君が歩んでくれるなら

 ――ねえ、クロード。私ね、あなたにひとつだけお願いがあるのだけれど……
 夢のなかに現れる彼女は、いつも決まって何かを言いかけて、そして口をつぐんでから消える。その姿はまるで何も言えないままの、一番伝えておくべきだった言葉を隠したまま離れてしまった自分を責めているようで、夢から覚めるたびに後悔の念に苛まれた。
 どうして言わなかったのだろう。どうしてこの、猛るような想いを伝えないで、その手をがんじがらめにしないで離してしまったのか。思いつめたような、けれども吹っ切れたような彼女を前にあと一歩を踏み出せないで、結局“恋人ごっこ”を変えることなくぶつりと縁を切らしてしまった。
 後悔は先に立つことなく、五年という長い月日のあいだ、ずっとこの心に巣食ったままだ。
 今日も彼は――クロード=フォン=リーガンは、たったひとりの寝台で夜を明かす。あの頃の、愛しく思っていた女と過ごしたまほろばのような夜を、ちっとも忘れられないままで。

 
 千年祭の日、とうとうウィノナは現れなかった。
 元はと言えばあれもただの口約束であり、むしろ級友の大半が集まっている現状のほうが異常であるのかもしれない。五年前に比べ、皆それぞれ自由な身ではなくなってしまった。夢を諦めざるを得なくなった者、望まぬ結婚を強いられるはずだった者、家の存続自体が危ぶまれる者など、苦難は皆さまざまだ。こんな言い方をしてしまっては問題がありそうだが、戦争のおかげで夢の断絶が先延ばしになり、その場しのぎの安寧を手に入れた者もいるだろう。
 ――ウィノナは果たしてどうだったのだろうか。クロードは、見慣れたようなそうでもないような天井を意味もなく見つめながら、かつて懇意にしていた少女のことを思い返していた。
 一度だけ……二人にとっての最後の夜に、クロードは彼女の出自について、掻い摘んでだが聞かされた。彼女が持ち得ている紋章の秘密。血統の謎。それはクロードが思い描いていたものと変わらないようでいて、しかしそれよりも遥かに壮絶な半生であった。彼女が時おり見せる年齢不相応に大人びた、蠱惑にも似る振る舞いの出処を掴み、背筋を粟立てたのも記憶に久しい。
 ウィノナは言っていた。士官学校を卒業すれば自分も適当な男と婚姻を結んで、オフェリー家の礎にさせられるのだろうと。そのときの彼女の声色は悲嘆よりも覚悟を匂わせているようであって、きっとおのれの運命というものを受け入れてあそこに立っていたのだろうと思う。けれど彼女のように強い人間が抗わなかったわけはなくて、きっと抗って抗って抗い続けて、そしてなんとか掴みとった自由な時間が、士官学校で過ごせるあの一年だったのだ。
 クロードは思う。そのあまりにも短すぎる自由の大半を割いて、他でもないこの自分と過ごしてくれていたのだと。それは思い上がりでも何でもないありのままの事実であって、その証拠に彼女はクロードにだけ本来の顔を見せた。
 人を避け、距離をつくり、慇懃に振る舞うのではなく、破天荒な母親、もしくは世話になった女傑を思わせるような凛然とした姿こそが彼女の本質だ。他人に壁を作りがちな彼女がああやって自分にだけは本音を曝け出してくれていたことに、クロードは自分でも気づかないような小さな優越感を抱いていった。その優越感はやがて少しずつ膨れ上がり、名前を持った怪物、もしくはある種の感情として芽生えたのがきっとあの日の――鷲獅子戦を終わらせたあと、祝賀会の夜だった。
 ただ、ひたすらに好きだった。だからこそ何度も夜を共にしたし、恋人のような営みを繰り返した。彼女にだけはこの渦巻いた腹のうちを見せ、野望を晒し、協力を求めた。隣にいてほしかったのだ。いつか手に入れるはずの、思い描いた景色を見るとき、そのすぐそばに彼女の姿があってほしかったから。
 ところがどうだ、そんな甘ったるい時を過ごしたはずなのに、結局クロードはこの五年間、ついぞ彼女と会うことはなかった。ガルグ=マクの戦いが終わって卒業がうやむやとなった以降、皆あっけなく散り散りとなってしまったのだ。特に彼女は王国の人間であり、ただでさえ帝国の侵攻を受けているのだから、そうやすやすと同盟と王国でやり取りができるはずもない。盟主代行を務め、数年後には盟主を継ぎ、慣れない職務の傍らで野望実現のために画策する日々を送るクロードにできたことは、ただ心の片隅に彼女の姿を残しておくことだけだった。
「まったく、後悔ってのは生きている限り、ついてまわるものなのかねえ」
 本当なら、もっと策を講じることはできたはずだ。
 たとえば婚約でも何でも取りつけて、彼女を無理やり同盟に連れ帰ってしまうこと。
 適当な理由をこじつけてオフェリー家との縁をつくること。
 彼女に流れる王家の血を使い、同盟と王国の協力の証という外堀に、お互いの家を利用すること。
 政略結婚だなんだと言われようが知ったこっちゃない、彼女をこの手に抱くためにやれることなんて、きっと無数にあったはずだ。
 クロードは天を仰ぐ。彼女との仲に酔いしれて、何もせずに見送ってしまった浅はかな自分を嗤うように。
 諦めの悪い自分を嘲ったこともあった。その諦めの悪さが表れたのがきっといつもの夢であって、もしかするとあれは自分への罰なのかもしれない。彼女がそんなことをする人間だとは露ほども思っていないくせに、しかし罰を与えようとする「何か」はいつも彼女のかたちをしている。おのれの作り出す幻影とはいえなかなか質が悪いものだと、クロードは人波を眺めながらやや大袈裟に肩をすくめてみせた。
 そう、クロード=フォン=リーガンという男は、どうにも諦めが悪いのである。だから今だってこうして大広間から大修道院の門を、引いては市場のほうに目をやって、人混みのなかに彼女の姿を探し続けているのだ。
 彼女が約束を反故にするわけはない。賭けのような確信めいたような、そんな不可解な心中のまま、クロードは暇を見つけてはここで彼女を探している。
 後悔は決して先に立たない。何度もこの身で味わったはずなのに、どうして自分はまた、こんなにも無様な失敗を犯してしまったのだろう。挽回するにも結局は彼女の存在が必要不可欠であるがゆえ、つまり今は彼女がここに来てくれない限り何もできない、その歯がゆさがまたこの胸を乱してくるのだけれど――
「何を後悔しているの?」
「そりゃあ……どうしても欲しかったものを、怠惰と傲慢で取り逃がしちまったこと、かな」
「あら、あなたったら随分とお馬鹿さんなのね。立派になったのはその髭だけなのかしら?」
「はは、そうかもな。なんたって俺は同盟で一番の――って、おお!?」
 突如、背後からかかった懐かしい声。あまりにも耳馴染みが良すぎて、何ら疑問を抱かずに会話を続けてしまったことをクロードは恥じた。
 ぎょっとしながら振り返ると、そこにいたのは今まさに恋い焦がれていた女の姿。少しだけ伸びた焦げ茶の髪をかきあげ、随分と身軽な格好になった彼女は――ウィノナ=エスティア=オフェリーは、五年前と変わらない涼し気な笑みを浮かべてクロードを見つめている。背丈はそう変わらないようであったが、以前に比べていやに清々しい顔をしているように思えた。
 突如として現れたウィノナに、クロードの腹の奥が、感情という感情がぐわんぐわんと揺さぶられる。
 本音を言うなら、今すぐにでも抱きしめてしまいたかった。この細い体を腕のなかに閉じ込めて、今度こそ離してやるものかと、いっそ誰にも見られないうちに連れ帰ってしまおうかと思ったのだ。胸の奥からぞくぞくと熱の波が湧き上がる。心の底が、本心が、血や肉の一片ですらも彼女に好きだと叫んでいるように感じられた。五年ぶりに見たウィノナはクロードにとって、ひどく刺激的かつ甘美を体現したような姿に見えている。
 けれど、今こうして欲望のままに手を伸ばしてもかわされることは目に見えていたし、そうでなくともこの剛腕で簡単に拘束を解かれてしまうことを、クロードはあの一年間の触れあいで深く理解してしまっていた。
 本能をなんとかかんとか抑えつけ、クロードは平常心を着込んだように声を出す。声音は上擦っていないか、情けないすがたを晒してはいないか。再会の第一歩でこれ以上無様なところを見せてたまるかと、おのれの理性に祈るような気持ちで彼女と会話を試みる。
「お……お前、ウィノナ。どうして……」
「『どうして』ですって? ひどい言い草じゃない、集まろうって言ったのはあなたでしょうに」
「いや……そうじゃなくて、だな。その、遅かったな、と」
 けれどその決意もむなしくもごもごと言い淀むクロードに、ウィノナはくすりと笑ってみせた。その笑顔が五年前より大人びていて、確かな月日の経過にクロードはまた胸の奥をじんわりと熱くさせる。
 今すぐにでも触れてしまいたいという、浅はかな欲の熱が猛るように激しく渦巻く。けれどこのご時世のなか安全には程遠い旅路を経てきたであろうことは明白なので、すんでのところでぐっとこらえた。否、こらえろとおのれに言い聞かせたというほうが正しいか、波のように寄せては返す衝動を、何度も何度も追い返しては隠した首筋に汗を伝わせている。
 クロードの言葉に何かを考えるような素振りを見せ、ウィノナはちらちらと周りをうかがい、ここでは人の目があるから、と彼の手を引いて歩き出す。ああ、まただ。分厚い手袋越しでは手のひらの感触も、体温すらも感じられないというに、またクロードは迫るような情欲に胸をかき乱されている。
 女のことを露も知らない童貞じゃあるまいに――喧噪にかき消されそうな独り言は、改めて耳に入ることで少しだけ冷静さを取り戻させてくれた。
 そうこうしているうちに人気のない路地裏に案内され――ここはかつてよく逢瀬を繰り返した場所だ――やがて意を決したらしいウィノナがゆっくりと唇を開いた。薄く形の良いそれは、五年前には見られなかった口紅が薄っすらと塗られていた。
「諸用を片づけていたら時間がかかってしまったのよ。ごめんなさいね、間に合わなくて」
「諸用……って。また何か危険なことをしでかそうとしたんじゃないだろうな? ほら、鋼の剣を折ったときみたいに――」
「やだ、そんなのいつの話よ。……仕方ないでしょ、さすがの私でも家ひとつ潰すのはなかなか骨が折れたのだから」
 ウィノナは事もなげに言った。家を、ひとつ潰してきたと。
 相変わらずの涼やかな目元は嘘をついているように見えないので、それが真実であることは聞き返さずとも明白だ。彼女は家を潰してきた。口ぶりからして、十中八九オフェリー家のことであると思われるが――探るようなクロードの目に、ウィノナは淡々と答えを返す。
「養父は元々、私の紋章を使って王家に縁故を作ろうとしていたから……そんな私が同盟に降って、仮にあなたと親しくしていたら色々面倒なことになるでしょう? それでなくても、このご時世に同盟に行くだなんて何を言われるかたまったものじゃないわ。今は良くても絶対にいつか身動きが取れなくなるし、それなら一族もろとも潰してやろうと思って」
「お前……とんでもないことをやらかしてきたもんだな? いや、俺としてはお前がここに来てくれてそりゃあもう有り難いんだが……それで、結局のところオフェリー家は」
「しっかり没落させてきたわ。そもそもファーガス自体情勢が不安定だったし、準備さえ整えればすぐだったわね。……殿下ももういないのだから、簡単に壊れてしまうのは当然かしら」
 ――殿下。彼女にとってのディミトリが一体どれほどの重みを持っているのか、そのすべてを知っているわけではなかったけれども、語調や表情から彼女がどれだけの意志を持ってここに立っているのかは理解できる。吹きすさぶ守護の節の風が、幾度もその身を切り裂かんとしたであろうことも。
 思わず伸びかけたクロードの手。けれどそれがウィノナの肩に届くより先に、彼女は暗く俯いていた顔を上げてクロードを見た。その表情は悲嘆に暮れているようでもあり、どこかいたずらっ子のような残酷な色を湛えているようでもある。
「まあ、ちょっと口では言えないようなこともしてしまったけれど……死人に口なしとも言うし、バレなければいいわよね」
 そう言って、ウィノナは肩をすくめて笑った。後悔の類などしていないように見える。
 彼女は覚悟を決めてきたのだ。あの日と同じように意を固めて、おのれの道を切り拓いてここまで来た。クロードというたったひとりの盟主のために、家も人生も擲つようにして、何の柵もない一個人となってここに立っているのだろう。
「あとは……そうね、オフェリーの家はもうないし、その姓を名乗って面倒事が起きるのもゴメンだもの。今はもうガニエのほうを使っているの、そちらもよろしくお願いできるかしら」
「ガニエっていうと、お前がガスパール領にいた頃の?」
「そう。ウィノナ=ガニエ、それが私の本当の名前ね。あなたには一番に教えてあげるわ」
 くすくすと笑うウィノナは、まるで小さな宝箱を見せる子供のような顔でクロードのことを見ている。表情、口振り、仕草、そのどれもがクロードを特別だと言ってくれているようで、胸の奥に巣食っていた疑念や後悔がほんの少し軽くなったような感覚すら覚えてしまった。
「はは……お前、本当に頼もしいな」
 安心した、のだと思う。愛していたはずの女に、手中に収めないまま離れてしまった彼女に、少なくとも友愛の感情を持ってもらえていた事実について。深く長い安堵のため息を尽きながら、晒すまいとしていた情けない顔を漏らしそうになっている。
 クロードは思わず手で顔を覆い、彼女がここに来てくれたことを心の底から感謝した。彼女の決断にも、存在にも、切り拓いた先の到達点に自分を置いてくれたことにも、すべて。
「あなたの野望とやらを信じてここまで来てあげたのだから……絶対叶えてみせなさいよね。でないと承知しないから」
「……ああ、もちろん。お前がそばにいてくれるなら百人力だよ。――もう何も怖くないな」

 
20210122 加筆修正
20200818