まるで、星が降るような

「こんにちは、盟主様。ご機嫌いかがかしら?」
 小気味よく扉を叩く音は二回。返事をする前にかけられた声色はいやに落ちついていて、クロードは少々目を丸くしながら応対のために立ち上がった。
 けたたましく取っ手を鳴らしながら扉を開く。そこにいたのは想像通りのウィノナであったが、彼女の様子はクロードの予想に反してひどく穏やかそうに見えた。
 つい先日あんなことがあったばかりなのに……? そう思わずにはいられなかったが、どこをどう見ても無理をしているようには感じない。例えるならば水面のような、彼女の顔は波ひとつないふうに静まり返っているのである。先立っての戦い――グロンダーズでの「同窓会」で疲弊したおかげで目が鈍っているのかとも考えられたが、おそらくそういったわけでもない。ならば、なぜ。
 いぶかしむばかりのクロードを見て、ウィノナはくすくすと笑いながら部屋のなかへと入ってくる。相変わらず汚い彼の部屋は学生時代から変わっておらず、床にも寝台にも机にもごちゃごちゃと分厚い本が散らばっていた。同盟諸侯と幾度もやり取りしているために書簡や紙の束も山積みになっていて、この惨状を見て難色を示さない人間は少ないだろう。たとえばハンネマンやアネットなら発狂してしまいそうだ。
 クロードは問うた。どうして、ただその一言を。
「それは……どうしてここに来たかという理由を訊いているの? それならこの前のあなたと同じよ、あなたのことが心配でやってきたの」
「心配、って……むしろ心配されるべきはお前のほうじゃないのか。見たんだろ、あいつが――」
「ええ。ヒルダと一緒に、一部始終をね」
 ウィノナの声は凪いでいる。意志の強い瞳は変わらないが、なんとなくどこか遠くを見ているような、ささやかな虚無を抱いているような印象を受けた。目があっているはずなのにこちらを見ていないような、光をなくしているような。生気を、失っているような。
 思わず伸びかけたクロードの手を、ウィノナは打って変わった視線で制す。その目はただ冷たいばかりで、感情の意図が読み取れない双眸に思わず背筋が凍りそうになったが……そんな彼にはお構いなしとばかり、ウィノナはクロードと距離を詰める。歩み寄る前のほんの刹那、口元だけでゆるく微笑みながら。
 ぐいと近寄ったウィノナは、クロードが身構えるよりも先にその手を引いて、いくらか体格の良い彼の体をかき抱いた。それはかつてクロードが何度もウィノナにしてやったことで、彼女が嘆きに溺れそうになるたび何度もこの身を抱いたのだ。もっとも最近は体を重ねることはなく、ただ単純に、子供のように、はたまた友人のように優しく抱きしめるばかりであったが。
 細い女の体に我が身を委ね、クロードは思わず息をつまらせる。これほどあっけなく傾いでしまったのは、油断や疲労、あとは彼女の怪力のせいということにしておきたい。彼女に心を許してしまっているからこそ、こうして不意をつかれてしまったのだと。
「これが、今の私のやりたいこと。あの子の死を無責任に悼むより、哀しみにくれて今日を無益に過ごすより、何倍も」
 ウィノナの体は温かかった。先程の視線からは露ほども感じられない安心感に、クロードは固く閉ざした何かが溶けるような感覚をめばえさせる。……決して触れたくなかったもの。今はまだ、触れてはいけないはずのもの。恐ろしさにも似た彼女の慈愛はきっと毒にもなるのだろうと、堕ちそうな自分をすんでのところで引き留めながら考えた。
 グロンダーズでの惨状を見た。血と肉塊が転がる戦場。顔見知りもどこかの誰かも帝国民も王国民も、皆が等しくあの平原に無残に打ち捨てられていた。鉄の匂いは未だ消えない。弓を射ち、剣を操り、何人もの命を断った。目的のための犠牲だと割り切ろうとした。けれどもクロードにはそれらを「必要なもの」だと完全に切り捨てることが出来ず、彼はいつだって人の死に苦しんできた。
 おのれの繰り広げた惨劇を前に足が震えそうになる。今だって、目を閉じれば悲鳴と慟哭と嘆願が頭のなかで木霊するのだ。彼らにも人生があった。彼らにも、守るべき日常や帰りたい家や大切な人がいたのだ。味方には何がなんでも生きろと偉そうにのたまうくせに、敵の命はこうも簡単に奪ってしまうのだなと、おのれを嘲って明かした夜は決して少なくない。
 散った命を思うたびに決意が揺らぎそうになる、そんな迷いをいつも笑顔で覆い隠してきた。人間は一人では生きられない弱い生き物である。だからこそ手を取り、心で触れ合うその裏側で、ただの一度も弱みを見せずにひたすら道を進んできた。皆で笑いあい、寄り添いあえる未来のため、心の奥に孤独を抱えながら戦ってきた。クロードは自分が強くないことを知っていて、だからこそ弱点を晒さぬように生きてきたのだ。
 腹黒だとか信用できないとか言われたって、それこそがクロードにとっての自衛手段であり処世術だったのだから、他人にとやかく言われたくらいでその生き方を変えられるわけがない。今更おのれを壊したくはなかったから。
 そして、決して平坦ではない人生のなかで培った砦が、何度も何度も重ねた笑顔でつくった強固な鎧が、今にも溶けてしまいそうな恐怖を全身に浴びている。逃げ出したい、けれどもこのまま縋っていたい。このまま委ねてしまいたい……でも、そんなことは許されない。
 そうやって喉を嗄らしてがなるのは、クロードのなかに住むもう一人の、ひとりぼっちのカリードであるのかもしれない。
「……ねえ、クロード。私、何にも感じなかったの。あの子が――殿下が倒れ伏せるところを見て、駆け寄ることも、哀しむことも、何にもできなかったのよ」
 ウィノナは語る。彼女の語り口はやはり落ちついていて、それは崩れそうなクロードの理性をギリギリで引き留めるための気遣いであるようにも思えた。
「あの子……死に物狂いでエーデルガルトを追いかけていたわ。まるで何かに取り憑かれたように、他の誰にだって目もくれず。きっと私のことも見えていなかったでしょう……なんて、仮に見ていても、あの子は私のことなんて何とも思っていなかったでしょうから」
「……元級友、くらいの情はあるんじゃないか」
「ふふ、どうかしら。青獅子の学級であの子と話したことなんて、本当に数えるほどしかないもの。あの様子じゃあ顔すら覚えてなかったかもしれないわ」
「…………」
「馬鹿よね。あの子に会いたくて士官学校に入学したはずなのに、結局私はあの子と何の縁も結べなかったし……もし私がそばにいたとしても、私はあの子があんなふうになるのを止めることは出来なかったって、なんとなくだけどわかるのよ」
 自嘲が混じったウィノナの声。やわい手のひらが後頭部を撫でる、その感触は遠い日に触れた母の手のひらを思い起こさせた。
 何をどうと言うつもりはないが、おそらくウィノナは母に似ているのだと思う。先代リーガン公オズワルドの一人娘ティアナ、彼女は敵国の王に惚れ、家はおろか国まで飛び出した骨のある女だ。別にそれを理由として彼女に好意を抱いたわけではないが、ただ破天荒で気が強くて女傑と言うに足る母は、クロードにとって非常に大きな存在だった。母が母であったからこそ「フォドラの人間は臆病者だ」なんて偏見にまみれずに済んだのだから。
 そして、そんな母に似た彼女に心を奪われているという事実は、もしかするとある種の巡りあわせであるのかもしれないと、ここ数節でたびたび考えるようになった。
 自分たちの縁を運命だなんて言葉で表すつもりはないが……それでも、ここにあるのはある種の必然であるのだと、そう思ってしまうのだ。
 彼女の手に撫でられると、なぜか幼い頃の思い出がゆらゆらと思い返される。やがて甘ったるい微睡みすら感じそうになるのを、クロードはなけなしの理性と気力で耐えていた。
「でも、今の私がそばにいたいと思うのは他でもないあなただから……なんて、こんなことを言っていたら、いよいよ売女だなんだと背中を刺されてしまうかしら」
 ぎゅう、とウィノナの腕の力が強まる。決して体を傷つけるものではない、ただクロードを繋ぎとめるための力。ウィノナの想いがそのまま伝わってくる気がして、過剰にまわるはずの口もすっかり黙り込んでしまい、もはや何も言えないままこの愛を受け取ることしかできないでいる。
「……ねえ、クロード。あと少し、もう少しというところで踏ん張る気持ちは理解できるわ。ただ、あなたの夢のための戦いは、きっと帝国の向こう側にだって続いているものでしょう? いつ終わるかわからない戦いのために無理なすり減らし方をして、最後の最後で心を折ってしまうのは愚か者がやることではなくて?」
「……何が言いたいんだ」
「そうね……簡潔に言うなら、私と二人のときくらい休んでもいいのではないかしら。あなたが私にしてくれたのと同じように、私だってあなたの力になりたいのだけれど」
 ――瓦解とはこういうことを言うのかもしれない。クロードはひどく本能的に、そして心の奥深くで強く理解をしてしまった。
 自分よりも小さな体にみっともなく縋りついて、叶うならこのまま夜明けまで愚痴や不安をぶつけてしまいたかった。愚か者に指をさされ、赤子にすら嘲られるような、見苦しくも不細工な惨状を晒してしまいたくなった。盟主としてではなくただのクロード=フォン=リーガンとして、たったひとりの個人として、何もかもをかなぐり捨てて。
 けれどもクロードには夢がある。少なくない犠牲を払っても解き明かしたい謎とたどり着きたい景色があって、そのためにはこんなところで膝を折るわけにはいかないのだ。
 だから――今だけはこの愛おしいぬくもりに抱かれて、ほんの少しの休息を得ることだけ許されたい。明日からは前を向いて変わらぬように笑うからと、誰でもない自分に許しを乞うて身を預け……クロードはただ、ゆっくりと目を閉じた。

 
20200825
20200930 加筆修正
20210318 加筆修正