それは海にあらず

「その……渡していいか、迷ったんだが。あいつの持ってた弓だ」
 クロードが差し出したのは、拭いきれない使用感と血の跡が残るキラーボウだった。
 一挺のそれは先立っての戦いで得た戦利品であり、誰の遺品かと言われたらアッシュ=デュランに他ならない。彼は五年前の青獅子の学級に所属していた生徒で、金鹿の学級に引き抜かれるまでウィノナが机を並べていた男だ。
 クロードは知っている。ウィノナが人付き合いに消極的で、同学級の相手ともあまり交流を持たずにいたこと。金鹿の学級の人間とも今になってやっと積極的に関わり始めたほどで、学生時代から彼女と深く付き合っていたクロードからすれば、よほど猫被りに精を出していたのだと考えられる。入学の目的に掲げていたディミトリとすら目立って話すことも出来ずにいたのだから、それ以外の生徒なんて希薄も希薄な交友関係だと思っていた。
 けれど聞いてしまったのだ。アッシュとウィノナ、二人が相対しているときの聞き捨てならない会話を。弓を向け、剣を握りながら交わしていた、恋人にも等しいようなやり取りを。
『不思議ね。こうして剣を向けただけなのに、あの日々がまるで昨日のことのように思い出されるわ』
『奇遇ですね……僕もです。君じゃなければよかった、そう願わずにはいられない。でも――悔しいかな、あの女の子は、どうしようもなく君だった……!』
 やがて響いたアッシュの断末魔によりその憧憬じみた空気はかき消され、ウィノナは彼の返り血を浴びたまま、淡々と残りの兵を片づけていった。老騎士グェンダルへ無慈悲にも振り下ろされた彼女の刃は、今までクロードが見てきたどんな剣戟よりも静かに、そして鮮やかに益荒男の人生を断ったのだ。
 何も変わらないように見えた。表面上は、いつも通りのウィノナのようであった。氷のように無表情で、何の躊躇いもなく人を斬る、そんな場面を何度だって見てきたから。
 ただ、そこはいわゆる惚れた弱みにも近しいもので……彼の目に映るウィノナは、きっと誰よりも脆い後ろ姿をしていたのである。
「これは……アッシュのものね」
「ああ。先生が回収したあと、一度は輸送隊に預かってもらっていたんだが……使うと言って貰ってきた。何のために取りに行ったかは気づかれてただろうけどな」
「そうね、先生は私たちのことをよく見てくれているもの。……そう、これをアッシュが使っていたの」
 クロードから受け取ったキラーボウを、ウィノナは噛みしめるようにして握りしめた。くるくると角度を変えては懐かしむように弓を見つめ、けれどもやがてうなだれたように両手をおろす。はあ、と漏れたため息は涙ぐむように震えていた。
「あなたは聞いていたのかしら、私とアッシュが何を話していたのか」
「まあ……それなりには」
「そう。……なら、あなたは私たちの関係を知りたくて――」
「おっと、勘違いしないでくれ。今は謎や秘密は二の次だ」
 す、と手のひらをウィノナの眼前にひらつかせ、クロードは彼女の言葉を切る。
 今二人が逢瀬に浸っているのは、かつて士官学校に通っていた頃に寝泊まりを繰り返していた寮の一室。そのなかでも二階の階段近くにある、ウィノナに割り当てられていた部屋だ。懐かしいような苦しいような、ひどく複雑な空気が充満しているように思え、クロードは話の途中ながらきゅっと唇を引き結ぶ。
 会話のさなか、ふと寝台のほうに目を向けるとあの頃の――何度も授業を抜け出してはこの細い体を抱き、共に過ごした甘ったるい記憶が蘇ってくるようであった。
 否、けれどもこの場に雑念などは必要ない。クロードはうろうろと彷徨っていた視線を、すぐにウィノナのほうへ戻した。
 この部屋はクロードからすれば自室への通り道に他ならないのだけれど、それでも彼は自室なんかより何倍もの重要性と必要性を感じてここに来た。ウィノナがひとりで部屋に帰っていたのを知っていたし、こんなときに彼女をひとりにしておけるほど、非情な甲斐性なしのつもりもない。
「俺はな、お前のことが心配でここまでやってきたんだよ」
 どうしても芝居がかった口調が抜けないながらも、今クロードが吐き出したのは本心中の本心だ。彼は輸送隊からキラーボウを受けとってまっすぐにここを訪れた。もつれそうな足を必死で動かして、道中で衣服を整えながらここまで足を運んだのだ。
 しかし、正直なところこの弓は彼女と円滑に話をするためのきっかけ作りに過ぎない。もちろんこんなものがなくったって話はいくらでも出来たろうけれど、そこは抜け目なく事を運ぶのがクロード=フォン=リーガンという男だ。
 彼の気持ちは伝わっているのかいないのか、ウィノナはゆっくりと口を開く。聞いてちょうだい、という力ない一言から始まる彼女の言葉を、クロードは沈黙という肯定で促した。
「……私ね、小さい頃は母に閉じ込められて過ごしたの。家の中から出してもらえなかったから」
 俯いたまま、ウィノナがぽつりぽつりと半生を語り出す。これから紡がれる物語はきっと、五年前には聞かせてもらえなかった彼女の核心に迫る話だ。
「たまにオフェリー伯が顔を出すことはあったから……まあ、基本的に関わりを持てたのはその二人だけ。母と子の生活にしては上等な家ではあったけれど、それでもあの、檻のような家から私はほとんど出られなかった。結局、その生活を十四歳になるまで続けたのかしら」
「それは……もしかして、お前の紋章が明るみに出るのを恐れて?」
「多分ね。ブレーダッドの……王族の紋章を平民が持っているなんておかしいし、紋章を抜きにしても私は力が強かったから。少しでも間違えれば国を揺るがす事態になっていたかもしれないもの」
 ぽすん。ウィノナは、力なく倒れ込むようにしてクロードに身を預けてきた。肩口に額を押しつけているおかげでその表情は見えないが――それでも、どんな顔をしているかくらいは想像できる。口には出したくないけれど。
 弓ごと彼女の体を抱きしめれば、ウィノナは一瞬だけ身を強張らせ、けれどもすぐに力を抜いた。
「とにかく、私はとても閉鎖的な幼少期を過ごして……でも、その鬱屈した毎日を壊してくれたのがアッシュだった。発端はあまり穏やかではなかったのだけれど、それでも私は彼のおかげで救われたわ。彼がいたから少しだけ顔を上げることが出来たし、彼のために家を抜け出すことも覚えた。私にとっては特別だったの」
 ――特別。その言葉をよもやこんなところで聞くことになるなんて、クロードの胸の奥に小さな膿が湧いてくる。その膿を掬い出す裏側、きっとアッシュもそうだったろうなどというひどく無責任な言葉が口をついて出そうになったことを恥じた。確信のない想像の、よりによって死者の言葉を借りるなど無礼にも程がある。
 しかしあの会話を思えばアッシュがウィノナに対して何らかの感情を抱いていたことは明白であり、クロードはウィノナを抱きしめる傍らに奥歯を噛みしめ、けれども今だけは真摯に彼女の言葉を待った。ゆっくりでいい、急がなくていいと、絶えずその背を撫でてやるとびくつきながらも安心したように息をついて、その様に胸を締めつけられるような心地がする。
「あの瞬間までお互い気づいてはいなかったけれど……初めて斬る顔見知りがあの子だなんて思わなかったわ。こんな『初めて』、ちっともほしくなかった……!」
 途端、ぐずりと鼻を鳴らす音がして、正直なところぎょっとした。アッシュが彼女の心を占める割合にも、ここまで感情を乱すウィノナにも。五年前にも一度だけ感情を揺り動かしたことがあったけれど、しかしあの日だって彼女は一度も泣かなかった。怯える自分をひた隠すようにかき抱いて、そういえばあの日から彼女との関係が始まったなと、クロードはどこか頭の隅で懐かしむように思い耽る。
 過信していたのかもしれない。彼女は強い人間であると。クロードただひとりのために家を潰してまでやってきた彼女なのだから、そもそもの関わりが薄かった元同級生を斬るなんて造作もないことなのだと。だからこその采配で、だからこその結果だと思っていた。
 クロードは忘れていたのだ。ウィノナが自分と同い年の、ただの女の子であることを。
 程なくして起こった慟哭を、クロードはただ無言で受けとめた。ぐちゃぐちゃに乱れる吐露の言葉も、涙も、強く縋りついてくる腕も。今だけは何の言葉も無粋であると判断したのだ。沈黙だけが彼女を癒やして、彼女の嘆きを受け止められると思った。
 ウィノナは強くなんかない。ただ少しだけ気が強くて、不器用に強がって、意地を張って。けれどもその皮を剥がし、やわい肌に触れてみると脆くも危うい女が顔を出してくる。
 知っていたはずなのに。わかっていた、つもりだったのに。あの頃からずっと、等身大の彼女を何度も見てきたはずなのに。
 恋は理想を投影して、この眼を曇らせてくる。泣きじゃくる少女の体を掻くように抱きしめながら、クロードはおのれの思い上がりを強く悔いていた。

 

 どれだけ彼女は泣き続けたのか。やがて収まってきた肩の震えに、そっと胸をなでおろす。後頭部に優しく触れると擦り寄りたいのか嫌がっているのか、少しだけ頭が左右に揺れた。
 どうした、と声をかけてはみるものの、帰ってきた声がぐずぐずのぐしゃぐしゃであったせいで、彼女が何を言ったのかはよく聞き取れなかった。
「あーあー、せっかくの綺麗な声が台なしだな。……ま、たまにはいいか」
 軽口を咎められているのだろう、べし! と背中を叩かれて息が詰まる。それなりに加減されていることはわかるが、普段よりもいくらか激しいそれに些かよろめきそうになった。
 思ったよりは元気そうに見えるけれどこれもおそらく虚勢であって、まあ、それでないなら照れ隠しの一種だろうか。負けないくらいの力でぎゅうぎゅうと抱きしめてやれば、勘弁してくれとばかりに体を剥がされてしまった。
 名残惜しい気持ちを押してウィノナを見ると、やはりと言うべきかなんというか、脆い女そのものの姿をしている。いつも綺麗に整えられた髪は乱れ、化粧も涙で落ちているし、目元だって泣きはらして真っ赤だ。とてもじゃないが人前に出られる姿ではなく、けれどもこれこそがひどく魅力的だとクロードには思われた。
 いつも凛として隙を見せないウィノナであるからこそ、こんなふうに弱さをさらけ出しているさまにひどく情と欲をくすぐられる。もしかすると、この姿を求めていたから自分は何度も彼女のことを抱いて求めていたのかもしれない。
 クロードの視線が居たたまれなくなってきたのか、ウィノナはふいと顔を背け、小さく何かを話し出す。
「……ごめんなさい、みっともないところを見せて」
「構わんさ、俺とお前の仲だろ? お前のしどけない姿なんて房事のたびに見てきたし――」
「あら……随分なことを言うのね、あなたは」
 弱々しい声と、弱々しい表情。腕までが弱々しいとは言えないが、普段より力加減のブレがあるあたりに彼女の隙と動揺が見て取れる。
 叶うなら再び抱きしめたいし、五年ぶりに彼女を感じたい。その悲哀ごと貪りたい。誰もいない部屋に二人きりなうえ今まで見たこともないほど乱れた姿を晒されているのだ、据膳食わぬは男の恥と言うように、今ここで手を出さない男はきっと多くはないだろう。始まりの日もそうだった。クロードは、弱ったウィノナにつけ入るようにして関係を始めてしまったのだから。
 けれどもあのときとは決定的に違う点があって、それこそが相互に向かっているはずの好意なのだけれど――だからこそ、ここで彼女を組み敷いてしまうのは違う。向けられている好意をこんなことで利用したくはなかったし、今ですらギリギリ立っているようなウィノナを、よもや自分の手でまで傷つけたくはないのだ。
 クロードはウィノナに手を伸ばす。丸い頭を優しくなでて、そのまま頬に手を滑らせた。涙のあとが残る輪郭を親指でなぞり、慈しむような目を向ける。彼女の顔を見ていると色々と思うことがあって、それこそ愛おしいとか守りたいとか、けれども今度は自分の手でもっとめちゃくちゃにしてやりたいとか、次から次へと浮かぶ衝動を腹の奥で静かにさせる。
 彼の視線に何を思ったのかはわからないが、ウィノナは再び目を閉じて、縋るようにクロードの胸へ倒れ込んだ。
「……ごめんなさい。もう少しだけ……」
 返答の代わりにその体をかき抱く。頬を寄せてキツく抱きしめれば、ウィノナは息をつまらせてまた嘆きの波を立て始めた。
 決して広くはない寮の一室に満ちるそれは、きっと飲み干してしまえないほど大きく激しいものなのだろう。

 
20210214 加筆修正
20200822