月を想うて耽る夜

 当初の予定に、ウィノナを連れてくるような運びは一切なかった。
 リーガン家にはベレトのみを連れてきて、彼の顔や立場を使い貴族たちを黙らせ――もとい、交渉を有利に運ばせてもらって、あとは諸用を済ませて終わり……という算段であったのだ。いささか時間はかかるだろうが、それでもウィノナなら居残り組やセイロス教の面々と共に健やかに過ごしてくれると思った。クロードの中にいるウィノナという人間は、きっと自分がいなくても大丈夫な強い女であったから。
 けれど、そんな認識はまったくの思い上がりだと知ってしまった。あいつを一人になんてしておけるわけがない。あんなにも脆く頼りない彼女を放っておけるわけがないのだ。そばにいないと落ちつかない。無理にでも近くに置いておかないと、またどこかで何かに潰されそうになっているかもしれないから。
 そう考えを改めたからこそ、クロードは半ば有無を言わさぬかたちでウィノナを同行させたのである。
 彼女のことを……好きな女をたった一人にしておくなと、そう叫んでいたのは野生の勘、もしくはおのれの中に眠る何某かの怪物だ。
「ったく坊主よ、お前も隅に置けないねえ。まさかあんな上玉の姉ちゃんを捕まえてくるなんて」
 分厚くも大きな手のひらに何度も背中を叩かれて、クロードは息を詰まらせながらよろける。無骨な腕を払ってじっとりとした目で見れば、ナルデールは――名将ナデルはくいと片眉を上げてみせた。
「やめてくれ、あいつはそんなんじゃない」
「おっと、見え透いた嘘はやめるんだな。あれだけピッタリ隣にくっつけといて、そんな言い訳は無理があるってもんだ」
「ぐ……!」
 ナデルにはいつだって敵わない。それは幼い頃からずっと――それこそ物心ついたばかりのときから、クロードは一度だって彼に勝てたことはなかった。腕っぷしはもちろん口でだってほとんど歯が立たなくて、頼もしい反面いささか居心地の悪さもある。
 呵々として笑うナデルは渡り廊下のほうに目を向け、ベレトと連れ立って歩くウィノナを見ながら顎髭を擦るようにしている。来賓である二人はどこか物珍しそうにリーガンの屋敷を見てまわっていて、迷子にはなるなとだけ言いつけてある程度好きにさせていた。
 このところ戦いが混んでいたし、何より先日アッシュとの一件があったばかりだ。ウィノナはもちろん、ベレトだってかつての生徒を打ち倒してここへ来た。傭兵上がりの彼ならば人を斬ることにも躊躇いはないのかもしれないが、それでも「きょうだい」である手前、余計なお世話を焼かずにはいられなかったのである。
 同盟の建築物が珍しいのか否か、二人の背中はどこかはしゃいでいるようでもあって、五年ぶりの光景にどこか胸のすく思いがする。
「ほう……なるほど、あれがねえ――」
 一方、これみよがしに言うナデルの口振りはクロードの恋路を観察しているようでもあり、ウィノナを探っているようでもあり。はたまたただひたすら楽しんでいるようでもあって、わかりやすいようでまったく思惑が読み取れなかった。その印象が普段クロードが抱かれがちなものであるということは、もしかすると本人だけが気づいていないことかもしれない。
「まあでも、確かにお前が好きそうな女ではあるな。気が強そうで、芯があって、少し上手をいくような」
「…………」
「強い女だ。……いや、その強さも見せかけのものとみた。そして、だからこそ心根を暴いてやりたくなる。そうだろ?」
「なっ――なんで、いや、別に図星とかじゃあないが」
「はっは! これでも百戦無敗のナデル、女にだって負けたことはねえのよ」
「デカい声出すな! 聞こえたら困るだろうが――」
 ナデルがひときわ大きな声をあげた刹那に、クロードはちょうどウィノナと目があってしまった。次いでこちらを見てくるベレトも硬めの眉間をじわと寄せていて、訝しまれているのは明白である。探るような二人の視線がいやに突き刺さり、クロードは思わずうろうろと視線を彷徨わせた。
 そうして半ばごまかすように小さく手を振ると、予想外にもウィノナは目元を緩ませて同じように手を振り返してくる。軽い会釈にも等しいようなそれであったが、それでもこのクロードにはなかなかの打撃であったようで。
「――おい、坊主」
「なんだよ……」
「お前、今ときめいただろ」
「うるせえ!」
 たとえどれだけ距離があったとしても。愛おしい女から返ってくる反応というのは、いつだってこの胸に矢を突き立ててくるのである。

 

「ナルデール……だったかしら? あの人、なかなか怖い人ね」
 夜空に浮かぶ月を見上げるウィノナの横顔は、どこか憂いを帯びているように見える。
 無意識に頬の輪郭を目で追っていたらしく、彼女のひと声でようやっと現世に意識を戻したクロードは、数度瞳を瞬かせて姿勢を少し正した。頬杖ついてぼうっと顔を見ていただなんて、そんなこと知られたくはない。
「どうした、あの髭面のせいか? まあ、フォドラではなかなかお目にかかれない見てくれだとは思うが」
「違うわよ。……あの人、自信があるのはきっと武勲だけじゃあないでしょう? あの目で見られると……そうね、ツィリルと話してるときに似てるわ。とても鋭い目をしてる」
 パルミラの人ってみんなそうなの? そう次ぐウィノナはその目を夜空に向けたまま、どこか上の空でもあった。
 悟られたくない過去があるのか、後ろめたいものがあるのか。わからない、けれどそういった瑕は誰もが抱えているものだと思っているし、ナデルが無理に踏み込んですべてを壊していくような、そんな不躾な真似をする男でないことも知っている。ゆえにいささか食い気味に口を挟みそうになるのを堪え、クロードは彼女に悟られぬよう静かに深呼吸をした。感情を高ぶらせたまま話をするのは賢くないと、決して長くない人生の中で嫌というほど理解しているから。
「それはつまり、俺と話すときにもそんな気持ちになると。なんだよ、淋しいじゃあないか」
「あら……気を悪くしたかしら。ごめんなさいね、あなたの目が怖かったのはもう昔の話よ」
「昔……って。おいおい、どちらにしろ怖がってたのは否定しないのか」
 からり。ウィノナの手によりゆっくりと窓が開けられて、同時に冷たく差し込む風が窓掛けをふわりとはためかせる。孤月の節に吹く風はやはりまだまだひんやりしていて、呆けた意識が少し引き締まる思いだ。
 ウィノナも、きっと同じだろうか。彼女は夜風に小さく肩を震わせて、硝子を取っぱらった月を見ては自嘲したように笑みをこぼす。その笑みの理由も出処も、今のクロードにはちっともわかりはしなかった。
 それでも、彼女の瞳に浮かぶものが悲嘆と諦念であることだけは、なんとなくでも察することができる。五年前には決して見せてくれなかった横顔であることも。
「ごめんなさい、なんだか変な話をして。そうよね、あなたにとってナルデールさんは家宰でもあり、夢を叶えるための大切な同志だもの。こんな話はするべきじゃないわ」
「お前が話してくれることなら、俺はなんだって楽しく聞けると思うがね」
「いやだ、口説いてるつもり? やめてちょうだい。そういうのはもう終わったでしょう」
 ウィノナは静かに目を伏せた。そして、ひどく上等な造りの窓をゆっくりと閉じ、クロードについと目配せして部屋を出て行こうとする。もう寝るだのなんだのと、どうにも適当な理由をつけて。
 けれど、そう、逃がすものかと。今ここで逃がしてやれるほど優しい人間ではないのだと、クロードの心が、どこかに巣食う怪物が叫ぶように告げている。その声は、とぼ、とぼ、どこか沈んだ足取りで扉に向かうウィノナの背を大股で追いかけさせた。
「――俺がそう簡単に帰すと思ったか?」
 とん、と扉に手をついてやる。今まさに取っ手に手をかけて出て行かんとしていたウィノナの、その背後に静かに立って。
 別にそれは何か、たとえばあの寝台へ誘うような意図があるわけでもなく。否、もちろん少しでも意識しろと働きかけたかったのもあるが、ただ純粋に名残惜しい気持ちのほうが大きいだろうか。
 リーガンの屋敷、それも自室で二人きり。あの頃のような「恋人ごっこ」に準じた触れ合いがあるわけでもないが、ただ単にそばにいたかった。他愛ない話をして、穏やかに二人の時を過ごして。あと少し、もう少しと、永久にも等しい刹那を求めてしまっていたのである。
 それはきっと、しつこくも純朴にたった一人の女を想う、ひたすらの恋心だった。
「――あなた、本当に残酷な人だわ。そんなことして、私が何も感じないとでも思っているのかしら」
 けれど、クロードの揺さぶりに返ってきたのは色好い返事などではなく……どうにもひどく傷ついたような、弱い女の声のみだ。
 扉に額をつけたウィノナが吐き出す小さなため息を、クロードの耳は聞き逃さなかった。そこに込められた感情が何なのか、彼女が何を思っているのか、その答えからは目を逸らす、ズルい男の顔だけして。
「五年前より手練になってるようじゃない。結構な数の女の子を泣かせてきたようね?」
「な……そんなわけないだろ、俺は――」
「聞きたくない! ……お願い、やめて。私、あなたのことが好きだと言ったわ。でもね、だからこそ、そういう冗談はやめてほしいの」
 おねがい。みたび聞かされた懇願の言葉は、今にも崩れそうなほどに震え、弱々しくこの場に響く。
 冗談なわけがないだろうに。日頃の行いと言われれば確かにそれまでであるのだが、しかしクロードがウィノナに吐く言葉について、そこに冗談や揶揄の類などもはや一切残っていない。ただひたすらに彼女が好きだ。彼女と一緒に夢を叶えたい。ずっと隣にいてほしくて、叶うなら故郷にすら連れ立ってほしいと思っているのに。
 この女はここまで頑なだったか。否、学生時代はこれよりはもう少しだけ柔軟な人間であったと思うのだが――そうなるとやはり謎に包まれた五年に興味がいくわけで、ああ、つまり彼女は離ればなれのあの時間にそれほど手酷い目にあったのか、と思い至る。
 オフェリー伯爵の人となり。もしくは、彼が何をしたのか。彼の動向を探っていけば、ウィノナが一体どんな五年を過ごしてきたのか、完璧な答えに辿り着くことはなくとも、もしかすると足がかり程度は手に入れられるかもしれない。
 ウィノナは探られることを嫌う。知られたくない過去のひとつやふたつは誰だって持っているもので、しかしそれが彼女をそばに置くための秘訣になるとするならば――このクロード=フォン=リーガンに、それを無視する選択肢はないのだ。
 ただひとつ問題があるとすれば、この戦時下、しかも夢への前進を続ける日々のなかで、果たしてそれを手繰る暇があるのかというところなのだけれど。
 押し黙ってしまったクロードを訝しんだのか、俯いたままだったウィノナがふと顔を上げて振り返る。ギリギリの体裁を保ってはいるものの、しかし今にもくずおれそうな彼女の表情は勇み足となったおのれを叱っているようで、ぎちと不快な音を立てて胸が痛む。
 揺れる水色が後悔と不安に飲まれる。じわりと涙が膜を貼るのを、やはりこの目は見逃さなかった。クロードはまるで誘われるように、まるい頬へと手を伸ばすが――
「すまない、クロード。少し話が――」
 刹那、いささかせっかちな音を立てて部屋の扉が開かれる。隙間から顔を出したのはまばゆい黄緑、ベレトであった。
 どうにも不可解……というか、お呼びではない空気をさすがの彼でも察することはできたようで、ベレトは言葉を次ぐ間もなく再び扉を閉めようとする。もっとも、その開閉はウィノナの剛力によって阻まれてしまったし、隙間を縫うようにして出て行かれてしまったのだが。
「……もしかしなくとも、自分はいわゆるお邪魔虫というやつだっただろうか」
「いや……邪魔どころか助け船だ、きょうだい」
 ありがとうな、というクロードの言葉を、ベレトは眉間にしわを寄せ、首を傾げながら受け取っている。

 
20210318