嬢様らしく怠け者のように見られがちであるが、彼女は意外と人を見る目がある。彼女自身の見た目はもちろん作り上げる装飾品や生き様、その他諸々を鑑みて、クロードはヒルダの感性や慧眼を彼なりに信用していた。
 何よりヒルダは金鹿の学級のなかでは特にウィノナと仲が良く、連れ立っているところを度々見かけた。それこそクロードの次に浮かぶのは彼女なのではないかというほどで、共にディミトリの最期を目撃していることもあり、同じ女性という観点からもきっと、彼女なら彼女独自の視点で所感や印象を教えてくれると踏んだのだ。
「そうねー、確かに最近はちょっと様子がおかしいかもー。やっぱりクロードくんも感じてたんだ?」
「いや、俺は……感じてたというか、教えられた、というか?」
「えぇー? 信じらんない、好きな女の子の些細な変化にも気づけないようじゃ、立派な旦那様どころか心を射止めることすらできないわよー?」
「はは……返す言葉もない」
 ヒルダの痛い指摘に苦い顔をするクロードは、先日ローレンツに言われた言葉も含め、少しだけ胃がうねるのを感じる。
 今更「好きな女の子」と言われたところで驚くようなことはない。そもそも士官学校にいたときから自分がウィノナにひっついていた自覚はあったし、気持ちを抱いてからはまるで牽制のような調子で彼女の隣を独り占めしようとしていた。
 誰にも盗られないように、誰も彼女に関心を向けないように。自分がそばにいては逆に視線を集めてしまう懸念もあったが、むしろそうすれば「ウィノナの近くには必ずクロードのすがたがある」という認識を植えつけることができる。みみっちい男のみみっちい独占欲は、きっとあの頃からじわじわと外堀を埋めていたのだ。
 押し黙ってしまったクロードを前に、ヒルダは呆れたような顔をして息を吐く。へえ、そうなんだあ、ふうん――そう言って肩をすくめて少し前へと歩き出したヒルダにつられて、クロードも彼女の進行方向に目をやった。二人の目の前には手入れの行き届いてきた中庭とかつて机を並べた金鹿の学級の教室が見えていて、この懐かしい光景を目に入れるだけでまばゆい記憶が蘇ってきそうだ。
 さく、さく、芝生を歩くヒルダの後ろを、クロードはゆっくり追いかける。やがて再び隣に並んだ頃、ヒルダはぽつりぽつりと話し始めた。
「クロードくんさあ、士官学校にいる頃からウィノナちゃんのこと特別扱いしてたでしょー? やけに絡みに行ってみたり、舞踏会の日には二人で消えたり……ウィノナちゃんもなんとなく嬉しそうだったから、そのまま見てるだけにしてたんだけどさ」
「まあ……否定はしないが」
「よく言うわー。あの頃から……そうね、もしかして付き合ってるのかな? みたいな空気はあったと思うけど。……そっか、クロードくん本気だったのねー」
 ヒルダは言う。クロードの品性を疑うわけではないけれど、よもや本気で彼女のことを好きだと思ってはいなかったと。彼女の目から見たクロードというのは、鳥とか風とか、まるでその場に留まることのない、誰にだって本心を明け渡さないような人間であったらしい。
 クロードは腹を割って話すことをしない――気さくで人好きのするような男に見えるが、その目はいつだって笑っていないし、貼りついたような作り笑いがやけに目を引く男だった。かつての彼をおもいだしながらだろうか、ヒルダは一度もクロードを見ずに淡々と語る。
 だからこそヒルダはクロードがウィノナに引っついていこうとするのも疑わしい気持ちで見ていたし、なんとなく心を開きかけているようなウィノナのことを人知れず心配していた。いやに目につく男とやけに浮いている女の組み合わせは、ヒルダにいらぬ気苦労を与えていたのだという。すまないな、と口をついて出た薄っぺらい謝罪は、おもむろに小石を蹴ったヒルダのかけ声によってかき消された。
 ただ、こうして五年と少しの月日が経った今、二人の関係が変わりつつあることもヒルダは理解しているらしい。有り難いような気恥ずかしいような、少々複雑な気持ちでクロードは彼女の言葉を聞いた。
「で、何だっけ。最近のウィノナちゃんだっけー?」
「ん……ああ、そうだ。どうやらあいつに俺の気配なんてもんはバレバレらしくてな、いくら気配を消して近づいても大体すぐに悟られちまうんだ」
「ふーん。あ、もしかしてそれって惚気ー?」
「茶化してくれるなよ……」
 いよいよ限界を迎えてきたのか、顔をおおってため息を吐くクロードにヒルダはけらけらと笑い、ごめんごめんと謝って再び口を開こうとする。口元がやけににやけてはいたが、それでも今度こそ真面目な話をしてくれそうに思えた。
「そうね、確かにウィノナちゃん、ここのところ全然笑わなくなっちゃったなー。元々あんまり感情の起伏が激しいほうではなかったけど、笑いはもちろん、怒ったり嫌な顔をしたり、そういうのもなくなったかもー」
 高い空を見上げるヒルダは、どこか昔を懐かしむようなふうにウィノナのことを語り出す。夕暮れに差しかかる橙の空はなんとなくくすんだ色をしていて、まるで戦禍にあえぐフォドラの痛みを代弁しているかのようでもあった。途端、かつて剣を交えた皇帝の言葉が脳裏に響いたような気がして、今度はちくりとした頭痛がクロードを襲う。
 頭痛から逃げるようにヒルダの横顔をうかがうと、その表情はまさに友を憂う顔に他ならなかった。じわり、他人のことであるはずなのにほんのりと胸があたたかくなる。ウィノナのあの調子では友だちなんてとても……と思っていたけれど、どうやらクロードのあずかり知らぬところで友愛の芽はあったようだ。それはもはやウィノナにとっての「友だち」の敷居が高いだけかもしれない、そんな疑惑すら浮かぶほど。
 金鹿の学級の面々は、きっと彼女が思うよりずっと前から、ウィノナのことを受け入れてくれていたはずなのに。
「あたしが瓦礫の片づけ代わってー! って頼んだらさ、少し前ならかるーくお説教が飛んできたりもしてたんだけどねー。今はただ『いいわよ』ってひと言だけで、道具だけ持ってさっさと行っちゃうもん。なんかもう逆に心配になっちゃってさ、やっぱり自分でやるって言っちゃったし……よくよく考えたら、誰に何を言われてもそんな感じだったなーって」
 未だに怠惰は直らないのかと口を挟みたくもなったが、しかし貴重な話が聞けたとは思う。やはりウィノナの様子はおかしい。ローレンツが見てもヒルダが見てもそうであるなら、きっと誰に訊ねたとしても返ってくる答えは同じだ。
 クロードはまた息を吐く。どうしたものかと肩をすくめ、盟主らしくもない顔をしてがっくりとうなだれてみせた。ヒルダはそれを「らしくない」と冗談めいて言うけれど、らしくないような姿を晒してしまうほどこの壁はひどく高いのだ。起こってしまったことは仕方ない、ならばそれをどう和らげるかというところに行きつくのだけれど、クロードの好いてしまった女はひと筋縄ではいかないような、ある種のじゃじゃ馬なのである。
 思考の迷宮にとらわれ、もはや頭を抱えんばかりのクロードに並ぶヒルダもまた、同じように考え込むような素振りを見せている。やがてゆっくりと口を開く、その表情は真顔と言うに他ならないものであるけれど……
「クロードくんが気づかなかったのってさー」
 思い出したように喋りだしたヒルダの声をこれ以上聞きたくないと思うのは、きっとクロードのなかにある、非常に磨かれた“虫の知らせ”が働いたからかもしれない。ぐる、と喉の奥が音を立てた。
「もしかして、クロードくんの前では変わらずちゃんと笑ったり怒ったりする……みたいな、おとぎ話よろしい理由じゃないよね?」
 半ば確信を抱いたようなヒルダの疑問に、とうとうクロードは返す言葉すらなくしてしまった。

 
20210518 加筆修正
20201108