薔薇は大地に根づくもの

「おい、クロード。君、ちゃんとウィノナさんのことを見てやっているのか?」
 渡り廊下でのすれ違いざま、潜めて声をかけてきたのはローレンツだった。
 その口振りから察するに――否、彼の人柄を思うに今回は決してやっかみのたぐいではなく、心からウィノナを、そしてクロードすらも気遣ってのものであろう。その証左として彼は今、凛とした眉を労しげに垂らしている。
「ん……どうした? ウィノナに何か変わったことでもあったか?」
「変わったどころではないだろう! ……いや、君の前では違うのか? まあ、それも君たちの関係を思えば納得のいくところではあるが……」
「おいおい、話が見えないぜ。ちゃんと順を追って話してくれよ」
 訳がわからないとでも言いたげなクロードに、ローレンツは少々おおげさに顔を覆いながら、相変わらずの仰々しい所作でもってその程度を示してくる。
 彼は利己的なように見えて、実際は未来を見据えながら仲間や友人をひどく大事にする男である。だからこそウィノナのことを、かつての級友である彼女のことを案じ、こうして声をかけてくれたのだ。
 この同盟軍において一番彼女と仲が深く、なおかつ理解の程も頭抜けているのがクロードであるというのは、おそらくこの同盟軍においてほぼ全員の所感であるだろうから。
 うろうろと視線を彷徨わせながら、ローレンツはひとつ咳払いをして口を開く。ほんの少し、些細ではあるがクロードに絶望を届ける言葉を。
「……笑わないのだ」
「わら……おう、お前が、か? 確かにお前は声をあげて笑うような性格じゃあないよな」
「ふざけるのも大概にしろ、僕の話ではなくウィノナさんだ! ……ウィノナさんが、ちっとも笑わないのだよ」
 苦汁を飲んだような表情を見てしまえば、信じがたいその言葉も真実として受け入れるほかないだろう。
 ウィノナが笑わない――それは、ローレンツの気質を、嘘の吐けない心根を知っていても飲み込みづらい言葉であった。なぜならクロードはウィノナの笑顔をたびたび目に入れていて、現に先ほども作戦会議の合間にちょっとした談笑に励んでいたのだ。その帰り道がまさに今で、少しばかり上に向いた気持ちのまま帰路についた、はずだった。
 クロードの前に居さえすれば、彼女はいつだって控えめに、けれどもおかしそうに笑ってくれる。それはこの目でしっかり受け止めている疑いようのない事実なのに、なぜローレンツはこんなことを言うのか。あまりの衝撃に言葉を失ってしまったクロードから目を逸らし、ローレンツはつくろうように、けれどもしっかりと心情と考えを伝えてくる。
「もちろん、彼女がもともと表情の変化に乏しい性格であることは理解している。現に僕は……それこそ士官学校にいた頃、彼女の笑顔をほとんど見たことがなかったからな」
「お、おお……まあ、そうだな?」
「だが! 昨年の守護の節に再会してから、共に戦う仲間となり、少しずつ心を開いてくれたのだろう。合間合間で笑顔や渋面、他にも情緒あるすがたを見せてくれるようになった。それが――」
 ローレンツは口をつぐむ。痛々しげに眉をひそめ、けれども言葉を切ることはなかった。伝えなければならないという決意が彼にあるのだろう。
「先日の……グロンダーズでの会戦から、くすりとも笑わなくなってしまったのだよ。まるで凍りついたかのように顔を動かさなくなった」
 グロンダーズの会戦――その戦いが彼女にとってどんな意味を持っているのかを、クロードは痛いほどに理解していた。
 件の戦いでウィノナはディミトリの最期を目撃している。彼がエーデルガルトを追い、帝国兵に捕らえられ、突かれては蹂躙されて死ぬ、一部始終をその目で見ているのだ。クロード自身はかの惨状を直接見てはいないけれど、ウィノナからもヒルダからも聞かされた言葉から、今際がどれほど惨たらしくも呆気ないものであったかは想像に難くない。
 ウィノナにとってのディミトリは――ディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッドという男は、祖国の王子というだけではない、もっと大きな意味を持つ存在だった。ともすれば人生の中心に、支柱にすらなっていたはずの男。彼らの関係に口を挟むつもりは毛頭ないが、それでも男として彼女を好いてしまっているせいで時としてみみっちい嫉妬の念すら生まれてしまうほど、ウィノナにとってのあの男はひどく大切な存在だった。
 もっとも、この同盟軍のなかで二人の関係を知っているのはクロードだけであるし、だからといって誰彼構わず吹聴するようなつもりは微塵もないので、相談などは全くもってやりづらい話であるのだが。
 先日、会戦後に彼女を気遣う余裕を持たなかったおのれをクロードは強く恥じ、悔いた。自分のことで精いっぱいとなり、むしろ彼女に甘えるばかりとなってしまった情けない自分を。彼女自身が深く傷ついていることはわかっていたはずなのに、それでもクロードは彼女の優しさに甘え、彼女の痛みを撫でることができなかった。きっと触れさせてはくれない、触れるべきではないのだろうという勝手な思い込みばかりで。
「グロンダーズで……ウィノナさんは、祖国の王子のみならず多くの元級友も亡くしているだろう。だから――」
 正直なところ、ローレンツの言葉はあまり頭に入ってこない。愕然とするとはまさにこのことで、クロードはいま決して止めてはいけないはずの思考回路を、停止寸前まで追いつめてしまっていた。自分が今なにをすべきか、何をするのが最善であり、どうすれば彼女の心を癒やすことができるのか――そんなことばかり考えて、けれども答えらしい答えはちっとも出てきてくれなかった。
 はあ、と深くため息をつく。今夜は星空に頼るほかないのかもしれないなと自嘲混じりに肩を竦めながら、少々訝しげであるローレンツの顔を見上げた。彼の言葉があってよかったと心中で深く感謝する。
「ありがとな、ローレンツ。お前のおかげで少し……目が覚めたような気分だ」
「む……そうか? まあいい、とにかくウィノナさんのことは他でもない君がきちんと気遣うべきだ。それが責務というものだろう」
「はは、そうだな。もちろん盟主として、たとえ兵の一人であっても欠かさず調子を――」
 言いかけて、クロードは思わず口をふさぐ。上方向からキツく降り注ぐローレンツの視線を感じ、背筋が粟立つ羽目となってしまったからだ。
 男の上目遣いなど何の役にも立たないとわかっていて、それでもクロードはちらりと彼の顔色を窺った。やはりというかなんというか、想像通り彼はその整った眉を限界まで吊り上げ、クロードのことをこの上なく睨めつけて今にも爆発寸前のようでいる。彼でなければ今ごろ落雷のような怒号が飛んできていたのだろうなと、祖国でよくよく世話になった男を思い出して足がすくんだ。
「あ……あの、ローレンツ? どうしたんだ一体……」
「どうしたもこうしたもあるか! まったく、つくづく君は貴族としての自覚や品位に欠ける男だと思っていたが、よもやこれほどまでの戯けだとは微塵も――」
「おいおいおい、謂れもない罵倒はやめてくれないか? さすがの俺も傷つくってもんで……」
「この期に及んでまだそんなふうに宣うのか!? ――いや、すまない。だが君たちは学生時代に愛しあっていたのだろう? 今もその関係が続いているのか否かを確かめる術は僕にはない、けれども一度は愛した女性が苦しんでいるなら手を差し伸べるのが男の、否、あるべき人間の姿ではないのか……!」
 ローレンツの怒声は激しくも静かで、怒りの理由が理由なだけに一応は声を絞ってくれているらしい。けれどもどれだけ声を潜めようと彼の憤怒の具合が相当なのは揺らぐことない事実であり、これが創作物であるならいくつもの青筋を立てられて然るべき姿であるとすら思えた。クロードは何も言わない、むしろ口を挟む暇もなく彼によって気圧されていた。
 そうして頭の片隅で思い出したのだ、五年前にウィノナと結託して吐いた嘘のことを。口から出まかせともいえるあの言葉がウィノナによって吐き出されたことに心の隅で喜んだ、あの淡くも愛おしい思い出を。
 クロードにはあの頃もう既にウィノナを好いていた自覚があって、だからこそ仮初とはいえ恋人という場所に立てたことをにわかに喜んでいた。どうしたって靡いてくれそうになかった彼女が、よもや向こうから歩み寄りにも似た何かを見せてくれるとは思わず……ただし現実は非情なもので、程なくして期待は簡単に壊されてしまったのだけれど。
 感傷に浸るクロードの真正面で、ローレンツは未だ眉を吊り上げながら渋そうな顔をしている。――まさか覚えてくれているとは。ただの揶揄にほかならない言葉をきちんと頭に入れていること、そして今になっても頼るべき場所として置いてくれていること。この事実は、本来ならもっと感謝するべきであろうに。
 揺れる翡翠の瞳を細めながら、クロードは小さく口を開いた。
「……お前は、本当に見上げたやつだよ」
 クロードの出し抜けな言葉に、ローレンツは血管でも切れそうなほど募らせた怒気を急にしならせる。そして三拍ののち、大きく深いため息を吐いて掴みかからんとしていた右腕をその場に下ろした。
「……共に戦う仲間なのだ、気遣うのは当たり前だろう。特に君たちに何かがあれば同盟の、ひいてはフォドラの未来も脅かされることになる。それを避けたかっただけだ」
「おっと……てっきり殴られでもするかと思ったが」
「怒る気力も失せた。そんな軽口を叩く暇があるなら、さっさと彼女のところへ行って言葉のひとつもかけてやるがいいさ」
 ローレンツが指差すのはクロードの後方で、きっと彼が先ほどまでウィノナと共にいたことを察しているのだろう。クロードはウィノナと話をするとなんとなく浮き足立っているような、有り体に言えばひどく「ご機嫌」なふうになる。
 だからこそ少し見ていればわかるのだ、クロードがウィノナに何らかの感情を抱いていることも、そしてその感情が、気遣わしげな恋心であるということも。つまりこの同盟軍において彼ら二人の関係を怪しむ……というか、確信している人間は、決して少なくないのである。
 べし! と少々乱暴に背中を押すローレンツは、ややよろけながら歩き出したクロードに背を向けて何も言わない。無言で送り出すように、もう憎まれ口も何も飛び出してはこなかった。
 クロードはそのまま前に進む。少しも振り返ってはいないであろう彼の背中を思い、小さく独りごちながら。
「お前がここにいてくれるからこそ……俺は、俺の夢が追えるってもんだ」
 上階にある枢機卿の間を思い、クロードはいささか大股で歩みを進めた。何をどう伝えるべきか、その言葉を脳の内にて必死にこねくりまわして。

 
20210518 追記修正
20200930