春先の夜長

「――なあ、ウィノナ。ちょっと聞いてくれるか」
 それは、孤月の節も末のことだった。
 月明かりに照らされたクロードの頬の輪郭を、ウィノナはぼうっと眺めている。室内上部の窓枠から差し込むそれは非常に優しい光で、程よい気だるさに包まれたこの部屋をゆっくり癒やしてくれるようだった。
 今夜も二人は無益に体を重ねている。先刻、夕餉を終わらせて夜の帳に身を預けようとしていたウィノナを、どこか思いつめた様子のクロードが逢瀬に誘ったのだ。「今日は調べものには行かないのね」と軽口を叩いてみたものの、彼からは歯切れの悪い返事しか返ってこなかったし、会話もそこそこのままいささか強引に彼の部屋へと連れ込まれた。
 けれど今宵の共寝はあまりにも性急で、どこか胸の奥に引っかかるものを感じる。モヤのように残るそれがもしも寂しさであるとするなら、ウィノナはきっと、彼と夜を明かすたびにそれについてまわられていた。無益で何にもならない夜を過ごせば過ごすほど、クロードが優しく触れてくるほど、なぜだかどんどんと彼が遠ざかるような気がしていたから。
 どれだけ体を重ねてみても、どれだけ彼のありのままを覗いてみても。口づけや逢引、秘密の共有、世の恋人たちが望むことを何だってやってきても、自分たちは未だ“恋人ごっこ”を抜け出せない。それはひどく疎んでいたはずの行為であって、だからこそ終わらせよう、終わらせよう、早く楽になりたい、そう思っていたはずなのに、今や抜け出すことも抜け出せないことも、どちらもひどくこの胸を締めつけてやまない。
 苦しくなるからやめたかったのに、だからこそ溺れてしまうことはわかっていたのに。今となっては後の祭りで、どれだけ悔やんでも過去のあやまちを取り返すことはできない。
 彼とのふれあいに安らぎを感じてしまう前に、自分は彼のもとから離れてしまわなければいけなかったのに。
 ぎし、と寝台の軋む音がする。一人用にしては少々大きなそれであるが、二人で体を預けていてはさすがに劣化も早いのだろうか。卒業する頃にはこっそり買い替えておくべきかもしれない、そんな似つかわしくないことばかりを考えて、ウィノナはこの甘ったるくも優しい逢瀬の終わりから、未だに目を背けようとしている。
「……あら、なあに? 楽しい話かしら」
「いや……俺にとっては結構、その、打ち明けるのに勇気がいる話、です」
「まあ、あなたでもそんなふうに怖気づくことがあるのね? ……いいわ、聞いてあげる」
 なぜこんなにも寂しいような、侘しいような気持ちがつきまとうのか――それは、今宵が二人にとっておそらく最後の夜になるからに他ならない。
 それは単に士官学校の卒業が迫っているという意味でもあるし、もはや目前にいるであろう帝国の進軍を食い止められるのか、という懸念があるからでもある。どこか遠い世界の出来事だと思っていた「戦争」という現実を前に、もしかすると少しだけ怖気づいているのかもしれない。自分たちは生き残れるのか、否、生き残るつもりではいるけれど、どうしても“もしも”を過ぎらせてしまうのが人間というものだろう。だからこそ、クロードもやけに重そうな口を開いたのだろうから。
「その……お前もなんとなく察しているとは思うが、俺の故郷は外の」
「パルミラでしょう?」
「……母は」
「オズワルド閣下のひとり娘、ティアナ様。なんでも、愛した男を追いかけてフォドラを飛び出したそうじゃない」
「…………」
「やだ、ふふ、そんな顔しないで。私も私でちょっとだけ、あなたのことを調べてみただけよ」
 ――言ったでしょう? あなたのこと、根よりも深く掘ってあげるって。
 宵闇によく似合う妖艶な笑みを浮かべ、ウィノナは事もなげにそう言い放つ。彼女のその言葉を聞いたクロードは、お前には敵わないよ、そう言いながら頷いた。
 けれどそれはそれとでも言いたいのか、話の腰を折られた彼はウィノナの顔を胸に押しつけるだけでなく、あまつさえぐしゃぐしゃと後頭部をかき混ぜてくる。髪が傷んだらどうするのだと悪態をついてみるものの、なんとなく嬉しそうな様子のクロードにそんなものは通用しない。髪は女の命でしょうが、そう言ってみてもやはりくすくすと笑うばかりだ。
 はあ、と大きめのため息をついたウィノナは、未だ顔を押しつけられたまま、手持ち無沙汰を慰めるようにクロードの胸板へ頬を寄せる。これは彼女が厭うていた“恋人ごっこ”のふれあいで、それがわかっているのだろう、彼女の行動に面を食らったらしいクロードもぴたりと動きを止めている。
 ……今日で最後なのだから、今夜くらいはこの肌の感触に浸ってみてもいいだろう。そう思っただけの、ただの気まぐれなはずなのだけれど。
「ごめんなさい。……続けて」
 敷布のなかでゆるゆると絡ませてしまった足だってきっと、そんな気の迷いに他ならない。珍しくもしおらしい彼女に乱されているのだろうか、どこか落ちつかないような、けれども真剣な語り口で、クロードはすべてを打ち明け始めた。
 自分がパルミラの出身であり、パルミラの王族に連なる父と、フォドラ生まれの母との間に生を受けたこと。母の血のせいで“臆病者”だと罵られ、いつ命を落とすともしれない、悲惨な生涯を送ってきたこと。何を言ってもやまなかった仕打ちから逃げるようにパルミラを出て、けれどもフォドラに来たって差別の意識や偏見には何も変わりがなかったこと。痛みばかりではない、彼にとっては宝物にもなるような思い出話をまじえながらゆっくりと、ウィノナは彼の言葉でもって、その壮絶な半生をたどった。
 そして――だからこそ“壁”を壊そうとしていることも、彼の壮大かつ無邪気な夢のことも、同時に知ってしまったのである。突拍子もないと言えばそうなのだが、クロードは普段の行動が行動であったがゆえに、別に天地を返すような驚きはなかった。
「――なるほど、ね。普段あんなにふらふらして何を考えているのかと思えば、随分と大きなことをしでかそうとしてるじゃない」
「ぐ……ま、まあな。けどこれしかないんだよ、いま置かれている現状を打破するにはさ」
 目を閉じて聞くには刺激が強すぎる寝物語は、程よくのしかかっていた微睡みを簡単に奪っていく。
 果たしてもう何時になろうとしているのか――ウィノナの目はもはや完全に冴えきってしまっていて、それは目の前にあるクロードの胸板を引き剥がしてやろうかと思ったほどである。夢見心地な雰囲気に浸るにはあまりにも理性が強すぎて、けれども彼女の瞳もまた、夢を語るクロードと同じようにきらきらと輝いているように見えた。
 それは、まるで幼い子供がたった二人の内緒話をするような。はたまた誰にも言えないちょっとした「計画」を相談する、ウィノナにはあまり縁のなかったささやかなイタズラ話のような、そんな光景を彷彿とさせるものである。
 言ってしまえばわくわくしているのだ。ウィノナにとっては人種も身分もまったく興味のないことで、むしろおのれの血のせいで窮屈な幼少期を送った身としては、彼の思う夢の話は心の躍るものであった。否、しかし理由はそれだけではない。彼女は素直に喜んでいる。クロードが……ウィノナにとってある種の「特別」を持っている男が、自分にだけ秘密を打ち明けてくれたという、その揺るぎない事実に。
「――で? あなた、どうしてこんな大事な話を、私にしてくれたのかしら」
 そして、だからこそ浮かんだウィノナの疑問に、クロードはなぜだか怯むような様子を見せる。その程度はなかなかのもので、ウィノナはいま彼の胸板によって視界をほぼ奪われているままであるのに、もごもごと口の中で言葉をこねくりまわしているのも、頭上にある彼が一体どんな顔をしているのかも、手に取るようにわかってしまうほど。
 言えないのなら別にいいわよ、と次ごうとしたとき、腕枕をしていた彼の右手がぐいとウィノナを抱き寄せる。頬を寄せるだけではない、しっかりとした抱擁に胸がどくりと戦慄いたのは――きっと、さっきまでこの身を重ねあわせていた、その余韻から来るものだろう。
 もちろん、ウィノナの手にかかればこの腕を振りほどくことなど容易い。けれども此度もなんとなく、そうさせない気迫のようなものがあった。ゆえにウィノナはただ、静かに体をくっつけたまま彼の言葉を待っている。
「……そばにいてほしかった。俺がこの夢を叶えるとき、近くにお前がいてほしいと思ったんだ。お前と一緒に夢を叶えられたらって……いや、もしかしたらお前に、俺のことを受け入れてほしかったのかも」
 そう打ち明ける声は、今まで聞いたどんな声色よりも情けない、意気地なしのそれだった。臆病者を否定してきた男がなんという醜態を晒しているのかと思ったけれど、しかし決して弱々しいわけではないし、何よりたった二人の逢瀬で見せてくれた事実にささやかな高揚を感じる。クロードの言葉に一喜一憂させられるのは、ああ、きっと金鹿の学級に来たときから、変わらないことであったのだ。
 けれど、そうやってふたつとない喜びを感じるかたわら、普段あんなにも飄々としている彼からは予想もつかないような姿に、ウィノナはだんだんと笑いを抑えきれなくなっていった。なんとか喉奥で押さえつけようとしていたそれも、気づけばけらけらと大きなものに変わってしまって、同じように頭上の彼もバツの悪そうな様子に変化していく。これはまずいと思わず身を起こして涙を拭い、笑いすぎて涙を流したのなんて初めてかもしれないな、そんなふうに自分の半生へ思いを馳せた。
 眼下にあるクロードがほんのりと頬を染めているのも月明かりによって丸わかりで、照れているらしい彼のすがたは相変わらず……そう、相変わらず可愛いのだなと、心からそう思ってしまった。
「お前……せっかくの良い雰囲気がぶち壊しなんだが」
「ふふ……っくく。ごめんなさいね。でも決して馬鹿にしているわけじゃないわ」
「どうだか……」
「本当よ。――いいわ、あなたのその『夢』、私も一枚噛ませてちょうだい」
 拗ねたようにそっぽを向いた背中へ指を這わし、びくついた隙をついて敷布をはぎ取ってやる。夜はまだまだ長いのだ。煌々と月が輝くかぎり自分たちには時間がある、そう自分に言い聞かせながらウィノナはクロードに跨がる。
 ああ、こうして乗っかってやれるのもきっと今日が最後だ。なぜなら自分たちは明日から学生身分ではなくなるわけで、つまり“恋人ごっこ”も今日をもって終わりである。
「にしてもあなたも罪な人ね、こんなことを言って、いったい何人の同志を口説き落としてきたのかしら――」
 言いながら。ぐちゃ、と胸の奥が潰れた気がして、ウィノナはくっと言葉を切る。今の彼女は、半ば無意識のように言葉の刃をおのれの心に突き立てていた。
 自分が特別なわけではない――何度も何度も言い聞かせてきたことだ。何度も何度も目を逸らした。何度も何度も気づかないよう、悟らないよう蓋をした。自分たちは恋人なんてものではないし、ただベレトに引き抜かれたから巡りあうことができただけの、運命にも奇跡にも裏打ちされていない赤の他人に等しいのだと。
 たとえ今の自分にとってこの男が特別であったとしても、それが相互になる日は、きっといつまでも訪れないのだ、と。
「ふふ……ダメね、私も結構馬鹿みたい。最後の最後に、こんなことして」
 あの舞踏会の夜、どうして体を重ねたのか。どうして彼に身を委ね、彼との関わりに喜びを感じ、ただの一度も撥ねつけることが出来なかったのか。その手にぬくもりを感じてしまった理由は? 焦がれて仕方がなく、背中を目で追い、足跡をたどり、彼の欠片を掴もうとした、その動機の大元にあった感情の名前はいったい何であったのか。
 ずっと、何節も何節も遠ざけてきた疑問の答えを、ウィノナはとうとう、最後の日に認めざるを得なくなってしまったのである。
「ウィノナ――お前、」
「黙って。……でも、そうね。せっかくあなたが打ち明けてくれたんだもの、私もあなたに『秘密』を教えてあげる」
 この日の朝陽は、呆気ないほどすぐそこにあった。

 
20201109 加筆修正
20200815